鏡に写る姿。その2
いつ涼しくなるんだよ…
「鏡に写る姿。その1」にて上げたキャラクタの共通点は3つ。
1つめは「母親」的なポジションである事。
若干曖昧にしたのは実母ではなく子供を引き取ったおばさんがいるからだ。
2つ目は前回述べた通り、その行動が「子供視点」からでは不愉快であり、「大人視点」からでは納得しえる事。
そして3つ目は「我慢」を強いている事。
基本的にこのエッセイでは「女」という存在を「捨てる」立場として何度も書いている。
「無駄を捨てる」「切り捨てて決断する」「生きるために他人を見捨てる」
良くも悪くも「捨てる」力がある。
それ故に「0か1か」の思考に成りやすく、窮地においてはその力は「最低限」の確保のために有利になるが、一方で平穏が続いた場合には変化と安定を天秤にかけた場合、変化のデメリットに意識が使いやすく「停滞」しやすい。う
子供視点と大人視点で何故真逆になるか、といえば「男」的な性質である「集める」立場との対立になるから。
「グッズを集める」「選択肢を増やす」「無に意味を見出す」
物を増やし、豊かになるという事はそれだけ「迷い」が生じる。
例えば家電など、全て機能を日頃から有効活用している人は少ないだろう。
どれほど高性能な機能であっても使わないものは使わない。
家電の機能なら無視しても問題ないが物質的なものはただの荷物、邪魔になる。
とはいえ、「愛着」と言う感覚があるように古い物でもはや使っていないものでもそこに「思い出」などの目に見えない価値が作られる。
目に見えない値段のつけられない価値。
「女」というのは「子供を産む」と言うだけで価値がある。
どこぞの政治家が「子供を産む機械」と発言して叩かれた事もあったが事実、その機能があると言うだけで先天的に価値がある。
一方で「男」にはその機能が備わっていない以上、「実績」を出して価値を手に入れる。
そして先天的に価値の低い男が価値の高い女を手に入れるには「価値のある実績」を手に入れる必要があるわけだが、逆に考えると男には「価値のある実績」を見つけ出す本能や能力が備わっていると言える。
男にとって最初に見つけ出す価値とは「母親に認められる事」。
そう、「最初」である。
共通点の多い3キャラではあるが異なる点が3つほどある。
その一つが我慢を強いる行動を向けている相手の年齢、「時間軸」の違い。
過去のエッセイ「10〜15cm。15〜20kg」に語ったのだが男女が取っ組み合いの喧嘩をした場合に女が男に対してその数値分、上回らなければまともに戦えない、肉体的に弱者であるのが女である。
そして逆に言えば大人の女の平均身長から考えた場合、子供であれば10歳程度までなら弱者。
この10歳までを「児童」、11歳から成人までを「少年」、そして「成人」と分ける。
するとこの3キャラが「我慢を強いる相手」はそれぞれ異なる年齢にいる。
そして親子の関係の全ての期間を描いているのは「ドラゴンボール」の「チチと孫悟飯」の関係だけである。
そして結果的に成功しているのもこの親子関係のみ。
何故かといえば
「児童」の期間において「信頼関係の構築」
「少年」の期間において「様々な可能性の提示」
「成人」の期間において「自由と解放」
が親子関係において成されている。
一言で言えば「子離れ、親離れ」が順当に達成されているからである。
勿論、「離れ」とは言うが「決別」ではなく、「段階」をちゃんと踏んで親子と言う関係から対等な「大人と大人」になった。
この「段階を踏む」、つまり子供が成長していく段階毎に必要な学びや経験を得る事を手に入れる事、そして親はそれを与える事。ただ与えるだけでなく子供の要求と本当に必要な事、そのバランスを取る事。
作中ではその極端な「束縛」的な教育方針に目が向けられていて「教育ママ」という印象が強かった。
そしてその「教育ママ」という部分とその後の「結果」だけを見て「あのやり方は正しかった」と正当化している層がいる。
だが実際にはその束縛的教育も子供の成長や人間関係、何より本人の状況の変化と共に軟化して言っている。
よく言われる「子供の成長と共に親もまた成長している。」である。
ぶつ切りにした。




