鏡に写る姿。「他人」その2
孫悟飯、つまり「子供」が「社会」と繋がるための「100点」の側から
「偉い学者さん」にしようとする母親のチチ。
対して「60点」の側から「最低限」を示す父親の孫悟空。
その「100点から60点」という40点分の間を揺れ動きながら子供が成長する。
しかしこれだけでは孫悟飯の学者へなるためのモチベーションは「母親」に褒められるためだけである。
それは孫悟空のライバル、ベジータが「誇り高き戦闘民族」という理由で戦闘に固執し、何度も敵を挑発して不要なピンチを招いたように心の中に隙を生む。
チチ自身、子供への期待が空回りして「孫悟飯を偉い学者にする。そのためには地球の事なんかどうでもいい」という思考に何度か陥っている。
そのチチの期待に応えようとする孫悟飯が本当に「偉い学者」になるためにはチチから指示された勉強だけではなく、自分自身から「偉い学者」になるための動機が必要だ。
しかしながら「偉い学者にならなくても問題ない」と生きるための「最低限」を示す孫悟空はセーフティとなる事はあっても強い動機となることはない。
また、山奥で両親と3人で暮らしていたため、同世代の友達などは高校になるまでは皆無と言って良く、何よりチチが勉強漬けにしていたために碌な遊びも知らない。
そこで孫悟飯にその動機付けのきっかけをもたらしたのが第2の父親とも言える「ピッコロ」である。
ピッコロは元魔族でかつて孫悟空の明確な敵として登場し、その後はライバル、仲間といった形に落ち着いた。
その中でまだ打倒孫悟空、という孫悟空のライバルという時期に宇宙から襲来した新たな敵を倒すために孫悟空と一時共闘。その時に孫悟飯に秘められた潜在能力を知る。
そして新たな宇宙からの敵の襲来を知り、その時に向けて孫悟飯を鍛え上げるために誘拐し、戦士として育て上げた。
この時点ではあくまでピッコロは敵を倒すための道具として、そして孫悟飯は自分を誘拐した悪人としての認識でしかなかったが長い間一緒に過ごす事でお互いに情が芽生え、「師弟」の関係となり、その信頼関係は孫悟飯がピッコロの力を大きく上回っても慕っている事から伺える。
チチと孫悟空の価値観は同じで教育方針も同じ。
その「安定感」「安心感」は確かに大事ではあるがその中だけの価値観では孫悟飯の目指す「偉い学者」とは「勉強ができる」という「能力」に限った話になる。
「何故学者になることが偉いのか」は「社会に求められるから」であり、そのためには実際に「社会」での「学者」の在り方や役割、必要性を孫悟飯自身が知る必要がある。
その「学者」の役割を知った上で更に「偉い」という事の意味を知る必要がある。
作中には「悪の科学者」や「悪の帝王」が存在する。
社会に必要とされるのは「科学者」も「帝王」も同じ事
ただ「学者」になるだけではなく「偉い学者」になるためには「悪」にならないための線引が必要であり、それが「矜持」となる。
家庭で能力は高くすることができる。
親から愛情、環境と手段を与えられて社会で生きる「備え」を得る事は出来る。
テレビを通してスポーツ選手を見たり、あるいは両親の仕事が社会的な貢献をして表彰されるのを見る事で「憧れ」を抱く事はできる。
しかし自分の「誇り」や「矜持」などをテレビ越しのスポーツ選手や親といった「他人」の実績を通して得る事は不可能だし、仮に「そんな気分」になったとしてもそれは「気のせい」である。
どこまでいっても「憧れ」は「憧れ」に過ぎず、他人の実績で得た「いい気分」は権威主義的な物に近い。
「 憧れ」から「矜持」へ。
そのためには行動する事が必要だが幼い子供一人で買い物に行かせる「お使い」がテレビ番組になっていたように現代の日本ですら幼い子供に町を一人で歩かせるのは危険という認識があり、そしてそれは間違っていない。
迷子になっていないか、事故や犯罪に巻き込まれていないか。
しかしいずれは子供は行動範囲が広がる。
そのための練習として、見守りとしての「先達」となる存在が必要だが「家庭」から「社会」を経験するための儀式に親が先達では意味がない。
どうしても親は過保護になるし、子供も甘える。
過保護にならず、子供が過度に甘える事もなく、それでいて最低限の「見守る」事ができる存在。
その役割を「ピッコロ」が担った。




