鏡に写る姿。「環境」その3
いい加減、別の話を書きたいからそろそろまとめたい。
「正論」、あるいは「理想論」が社会が個人に求める物。
自分が何度かエッセイでも書いてきているが「正論」とは「マニュアル」、誰でも言えると言う事に繋がる。
正論だから、理想論だから誰でも言える。
教育に体罰は必要、暴力は必要、といくら体罰肯定派の人間が言っても現代の「正論」にそぐわない。
確かに「正論」は誰でも言える。
だが社会の正論の一つ、「火垂るの墓」においても清太に求められた「働く」と言う事。
働く、つまり仕事などでも目標を達成すれば過程はどうでもいい、なんて仕事はない筈だ。
農家にだって農薬類の散布絡みだったり、作業日報の提出だったりある。
自分が工場で働いていた時も単に仕事の目標達成だけではなく整理整頓、タイムカード、様々なルールがあった。
最低限「誰でもできる」
そして最低限「誰でも守る必要がある」
その上で身体の不自由な人だとか、あるいは子供のためにフルタイムでは働けないだとか、そうした問題を抱えた人には相応の働き方がある。
仕事だって「不足の事態」は起きる。
それを「誤魔化す」か「正直に助けを求める」か。
まぁ、「投げ出す」と言うのも一つの選択肢ではあるがここでは考えないものとする。
自分にはどうしようもない事に対して誰かに助けを求める際に天秤にかけるのは他人に見せる「弱み」、「恥」と「面倒臭さ」の問題である。
「弱み」を見せれば貸し一つ。
「恥」を忍んで。
後の事を考えると「面倒臭い」。
そうやって天秤にかけて誤魔化すと言う選択肢をとる場合に立場の弱い者は「隠す」。
しかし立場の強い者は弱い者に責任を「転嫁」する。
この転嫁、「嫁」と言う漢字が使われているが「嫁がせる」から来ている。
つまりこの「嫁ぐ女」は自分から結婚相手の家にいくのではなく、あくまで「受け身」である。
「転」の字は移動するという意味であり、そこから「人に移す」「責任転嫁」となったわけだがつまり立場の強い者が誤魔化す時というのはその問題に対して「備え」もしていないし、「他人に助けを求める」事もしようとしていない。
ドラゴンボールは「戦前」。だから修行して「備え」をして、それでも駄目なら「助けを求める」事を厭わないし、逆に「助けを求められる」と損得無しに助ける。
何故なら戦前にこなしてきた修行は「戦う為」の備えであり、それは自分、そして誰かを助ける為であるから。
火垂るの墓は「戦時中」。だから突然の事に「混乱」してとにかく「今できる事」をしている。
清太も節子も親と離れ離れとなり、西宮のおばさんの元に身を寄せたがその西宮のおばさんだって戦争に振り回されるただの一般人だ。
お互いに「混乱」していて「余裕」がない。
そしてお互いに「信頼関係」もない。
だから拗れて決別した。
そして清太と節子の顛末を知った事でおばさんは「苦悩」する。
「余裕」がないから、と言い訳できる。
ただ「大人」なら本来なら子供に気遣うのが当たり前、子供を護るのが当たり前。
子供と同じ目線で対話したのではなく、子供と同じ土俵に上がり、絶対に勝てる試合で子供を下した、弱い者いじめ。
戦時中だからこそ、弱い者を護らなければいけない。ソレはドラゴンボールの「戦前」の気構えに通じる。
ホラーゲームの親子のそれは「戦後」。
親子ではあるが「大人」と「子供」ではなく「大人同士」である。
するべき教育が全部終わった後にvtuberの道を選んだ娘に対して「普通」でない事に腹を立てる母親。
結局、母と娘という「立場の強さ」によって自分の不幸の責任を娘に転嫁しようとしている。
娘が「大人」になった段階でまだ支配しようとしている。
それは母親自身の不満からくる「八つ当たり」に近い。
「私がこんなに苦労して育てたのに思い通りにならなかった」
苦労すれば、我慢すれば「幸せ」を手に入れられる。
まるで昔の自分みたいだが、自分は色んなものを我慢して「普通」になりたかった。
しかしこの母親はどうか。
結婚して娘がいて、それなりの暮らしをして。
いうなればもう既に「普通」なのだ。
さらにそこから娘という「他人」の人生すら支配しようとしている。
何故なら母親の言う「普通」とは常に「自分」基準だから。
娘が人様に顔向けできない恥知らずな行為をしているから「普通」の仕事を求めているわけではない。単に「母親自身」が恥ずかしいから。
それは娘の教育において「面倒」だから娘に歩み寄ろうとしなかった。
そしてそうした自身の「弱み」を暴かれないように「普通」を持ち出す事で子供に責任転嫁する。
ホラーゲームのそれは前にも書いたが本当にワンシーンでしかないし、ホラーゲームとしてのストーリーには直接は関係しない。
だから正直、深読みし過ぎなのは自覚している。
あくまでゲームとして、エンタメとしてはそこまで考える必要はない。
しかしこの3作品、3組の親子に対しての考え方が
「親の言う事は正しい」「子供は我儘だ」というコメントの多さに辟易する。
そして「気を回す」、「背景を見る」「環境を考える」とはここまでするべきなのだ。
「教育ママが厳しくしたから戦闘民族だけど学者になったから正しかった」
「戦時中に皆我慢して働いているのに、一人だけ働かないでいたから死んだ」
「vtuberなんて不安定なもの、親が喜んで応援するわけがない。」
全て「正しい」。全て「正論」。
だからこそ、その「正論」が社会が個人に求めるものだからこそ、親はしっかり「備え」、「責任」を持って「大切」に育てなくてはいけない。
それを「誤魔化す」から子供は親を信用せず、道を外れる。
「戦い」のための「備え」ではなく、「親のため」に動くように「洗脳」されてきたのでは自分の「好きな事」すら分からない。
親から解き放たれてようやく成長できる「子供」になれたのだ。
そこから先はもう備えをしてきた「挑戦」ではなく、手持ちの手札で勝負するギャンブル。
そんなギャンブルみたいな育て方をされれば「この世は運」と言う言説に力が宿る。
どうせ駄目なら有り金全部かけてギャンブルで一発逆転。
それが「日本」の一定数に支持されるならそこにはそうなるだけの「環境」があると言う事だ。




