鏡に写る姿。寄り道その2
「鏡に写る姿。寄り道」において娘にビンタして逮捕された父親の話をした。
自分はその事件よりもそれに対してのコメントへの自分なりの考え方をエッセイとして書いていった。
その中でも特に自分と異なる、と思ったコメント
「子育てした事がない奴に限って『子供の視点になって根気強く説得』と理想を語る。ならその理想論を語る人が躾すればいい。そんな悠長な事言っていたらいざという時子供は守れないがな」
と言うもの。
自分は教育とは「準備」であり、体罰とは「対処」であると考えているため、そもそもとして「教育」の中に「体罰」が存在している考え方の人とは考え方が違う。
そしてこうした人の理屈では「根気強く説得」する事と「体罰」をする事が同じ時系列で起こそうとしている行動故に「理想論」とするわけだ。
この「時系列」で考えた場合、「教育」については「準備8割」の考え方でいくと体罰ありきの考え方こそが8割を残り2割でひっくり返そうとするギャンブル的な考え方として見ていて、正直なところそうした考え方を見下している。
とはいえ、この「説得」と「暴力」による対処が同じものがある。
それは「犯罪行為」である。
ナイフや銃を持った人間が誰かを傷つけたり、人質に取ったり。
そうした危険な行動をする人間には力で抑えつける事も辞さない。
教育現場ではなく、犯罪行為に対しては「説得オンリー」は間違いなく「理想論」に違いない。
だが一方で「暴力」が必要な時にその理想論を求める人間達がいる。
「警察に銃を持たせるな」
「野生動物殺すのは可哀想」
そうした話をするのは「女」が主導である場合が多い。
正確には「母親」だろうか。
そうした必要な暴力が自分達に向かう可能性を危険視しての発言だろう。
一時の「自分達へ向かうかもしれない矛先」に怯え、本来の役割が見えなくなる。
武器を持った犯人へ素手で警察を特攻させるつもりか?
家畜や人間に害をもたらした野生動物を野放しにするつもりか?
本来の目的を考えればどっちがまともか分かる。
本来話し合う必要すらないのにも関わらず何故か曖昧にグダグダそのやり取りが続いている。
話は変わってこの間、SNSのトレンドにまた「フェミニスト」のワードが上がったのだがその時に外国人の男性の動画を見た。
「女の言う事は殆どが間違い。適当に流して本当に大事な事、20%くらいを聞けば良い」
この動画に対してのコメントは「よく言った」というような称賛のコメントが多かった。
自分も先述の「犯罪行為に対抗するための暴力の必要性」の事を含めて考えて確かにそうだ、と全面的に同意した。
その一方でこの動画を見て自分が感じた事は別にある。
「女の話は20%しか聞く必要がない、とするならその女の意見に振り回される日本人の男の話とはどれくらいの価値と真理があるのか」
「これが正しいのなら日本人の大人の言う事を子供は聞く必要があるのか?」
ドラゴンボールのチチが「現在」に偏り「地球の危機より勉強」と選択肢を間違えそうになった時に悟空が「未来」を正すというバランスがあるから育児が成功した。
つまり、「女」とは「今」を、「男」とは「未来」を見る立ち回り、そしてそのバランスが求められる。
これはチチと悟空が対等な「男女」だからバランスが取れているのに対して、日本人は何故そう上手くいかないのか。
それは「女と男児」、あるいは「母親と男」という力関係。
男と女が対等な関係ではないから。
この関係は「火垂るの墓」の「西宮のおばさん」と「清太」の関係と似ている。
極論で言えば全て「戦争が悪い」のだがその戦争のおかげで「過去」が消えた。
皆が「今」を生き抜くために必死となり、「未来」の事を考える余裕が無かった。
そして現代日本が舞台となった「ホラーゲーム」の「vtuberの娘」と「普通を求める母親」。
娘は「今したいこと」を行い、そして母親は何故今更「普通」を求めて止めさせようとするのか。
何故なら母親は娘が成人する前に娘の「未来」ではなく自分の「今」にいっぱいいっぱいだったから。
生活のためにお金や体力、様々な問題がある。
だからこそ娘が小さい頃に「未来」を考える必要があったのだが、何をどう言い訳しようが考えるべき時に考えて居なかったから娘は期待通りにならなかった。
「今」を司る女に対して「未来」を司る男が正すことが出來なかったから。
本来、このホラーゲームでこの母親は本当に小さなワンシーンであり、ホラーゲーム自体も短時間で終わるものだ。
ドラゴンボールや火垂るの墓とは設定も登場キャラも正直掘り下げる話ではない。
父親だって登場していないのだから本当に妄想でしかない。
だが「母親」が成人した娘に対して「普通」を求め、それに反発する娘の描写、それをプレイしてリアクションを取るvtuberの切り抜きを見るコメント欄。
そのコメント欄の「母親」の考え方が正しい、とする者達。
そのコメントが「男」か「女」かは分からない。
しかし、その「今」を司る女の意見を正しい、と考えるのはつまり、火垂るの墓の西宮のおばさんを正しいと思うこと同じ。
「戦時中」、あるいは「戦後」。
もう、80年近く経つ。
「西宮のおばさん」ですら後に「苦悩」するほど、あの選択肢に「正当性」があったのか分からない。
余裕がなく「今」だけを見て選んだ選択肢。
そしてまだ自分達、日本人は「今」を生き抜く事しか見えていない。
色んな技術が発展し、一般人が世界に向けて発信できるようにもなった。
自分みたいな人間がエッセイも書いて投稿している。
それほどこの80年は「今」を走り抜けてきたのに、ずっと「未来」が不安がつきまとう。
そして「鏡」として上げたドラゴンボール、火垂るの墓、ホラーゲーム。
そこに描写された「母親」の行動を「大人になった」者達が擁護し、描かれた「子供」を「愚か」と笑う様。
人生を「旅」と表現することがある。
だが男が司るべき「未来」が見えない場当たり的な旅は徘徊と何が違うのか。
この「鏡」を通して見れば今なお自分達日本人は、戦争を知らない世代でさえ本質的にはずっと「戦後」から抜け出せていない。
80年前からずっと「復興」している。
80年前からずっと「疎開」している。
80年前からずっと「立ち直っていない」。
少なくとも自分にはそう思える。




