鏡に写る姿。寄り道
たまたまとある動画を見たのだが
「10代の娘が父親に一発ビンタされて父親は現行犯で逮捕」
という事件が起こったのだとか。
コメントでは色々あーだこーだと色んな人が意見を告げていた。
「たかがビンタ一発、親が躾しなきゃ誰が躾するんだ」
という父親の擁護意見。
「ビンタ一発で警察が動くはずがない。前々から虐待の相談があったのではないか」
と考察する意見。
そして自分が気になった意見。
「子育てした事がない奴に限って『子供の視点になって根気強く説得』と理想を語る。ならその理想論を語る人が躾すればいい。そんな悠長な事言っていたらいざという時子供は守れないがな」
というもの。
「教育」や「躾」について自分とはまるで考え方が違う。
子供の身に危険、ピンチが迫った時、「いざという時」の為に前もって練習、馴れさせておくのが「教育」や「躾」だ。
そのために小さい頃から子供を学校に通わせて大人にするんだろう。
「いざという時」が来てから教育や躾をしてもそれはもう手遅れ。
また余罪だとかそうした考察もあるがどちらにしろ今回の「鏡に写る姿」のこれまでの話、教育という観点で語るなら些細な事だ。
「10代の娘」つまり「少年」の時期。
再婚相手の連れ子だとか、そうした理由でもない限り、10年以上、一緒に暮らしてきたわけだ。
とうの昔の「信頼関係」は作って居なくてはならない。
「娘のした事によっては〜」という意見もあったが
本当に娘の行いが悪くても「ビンタ一発」で「警察」を呼ばれるほどに信頼関係がなかった。
父親を逮捕させて娘は生きるための選択肢が狭まった、自業自得、と言う者もいた。
だが「いざという時」を見誤っている親の元で過ごしたなら、どの道不幸になる。
体罰の肯定、否定の問題じゃない。
然るべきタイミングで然るべき事を然るべき人間がそれぞれ行動や思考をする。
我慢だけでは駄目。我を通すだけでは駄目。
「児童」の時期に言っても分からない、そして絶対に止めなければならない場合は体罰も致し方ない。
だが「少年」となった時期に体罰をしても効果が薄い。
「児童」の期間から体罰を受け続けた「少年」は痛みに慣れてしまう。
「児童」の期間に体罰を受けなかった「少年」は叱られた「罪」よりも「痛み」にショックを受ける。
どこまでいっても体罰は「罰」。
「罪」に対する「罰」であり、「成熟」のための「躾」や「教育」ではない。
その上でそこまでに至る期間、「児童」である10年の間に「信頼関係」を作れたかどうかがその体罰を「愛情故の躾」ととるか、「ただの暴力」ととるか決まってくる。
教育とは「対処」ではなく「準備」。
娘にビンタ一発で逮捕されたのはそれまでの「教育」の結果でしかない。
「根気強く諭す」のは理想論ではない。
それが理想論なら「準備8割」なんて言葉は生まれていない。
「いざという時」が起こった後に教育してどうする?
学校の勉強はテストのため、そしてそのテストは将来のため。
スポーツでのトレーニングは力を付けて選手として選ばれるため、選手になるのは試合に出る為。
体罰は場合によりけりではあるが教育ではない。
というか体罰がありふれた時代の教育方針が正解だとしたら、その年代が多数の現代日本、何でこんなに苦しみを訴える人が多いのか。
事が起こってしまえばその後に出来る事は反省しかない。
準備8割なら、「いざという時」に対する対処が1割、反省も1割。
8割の準備不足を残りの2割でひっくり返す?そのための体罰?
大人が行う「暴力」の理由を子供に気を使わせて理由を探らせる、その事の方が余程「理想論」だ。
「鏡に写る姿」、その5まで書いてきたが本質的にはこうした教育や躾を「準備」として捉えて語ってきたため、それを理想論と考え、教育とは既に起こった問題の対処法、として捉えている人間に向けて自分は伝えたいのかもしれない。




