鏡に写る姿。その4
とりあえず「時間軸」についてはコレとその次で終わり。
最後のホラーゲームに登場する「普通の仕事をして欲しいお母さん」と主人公の「vtuberの娘」。
これまで語った中で答えは出ており、娘が「大人」になってしまった以上は「お母さん」側がどれほど子供扱いしようが今更遅いのである。
その苦悩は子供が「児童」時期、あるいは生まれる以前から「普通」に教育するために考えておく必要があった。
「ドラゴンボールのチチ」は出産後の当時から社会に目を向けて「これからの時代は格闘技より勉強だ」と心を鬼にして教育ママとなる。
「火垂るの墓の西宮のおばさん」は「皆苦しんでいる、働かざる者食うべからず」と理屈で迫った。
ではこの「ホラーゲームのお母さん」は「vtuberの娘」が「児童」、そして「少年」の時代に何をしていた?
「子供が成人となった時にどうなって欲しいか。」
それが「教育」の指針とするなら、「児童」でも「少年」でもない「成人」になってから今更になって社会的な「普通」を求めるには遅すぎる。
農業や家庭菜園でもやってれば、あるいは育成ゲームとかでも分かるだろうが「普通」の物を生み出すには「大切」に育てなければならない。
親の立場、大人の立場の言い訳ならすぐできる。
「現代社会はあっという間に変化する。」
「たかだか一般人の自分に何ができる。」
「私の時代にはそんなのなかった」
「だから私は悪くない」
なら子どもの立場から反論する。
「なら自分も勝手にする」
それでもなお「普通」を求める行為となれば「成人」同士のビジネス。
上下関係で「意にそぐわない」ならクビにすれば良い。
だけど「◯◯してほしい」なら歩み寄れば良い。対話すれば良い。
けど実際の行動はそのどちらでもなく「普通」を盾にする事。
ただ、その社会で言う所の「普通」とは
1+1=2というような右と左が一致する数式のようなことを「普通」を指すのではなく、
「一般的」、「多数派」という意味合いの「普通」である。
その一般的、多数派とは勿論、最低限ではない。
自分のエッセイでいうところの「80点」を指す場合が殆どだ。
現代社会を見て最低限の生活をすれば「異端」扱いされる。
つまり「普通」を語るとき最低限+αを指す。
果たしてそうなるとこの「+α」はどうなるのか。
中年以上の年代の母親視点から見た「社会」
成人しているとはいえまだ20代の娘の視点から見た「社会」
それぞれ異なる時代に生きてきた。
普通の学歴、普通のファッション、普通の常識、普通の仕事。
衣食住すらも変化した。
それぞれ異なる「+α」、という事は当然ながら最低限と+αで構成される「普通」も異なってくる。
その最低限が「3大欲求を満たせれば最低限」では獣と変わらない。
人間として社会における最低限とは獣の三大欲求のさらにもう一つ上。
「最低限」は「+α部分」と比べてゆっくりだがそれでも変化する。
移り変わりの激しい「+α」は確かにあっという間だ。
流行りとはそういうものだ。
だが「最低限」を意識すれば無理なく対応できる。
でも実際は出来ない。
何故なら「まずは自分が」だから。
「まずは親の自分が」と試してみるのは安全や危険性の確認のため必要な事。
しかし、そこで「自分には必要ない」からと自分の判断で子供に与えなければ子供はそこで止まる。
今なら例えばスマホ。
自分の甥は現在小学生だが幼稚園の頃からスマホに触れていた。
スマホ依存の話はあるものの、現実として今はスマホはなくては
ならないものだ。
仮に将来的にスマホから別の端末に時代が移行したとしても使う者が人間である以上、ある程度の機能などは補完されている筈だ。
だから全くの別物になるわけではない。
そしてそれを使う側のそれまでの常識や能力が無駄になるわけではない。
しかし、触れるのが遅れれば遅れるほど覚える事や経験しなければならない事は増え、何から手を付ければ良いのかわからなくなる。
手に入れる事ができるものは可能な限り手に入れ、そして必要なものを残す。親が排除するのは危険な物だけだ。
その上で危険な物について説明し、その対処法を教える。
親が与えなくても子供は外で社会性を学ぶ以上、どこかでその危険なものが近くに来る。
その時のため、万が一のために教える。
いくら「触るなと言われるほど触りたくなる」のが人間の性とはいえ、むしろそれが人間の性だからこそ危険性を知らせなければならない。
昔ながらの日本の育て方で
子供が「児童」の期間は忙しさなどを理由に「オンブ」の教育。
その結果、親子の信頼関係の構築が不十分。
子供が「少年」の時期は「抱っこ」の教育。勉強や習い事、そうした物で縛り付けて別の可能性や外の世界に目を向けさせない。
そして「成人」となってようやく「あなたの為に」と前置きして命令する。
さらにオマケで「触らぬ神に祟りなし」、「寝た子を起こすな」と言わんばかりに危険な事から遠ざけ、何も教えない。
成功例として上げた「ドラゴンボール」の親子とは真逆。
ドンドン束縛を強くしている。
そして「あなたの為に」と悩む事すら、「子供のため」ではなく「自分のため」。
「若さ」故に考えをめぐらせていなかった「老後」の足音が聞こえてきた。
「老後」を「恥ずかしくなく生きるために」、子供の仕事を「普通」に求める。
「普通の仕事に」というものは少なくとも母親の気持ちでしかない。
母親自身の「恥」を起点として社会を見た時に「他所」と比較した時の「普通」である。




