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何か書きたい。  作者: 冬の老人
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鏡に写る姿。「他人」その3

ピッコロを「第2の父親」と称したがその役回りとしては漫画やフィクションの中の特別な存在ではない。

現代社会においては「教師」が近い。

ただし、教師は学校内でしか責任は取れないし、教師にだってプライベートがある。時間外、責任の範囲外での他人の子供の面倒まで見きれない。


学校の教師でなくても部活の顧問や外部の監督、塾や習い事の指導者といった役回りの大人はいるがどこまでいってもそれぞれの持ち場の範囲内からは干渉しづらい。

せいぜいが軽く挨拶する程度だろう。

「家庭外であり、かつ学校外という環境。」

そのような環境で孫悟飯に対スルピッコロのような「第2の父親」、「先達」となる存在はいないのか。

というといないわけではない。

正確には「過去には居た」。


エッセイでたまに「昔」の農家の話をする。

「長男は跡取り、次男は予備、女と三男以下は外に出す」

つまり、多くの家で「叔父」が一緒に暮らして居たのだ。

主に叔父は予備として、そして労働力として一緒に暮らしてはいたが跡取りの住む家とは別に小屋に住んでいたり、一線を引いてはいた、とされる。

そうした叔父は跡取りである兄夫妻とは別の視点から子供に新たな「可能性の知恵」を授ける。

その知恵とその知恵に至る別方向からの視点無しでは「予備」扱いの人生に価値を見い出せずに絶望するだろう。

ある意味、というより「処世術」である。


その「第2の父親」が与えてくれる「処世術」という「視点」と「知恵」は両親が与えてくれる「愛情」と「力」とは違うものだ。

しかし、日本が人権という概念を得る事でやがてそうした「長男の予備」として当たり前に子供の身近にいた叔父は独立し、「親戚」として遠くに立ち去る。


さて、その後に「第2の父親」はいないのか、と言えばそんな事はない。

それは昭和の頃に居た「ガキ大将」と呼ばれる近所の子供の統括とも言える存在だ。

なかなかそんな存在はアニメや漫画ですら聞かなくなったが、国民的アニメのドラえもんのジャイアンがイメージされる。

さて、そのジャイアンにどんなイメージを持つか。

「のび太の友達」であると同時に「暴力的」な面がまず上げられるだろう。


「第2の父親」の役割を「子供」にはさせられない。

5歳くらい年齢が離れていれば同じ「子供」でも制御できるだろうが2年、1年程度の年齢差で、ましてや同級生に同じ子供を制御するには「暴力性」が必要となる。

それは教師の体罰同様、「昭和」という時代と環境が許容していたから許された「暴力性」だが「子供」は「加減」などできない。


自分の知り合いの子供は小学生低学年の子供同士で取っ組み合い、背負い投げの要領で投げ、投げられた方が腕を骨折した。

背負い投げのやり方など知らない、見様見真似で投げた結果、投げる側の肩に相手の肘を置く形で強引に投げたのだ。

肘を支点にしてシーソーの要領で投げた、というより跳ね上げた。

子供ら受け身の取り方も知らないし、正しい投げ方も知らない。

そんな危険な「暴力性」は「父親」は知っている。

だからこそ冷静に叱る事はできるかもしれないが「母親」は冷静ではいられない。


母親は「女」であるために「第2の父親」から「処世術」を学ぶ事もなかったし、そもそもそんな事を必要とするまでもなく「女として生きる」分には十分な「愛情」を「父親」から与えられて育つ場合が殆どだ。

肉体的、物理的な目に見えて分かる暴力ではなく、「母親」と「娘の自分」のどちらが「父親からの愛」を得られるか、というレース。

そのレースを成長に連れて「母親」から「同級生」、「部活の先輩や後輩」「会社の同僚」と続けて勝ったり負けたりして価値を手に入れ、そしてパートナーの「男」を手に入れた。

そこには「暴力性」は存在しない。


「他人を制御する」を目指すものは「他の存在を思いやる事」。

一見、女の方が優しそうに思えるがそれは「価値観」が同じだからこそ可能な優しさであり、それは「愛情を与えられる」という同じレースに参加するからこそ出来る「共感」由来のものだ。

だからこそ理解できないオタク趣味は長きにわたり気持ち悪がられた。


だが男の本質はオタク。

漫画に、車に、ゲームに、スポーツに、あらゆる分野にオタクがいる。

そこに人はいない。例えアイドルオタクといえどその個人に好意を寄せるのとオタクとして推すのとでは意味が異なる。

しかし、そこに価値を見出し、価値を与える。

「暴力」とは「暴れる力」と書くが解釈を変えれば「暴く力」と言える。

価値を見出すにはその存在を「暴く」必要がある。


少し話が逸れたが女のその成功体験が「暴力」の不要、そして「価値があれば愛を与えられる」という事の考え方を増幅させる。

その「価値を与える存在」の事を忘れ、自らの価値を誇る。

だからそうして「母親」となった「過去の娘だった者達」の主導のもと、「ガキ大将」も平成となって消えた。

自分達のパートナーである男はそうした「ガキ大将」がいる環境、あるいは「叔父」といった「第2の父親」から両親以外の「第三者視点からの処世術」を学べる中で育ち、成長してきたというのに。

しかし、そのパートナーの女の考え方を孫悟空がチチに対するように嫌われる覚悟で「制御」出来ない男、つまり「父親」もまた問題だ。

何故出来ないのか、といえば「確固たる信念」がないからだ。



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