鏡に写る姿。その1
前々回の
【「大人になれば分かる」が「喉元過ぎれば熱さを忘れる」と同義では駄目。】
はたまたま3つの作品に登場したあるポジションのキャラクタに対しての反応についての動画を見たのがきっかけである。
1つ目はドラゴンボールの主人公、孫悟空の妻の「チチ」
2つ目は火垂るの墓の「西宮のおばさん」と言われるキャラクタ。
3つ目は最近配信されたvtuberを題材にしたホラーゲームの「母親」
3つ目のゲームはvtuberをテーマにしたホラーゲームという事でvtuberも多くプレイしている。
その上でvtuberというもので生計を立てようとする娘に対して「何時迄もそんな遊んでいないでちゃんとした仕事に就くように」と釘を刺す場面があり、その母親に対して当にゲームを実況配信しているvtuber達が各々の意見をぶつける切り抜き動画、そしてその切り抜き動画にあったコメントを自分は見た。
これらの3キャラクタの共通点は子供の視点から見た時は「不愉快」であり、大人の視点から見た時の行動は「納得」される。
そして大人になった時に理解出来るからその行動は「正論」、「正解」だと主張される。
あくまでもフィクションのキャラクタである。
そのため劇中で描かれないような背景部分もあるだろう。
そうした部分は推察するより他ないのだが、そうした劇中で描かれない推察をするには相手の立場への理解をする事が必要である。
だか一方で自分の立場が相手の立場と同じだとするなら、何も推察していない事と同義である。
だから前々回のエッセイで
「子供の頃はAのキャラが不愉快でBのキャラを支持していた」
「しかし大人になった事でAの行動を理解し、Aが好きになったが逆に子供の頃は支持していたBのキャラを嫌いになった」
と言う視聴者の
「どちらを養護するか」というだけの変化は視聴者側の成長によるものではなく単なるポジショントークでしかない、と自分は主張した。
同じような「ポジション」「立場」の話で行くと例えば最近だと原発処理水の排水絡み。
データを並べ、安全性を解き、正論を叩きつけても「そんなに安全なら飲んでみろ」と言う国民がいた事は事実だ。
そしてそんな国民はどこぞの国の情報操作が、とかアレコレ言われる。
そうした外側の話をしても埒が明かない。
悪者探しをしてもどこにもいない。
と言うよりもどこにも悪者などいない。
外部には外部の利のために不安を煽るように動いているだけの話である。
そして国には国の理由で処理水の排水を行った。
国民には国民の理由でそれを批判した。
結果としては排水による汚染の実害はない。
それはデータとして散々示していた国と言う立場からすれば当然の結果であり、そのデータを理解し、支持していた国民からすれば納得の結果でもある。
だがそれを非難していた国民からすれら当然の結果でも納得の結果でもなく、ただの結果論でしかない。「たまたま汚染の実害がでなかっただけだ」 と。
また汚染の実害はなくとも外部の国の「日本の海産物は買わない」などの宣言による汚染そのものの実害ではなく二次的に発生した影響は結果としては害が発生したとも言える。
それぞれの価値観があり、正義がある。
だからこそ、外国との対話が必要であると同時に国民との対話も国には必要である。
その件について国は充分してきた、という主張だろうが問題は主張の「正当性」や「正確性」は勿論の事、「主張の回数」や「かけた時間」でもない。
ただただ国が過去にしてきた事から国民が評価する「信用」の問題である。
日本という国、その国を動かす政治が示してきた過去の実績が政治を「信用」に足らない物であるから処理水の排水の正当性を示すデータを国民が非難する。
「外国の情報、主張に踊らされているだけの情弱」
というのは簡単だがそれは裏返せば日本と国民の信頼関係の弱さが招いた事。
では信用されない国だけか悪いのか、といえばそれもまた違う。
政治家は国民が選ぶ以上、政治家が悪いというならつまり国民の責任でもある。
「弱肉強食」、「自己責任」、「我慢」、「支配」。
過剰な責任の重圧から逃れるため、他人に責任を負わせる。
いかにして責任から逃れ、利益を得るか。
そんな社会で育った者からすれば力を持つ政治家は責任を取るべき者でなくてはならない。
だから徹底して非難して責任を自分が取らずに済むように立ち回る。
結果として政治家に対して「何もするな」と言う一方で自分に都合のよい事にのみ力を入れて支援しろ、何の為の政治家だ、と非難する。
毒親が子供に対して「教育」と称して行うように「国民の声」を発する。
だが当然ながら政治家はそんな国民の子供ではない。
選ばれた事を政治家として生み出された、と比喩するのであれば確かに親と子供の関係かもしれないがそんな子供に対して親である国民が「自分を守れ」と責任を押し付ける事の歪さ。
政治家が無責任なのは選んだ国民が無責任だから。
よく言われる「政治家は国民の鏡」という表現、そして「子は親の鏡」という表現。
共通点は「鏡」。
話がキャラクタの話から政治と国民の話に変わってしまったがつまり、大前提として先述のキャラクタ達はそれぞれ「母親」という側面について子供の視点からは非難され、大人の視点から納得されている。
政治家が国民の鏡であるように、子供が親の鏡であるように。
そのアニメの視聴者、漫画の読者、ゲームのプレイヤーの鏡に写る鏡である。
アニメの中で登場した大人キャラの行動が作中の子供キャラの行動に影響した。
弱者であり親の支配下にある子供の行動の発端は親にあり、責任も親にある。
だからこそ、子供の幸福を享受できる。
エッセイで何度も表してきた責任の3分割。
その問題に関わった者は全員が責任を有する。
社会、家庭、自分自身。
外側、内側、自分自身。
相手、味方、自分自身。
関わった以上、それぞれの立場があり、それぞれの責任がある。
誰か一人の責任ではない。
それでもなお「子供の不幸は自業自得、親の責任にするな」という人もいるだろう。
それはそれでも構わない。
だがそれでは「親の不幸は自業自得。子供の責任にするな」と返すだけ。
子供の能力の高さは子供の才能、あるいは努力の証。
子供の不幸が子供の自業自得なら子供の幸せもまた子供の力によるもの。
「私が育てたんだ!」
それは親に育てる責任があるから。
親が子供を育てる、そんな当たり前の事を恩に着せるな。
この「当たり前の事を恩に着せるな」を軸に考えると子供目線では不快で大人目線では納得、という共通点を持つ前述の3キャラがそれぞれ別物であると言える。
コレが前置き。
毎度のことながら話が長いしクドい。
けど削って我慢して、消化不良になるよりマシかな。
あくまで自分のためのエッセイだし。




