鏡に写る姿。その3
「ドラゴンボールのチチと孫悟飯」の例を成功例とするなら残りの2つが何故失敗なのか分かる。
「火垂るの墓の西宮のおばさんと清太」の関係はそもそも親子ではない。
だから「児童」に相当する期間がなく、「信頼関係の構築」がされていない。
そんな程度の低い信頼関係でありながら短期間で「成人」としての在り方を「清太」に望んだ。
勿論、ソレは作品の世界観として「戦後」であり、お互いに余裕がないから仕方なく、そして「清太」もまたそれに向き合い、歩み寄る必要があった。
そしてその「お互いに歩み寄れば良い」と言う事すら「清太とおばさん」の二人の関係だけならば、という事。
「清太」にはまだ幼い「節子」という妹がおり、それを守らなければならないという責任感があった。
後に映画の関係者で「清太」のモデルは自分であると語っていた記事を見た。
その上でもし自分が「清太」ならいくら妹とはいえ、守る責任を放棄して自分だけが生きるために「節子」を切り捨てる、ような話をしていた。
清太が責任感が強いからこそ、働こうにも幼い節子を「信頼できない相手」に預ける事はできない。
「西宮のおばさん」が余裕がないのは理解できる。
しかしその余裕の無さは単に貧しいだけではなく「戦後」という環境の所為であり、それは「清太」にも当てはまる。
「節子を守らなければならない」「生きていかなければならない」という責任感を「少年」である「清太」が感じていた。
その余裕の無さを例えばRPGゲームのステータスのように数値化した場合、恐らく「他人」を扶養するという現実的な金銭などの余裕の無さは「西宮のおばさん」の方が高いだろう。
だがそれぞれの立場、「自分の家に住み、他所から自分の意志で少年と児童を招き入れた成人」と「守るべき児童を連れて全く別の環境に放り込まれた少年」という立場のステータスを数値化した場合、それぞれに課せられた責任感の割合として余裕の無さは後者がキツいかもしれない。
二人の関係だけに目を向ければ正論を言う上司と従わない部下、という構図かもしれない。
だが節子を入れると単に上司と部下ではなく、上からドヤされ、部下のマネジメントもしなければならない「中間管理職」として消耗していたという見方もできる。
そしてその後の話ではあるが「西宮のおばさん」は節子のドロップの缶を見つけ、清太と節子が死んだ事を知る。
そして苦悩するという。
その苦悩は二人が死んだ以上、する必要のない「たられば」の苦悩だ。
そして正論が常に正しいのなら、「終わった事をグダグダ悩むな」と西宮のおばさんに叩きつけ、おばさんもまたそれに従って忘れ去るのが正しい筈だ。
だがソレは逆に言えば二人と決別する前にその「苦悩」に至っていればもしかしたら信頼関係を構築し、清太も安心して働けていたかもしれない。
だが先述の通り、「戦後」という時代背景の影響が大きく皆が余裕がないし、何より実の親子でもない。
「正論」を盾にして清太に大人として働けと迫ったおばさん。
妹を守らなけらば、という責任感と自分は子供であると言う甘え、から「安心」できる環境を求めた清太。
両方理解できる。そして渦中にいながら実際としては蚊帳の外である節子もまたそれは同じである。
そうした背景に気を回せば誰もが責任を持ち、そして正論だけで簡単に誰も責められない。
苦悩するべき時に苦悩せず、全てが終わった後に生涯その罪悪感に悩まされる「西宮のおばさん」
切り捨てる物を捨て、歩み寄る勇気を持てず、結果として全て失った「清太」。
また、調べてみるとその後の実写化作品などでは元々のアニメ映画よりもさらに「西宮のおばさん」を悪者のように描写しているパターンが多いともされる。
夫を亡くし家を守る為に実の娘からも「鬼」と評価されるほどキツい性格となった描写がされるという。
あの時代を考えると女が生きる為には現代以上にそうせざるを得なかったのは想像できるが逆に言えば「弱かったため」に余裕がなかった。
実写版とアニメ版のそれぞれの制作サイドの解釈が少し異なるだけかもしれないが、それでも「余裕がなく虚勢を張った弱者」である事を示していたのなら、やはり頼る相手としては信用しきれない。安心できない。
清太も弱かったように、西宮のおばさんもまた弱かった。
強弱は絶対的なものではなく、相対的なものであった。
だけど清太が節子を守るため、そして生きる為に苦悩していたように、西宮のおばさんもまた2人と別れ、その後の顛末を知った事で苦悩した。
弱さという意味ではお互い似た者同士で弱者であったが、ネットなどで言われるほど「クズ」でも「鬼」でもない。
ただ「戦後という環境」「戦後という時代」が悪かった。
「余裕の無さ」が子供を「クズ」に見せ、大人を「鬼」に見せた。
最終的に否定しなければならないのは「戦争」であり、考えるべきは「余裕の無さ」「自分の弱さ」を自覚する事。
「虚勢を張って弱さを誤魔化す事」は長続きする強さではなく、いずれ崩壊する。
それは現代人でも仕事などを通じて理解できる筈だ。
強さを身につけるために愛情が必要である。
愛が欲しければ情けを与え、情けが欲しければ愛を与える。
それが足りているか判断するにはお互いを見る必要がある、お互いの意見を聴く必要がある。
「社会」に目を向けていれば「個人」を見る事はできない。「個人」に目を向けていれば「社会」を見る事はできない。
「正論」を叩きつければ「感情」は理解できない。
「感情」ばかりを主張すれば「正論」は入ってこない。
それでは愛が足りないのか、情けが足りないのか、それとも足り過ぎているのか分からない。
自分が解釈する2人のキャラとその関係はそうしたものだと思っている。




