鏡に写る姿。「環境」その2
煮詰まってる。
「社会が認める偉い学者さんになりなさい」
「戦争中で人手が足りなくて皆働いているからお前も働きなさい。」
「普通の仕事をしなさい」
結局のところ、母親からのメッセージは
「社会」「皆」「普通」という人の目を気にするところから始まる。
「他人」を意識すること自体をとやかく言うつもりはない。
というよりむしろそれは大切な事だ。
身勝手なまま、他人に迷惑をかける、他人から奪う事が前提では社会では生きていけない。
ただそのメッセージを受け取る目の前の子供もまた「他人」である。
今はまだ社会の一員というには子供という未成熟な肉体に未成熟な精神を宿す生き物は物足りない。
しかし、「将来」の「社会」の一員であり、やがては老いた自分が迷惑をかける。
ラジオの人生相談番組を時折エッセイで話題にする。
10代、20代の相談者は滅多に聞かないが、30代から80代と様々な年代の人間が相談に来る。
子供の事、親の事、夫婦の事、職場や近所の人間関係、その他にも法律絡みの事、そして自分の感情のコントロール方法など。
「大人」になっても、「老いた身」になっても単に歳を重ねただけでは感情を完全にコントロールする事は不可能だ。
人生相談をする内に今まで抑え込んできた怒りや悲しみ、自分の心が溢れ出して泣く者がたまにいる。
また身勝手な者は番組内の先生に論破されて泣き出すものもいる。
男であっても、女であっても、比較的若い者でも老人でも変わらない。
その泣き出す者達、身勝手な者も含めて共通するのは
「今まで自分は頑張ってきた、苦労してきた。」
と言う我慢によるもの。
だから報われて当然、幸福になって当然、自分の我慢は正しかった。
自分もその気持ちはよく分かる。
だがそれで他人の権利を奪う理由の正当化にはならない。
「鏡に写る姿。寄り道」において娘へのビンタ一発で逮捕になった父親についてのコメントの話をした。
その中で体罰ありきの教育を正当化する者の話がいたわけだ。
「子育てした事のない者に限って『根気強く説得』そんな理想論を語る」
自分はそれが「教育」とは「準備」であり、その「根気強く説得」が所謂「準備8割」に相当する、と考えているためそれが「理想論」とは思わない。
ここで言いたいのは彼等の否定している「理想論」とは何か。
社会で「暴力はいけない」「暴力は犯罪」とされているのは極めて一般的な常識だ。
しかし現代における体罰肯定派の人間は学校で体罰がされなくなったために家で行う、と言う理屈で正当化する者が多い。
「痛みを知らない人間はダメ」と言う理屈らしいが、そうした肉体的な痛みをどうしても知らせたいのであれば格闘技や武道をやらせれば良い。
素人の暴力による体罰よりもプロの指導のもとで安全に痛みとその対処法、心構えを身につければいい。
と言えば「そうした意味じゃない」などと文句を言うのは分かってはいる。
しかし「暴力は駄目」という社会の理屈。
それに反して「教育に暴力は必要」という体罰肯定の者達。
結局のところ、体罰を肯定する者、親自身が子供のころ受けてきた「体罰」とそれに「我慢」してきた自分が正しかった、そう認めてほしい、それだけだ。
ようは「慰めてほしい」だけである。
その上でこうした者達、「古きよき日本人」のいうところの「理想論」とは何か。
それは社会が個人に求める「正論」である。
つまり火垂るの墓において「社会」が求めた「働け」という「正論」に反して働かなかった「清太」と変わらない。
正論を疑って正論に歩み寄らなかったのだから。
清太のように「正論」を疑い、悩み、抗えば「今死ぬ」
体罰肯定論者のように「正論」を疑わず、何も考えずに従えば「後悔する」
そして後悔する事から目を逸らせば行き着く先は「他人の所為」。
「最近の子供、若者は情けない」
「自分達の頃はもっと辛い事を頑張ってきた」
体罰がかつては教育として許容されていたのに今は違う。
「正論」も時代とともに変わっていく。
その正論に「自分」で従う事を選んだ以上、自分達が信じたものが「正論」の立場から引きずり降ろされて自分達が「理想論」と思う理屈に取って代わられたのも「自分達」の選択の結果だ。
そしてその「理想論」に従い上手くやっている者達もいる事も事実だ。
「正論」を盾にして安全圏から殴るような事をしているから「正論」が変われば通用しなくなる。
「転売ヤー」のような輩も屁理屈を捏ねて「正論」を盾にしていたが今では悪質な転売ヤー対策として企業側が色んな処理をしており、かつての「正論」という屁理屈は通用しなくなっている。
今更「正論」に文句をつけたところで仕様変更は覆らない。
「正論」を盾にしか見ていないから「子供」の所為にする。
そして自分の「行動」が他人に与える「影響」を理解しないから変化した正論が「理想論」になる。




