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何か書きたい。  作者: 冬の老人
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鏡に写る姿。「環境」その1

これまで書いてきたものの結論をまとめると

・子供の時間軸→「児童」の時期から「少年」になるまでに信頼関係を。「少年」から「成人」となるまでに適切な距離感で「親離れ、子離れ」を。

・母親以外の人間→母親と同じ価値観でありつつ、母親とは逆の方向で社会との繋がりを示す父親が必要。

母親が社会に求められる100点を示すなら父親はセーフティとなる最低限、60点を。母親なセーフティとなるなら父親は100点を。

・第2の父親→両親が与える「愛情」と「生きる力」とは異なる「視点」と「生きる知恵」を与える存在が必要。


これらが揃っていたのがドラゴンボールのチチと孫悟飯の親子である。

そして、揃って居なかったのが残りの「火垂るの墓」と「ホラーゲーム」

である。

そして「寄り道その2」でも語ったようにこの「揃って居なかった方」は両方とも「戦後」である。

正確には火垂るの墓の方が「戦時中〜戦後」、そして現代日本を舞台にしたホラーゲームの方は「戦後80年」という事。

一方、ドラゴンボールは他2つと比べるとファンタジーではあるがバトル漫画であり、国同士の戦争とは異なるが常に「戦い」の世界にある。


この「戦」というものが「環境」というものにおいて「共通点」となっているのだがその「戦」の後に続く言葉が異なるのだと自分は思う。

ドラゴンボールは「戦前」。

火垂るの墓は「戦時中」。

ホラーゲームは「戦後」。

前、中、後。

この「戦」に対してその世界のキャラ達の向き合い方。

それが「教育」とも通じているのだと思う。


ドラゴンボールの「戦前」という向き合い方。

ドラゴンボールのキャラは戦いに向けてよく修行する。

常に「戦」が後に待ち構えている。

だから備える。それ故に修行を必死にやる。


火垂るの墓は「戦時中」。

だからとにかく出来る事をやる。

だから「働く」事は正論であるが常に迷いを生む。

「攻防一体」は理想論。前に出れば攻撃は当たるようになるが、こちらも被弾しやすくなる。

後ろに下がれば被弾しにくくなるが、こちらの攻撃も当てにくくなる。

常に相手がいるから100%の正解はない。

だから迷いを捨て「決断」を迫られる。


ホラーゲームは「戦後」

全て終わった。

「後悔」と「罪悪感」、それに「苦悩」する。

そして「諦めきれない思い」と「労ってほしいという思い」

それは仕方ない事だが、問題は「80年」という長期間、もう戦争を知らない世代が殆どでありながら、ずっとそれをやっている事。


何故80年の長期に渡り「戦後」から抜け出しきれてないのか。

それは戦争を通じて何を日本は決断し、その決断するために何を捨てたのか。

それは「男」と「娘」というそれぞれの期間を捨てた、と自分は考える。


「若い男」「働き盛りの男」が徴兵された。

残ったのは「子供」と「老人」。

そして戦後、敗戦国である日本において「娘」はパンパンとして米軍将校を相手に「女」になる選択肢を取らざるを得ない。

それ故にまともな「男」と「女」が繋がる事が少なくなった。


「火垂るの墓」において「今生きる為に」と子供に大人が働く事を命令した。

子供とはいえ中学生ともなればそれなりの身体にはなる。

肉体労働は出来ないことはないし、自分もくらいの頃には農家の長男として「手伝い」と言う形ではあったが畑の作業をしていた。

自分だけではない、昔ならそれは当たり前。

だがそれは「昔」の当たり前である。


自分の親の世代では家の手伝いは当たり前であった。

また、農薬散布では当然のように周りに配慮はなかったと言われている。

子供の通学路で子供が歩いていても当たり前のように農薬を散布。

おかげで子供の身体に影響が出た。


だが「今」は違う。

農薬自体の人体への影響も極力抑えられている。

農薬散布中は看板などを道に立てておき、道を通る人へ注意を促したりもしている。

今と昔で「物」が大きく変わった。

「他人」、「外側」への配慮もかなり変わった。

だが「身内」に対しては変わっていない。

だから「パワハラ」「セクハラ」といった「強者」から「弱者」に対するトラブルが後を絶たない。


この手の問題は「性欲」や「暴力性」とも結びつくが根本的には「身内」の問題。

だから人に相談しにくい。

そしてこの「身内」の問題となると「家庭環境」に通じる。

つまり「家庭」を取り仕切る存在、「母親」が根源にある。


火垂るの墓で清太はおばさんの言う事を聞かずに出ていったから死んだ。

一方でおばさんは清太が死んだから苦悩した。

なら清太が言う事を聞けば問題は起きなかったのか?

というより、その「清太がおばさんの言う事を聞いていた世界線」こそが今の日本という「環境」。

清太がおばさんが信頼に足る人間かどうか、節子を預けても良い存在か見極めるために悩まなかった世界。

おばさんが清太と節子を死なせなくても済む方法があったんじゃないか、と悩まなかった世界。


先述した通り、「攻防一体」とは理想論であり迷いを捨てる「決断」をしなければならない。

かといって無謀な「特攻」や及び腰の「逃げ」ではどの道勝つことなど不能。

仮に何かのラッキーで勝った所でこちらも疲弊している以上は次はない。

「次の手」を考えた上での「攻撃」だから「攻撃は最大の防御」となる。

「次の手」を用意した上での「防御」だから「防御なくして攻撃なし」である。


悩まずに行動する、とはそれが正解だから称賛されるが結果論だ。

悩まなければ確かに行動に移るまでの初速は速い。

だが次第に場当たり的に行動するしかなくなる。

後になればなるほど選択肢は限られていく。

ネガティブな見方をすれば悩まないとは危険性や勝算など、「可能性を否定した世界」でもある。

最後は「0か1か」「オン・オフ」。

「殺るか殺られるか」

獣の摂理は人間社会とは呼ばない。呼びたくはない。



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