鏡に写る姿。その5
ホラーゲームの親子の話の続き。
本当に社会の「普通」に育てて来たなら「普通」になる。
1+1が2であるように。
とはいえ、それだけではそれは不可能だ。
何故なら家庭環境が違うし、個人差があるから。
裕福な家庭には裕福な家庭なりの、貧乏な家庭には貧乏な家庭なりの。
才能のある子供にはある子供に沿う形で。
不器用な子供には不器用な子供が上手くいく形で。
そのためには親が思考を巡らせ「工夫」しなければならない。
だから「大切」に育てる必要があり、それには親が「現在の社会」と「子供の心」を気をつける必要がある。
人間が社会に生きている以上、「普通」とは社会に属する。
親が自分自身しか見ていないから「現在の社会」の普通を理解できない。
自分が若い頃の「過去の社会」しか理解できない。
過去の社会、自分が若い頃の社会しか理解できないという事は過去の見方しか出来ないという事。
例えば今では田舎でも塾通いの子供は普通になったが、過去において、自分の世代の頃は一定以上の裕福な家の子供しか通っていなかった。
だからといって塾通いの子供が全員が全員、成績が上位というわけでもなかった。
塾通いの子供だからといって成績が上位、というわけではないのは今でも同じ事だろうが問題はその比率だ。
仮に塾通いの子供がクラスの1割、2割しかいなかった時代に塾通いをさせない親が子供の低い成績を努力不足と叱りつけるのは理解出来る。
通わない者が多数派の中で低い成績ならそれは努力不足と言われても仕方ない。
だが現代では6割近い子供が塾通いだと言う。
その中で通わせない親が「自分の頃は塾通いなんてしていなかった」と努力不足と叱りつけるのは流石にどうかと思う。
塾の他にも様々な習い事がある現代。そしてそれが現代の「普通」である。
そして仮にそんな子供が独学で成績を上げたとしても、周りの子供は適切で効率的な指導を受け、無駄を省く。
その空いた時間に休息や遊び、さらなる向上と別の経験をしていく。
富裕層の格差の広がる一因でもあるがだからこそ親が「考えるべき部分」である。
何も考えず「過去の普通」を押し付ければ結果として子供が「現在の普通」を知らず恥知らずとなり、親が恥をかく。
そうして成人した娘にあくまで母親がビジネス関係ではなく親子関係として「普通」を語るなら娘の視点に立つ必要があり、そうすれば自身の過去の教育の間違いと向き合う事になる。
ならやる事は間違いを認め、謝罪すること。
今からやれることは「普通」を求めるのではなく自身の教育のせいで娘に背負わせた「間違い」という責任を少しでも軽くしてやること。
足りないものはあるか。あるなら足せば良い。
足りすぎてるものはないか。なら減らしてやればいい。
子供が不正を誤魔化していないか。正してやれば良い。
不満があっても何もいわず強がっていないか。不満を聞いてやれば良い。
「子供が悪さを誤魔化した」
その悪さに注目して正論を叩きつけるのは誰でもできる。
問題は何故「誤魔化した」のか。
そんなのは「親に嫌われたくないから」に決まっている。
「子供が何も言わない」
だから同じ事をしても問題ない、我慢させても問題ない、と判断するのは誰でもできる。
その子の表情、息づかい、視線を観察すれば何かに気づく、というより親なら気づかなきゃならない。
「心の内」を事細かに理解する必要もないし、そんな事は不可能。
何故なら子供は親ではない、一人の人間だから。
だが、「様子がおかしい」、それだけは察しなくてはいけない。
「何も言わない」のは「親に迷惑をかけたくないから」。
そして「どうすればいいか分からない」。
何故なら未熟な「子供」だから。
考えれば分かること。気をかけてやればわかること。
考えないから分からない。気をかけてやらないから察せない。
子供にはできることが少ない。
その少ない手段の中で気を使った。
そして親は「気を使われた」。
力のない子供に気を使われて情けない事を自覚しなければならない。
そうした物が溜まりに溜まって大人となってようやく解放される。
「育児から解放された」と親は言うがそんな親に対して子供は「ようやく気を使わずに済む」と親に悟られないように気を使って心の中で呟く。
ホラーゲームの作中で描かれた母親がvtuberの娘の歩む道を今更「普通」であるかどうかを気にしても仕方ない。
これまで歩いてきた道が「普通」ではなく、その普通ではない道を歩かせていたのは他ならぬ親自身である。
そしてもし引き止めてしまえば今度はさらなる普通を求めて「結婚」、「子供」「自分の介護」を恥知らずにも親は求めるだろう。
「育ててやった恩」を意図的、あるいは無意識に恩を着せながら。
その「今まで育ててきた」から娘の将来を心配しているんだ、と言うのがゲームに登場した母親や、そのキャラを擁護する人の理屈なのだろうけど、堂々巡りになって仕方ないがそうやってまた「過去」の話をしている。もう、なるようにしかならないんだって。
出来る事は3つ。
「赤の他人だ」と決別するか。
「応援しよう」と子供を陰ながら見守るか。
「今までごめん」と子供に対して謝罪し、その上でサポートを「させて下さい」と懇願するか。
どれを選んでも嫌われるかもしれない。
決別すれば「清々した」と言われるかもしれない。
応援しようとすれば、「何を今更」と見下されるかもしれない。
サポートしようとすれば「ウザい」と思われるかもしれない。
いわばそれは反抗期。
子供の反抗期が遅れたんじゃない。
親自身が子供の反抗期を受け止める準備が遅れた。
覚悟が無ければ今まで通り子供に「普通」を求めれば良い。
現代においても「主人と奴隷」の親子関係はある。それが社会で言う毒親、自分のエッセイで語るところの「親モドキ」。
歴史を振り返ればそうした親子関係は多いだろう。
長男は跡継ぎ、次男はその予備兼労働力。進路選択なんてない。
その他は別の所に奉公や嫁に出されたり。場所が場所なら神事の生贄なんかにもされたり、奴隷として売られたりしたかもしれない。
そうした歴史があるから特別不思議ではない。
ただ、現代において子供を奴隷扱いするのが通用すると思っているなら「恥ずかしい」というだけ。
そうした意味ではホラーゲームに登場した母親はまだ子供の反抗期を受け止めるだけの力に至っていない。
そしてそんな親の子供だから子供自身もまだ親の手を跳ね除ける力がない。
だが、まずは親が最初にその覚悟と力に至るべきなのだ。
時代の「普通」が変化しても。
他の人、他の家庭より少し遅れたとしても。
「人間」としての「経験」は伊達じゃない。
それを見せつけるのも親の仕事。そうであって欲しい。
ひとまず3つの作品の親子関係のそれぞれの子供の時期毎の親の対応の話は終わり。




