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何か書きたい。  作者: 冬の老人
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ウジウジ悩んで考える。その5

強者としての特権を求めるのは間違いではない。

だがそれに付随して責任もある。

結婚、昇進、そうした物が今やイメージとして「勝ち組」の特権の象徴に成り果てた。

勿論、それでも社会が周っている以上はネットやメディアから受け取るネガティブなイメージとは裏腹にまだまだ「まともな者達」が自分のような社会に対して憎しみを持つ者が「思ってる以上に多い」事は確かなのだろう。


たがそれと同時にその「まともな人間」に紛れて「特権を手にするが弱肉強食を盾に責任は弱者に放り投げる者」もいる。

「思った以上に多い」のは「まともな人間」だけではなく、そうした「サイコパス」とそのサイコパスに理不尽な責任を負わされる「弱者」もまた「思った以上に多い」のである。

排除しなければならないのは「弱者」ではなく、「サイコパス」である。

人間の歴史、あるいは生物の歴史、地球の歴史の中で環境の変化などでどうしても「強者」と「弱者」が発生してきた。

発生してしまう以上は「強者」、「弱者」ともに「善悪」で括れない。

「サイコパス」のような者も確かに自然発生してしまう。

それ故にサイコパスもまた善悪では括れない。


虫のバッタが単体ではそこまで脅威にならない反面、異常繁殖すれば「蝗害」として植物を食い散らすだけではなく、航空の飛行にも影響すると言う。

5センチ程度の虫が数さえ集まれば環境すら破壊する。

台風や津波といった自然災害と同じように数の力は恐ろしく、そして「特権だけを手に取り、責任は他人になすりつける」と言う者が弱肉強食を盾にして増えればどうなるか。

同時に集まったのならまず絶対量を減らす前に「分散」させる。

最近何かと放射能関連も話題だか、あれと同様に「希釈」すればほぼ無毒化する。


分散、希釈で毒が消える。

誰でも分かる理屈だが都会に人が集中し、地方には人が少ないにも関わらず高齢者が集中する。

フィクションなどでよく「人は増えすぎた」「機械が発展し過ぎた」と古代文明の破壊神みたいな奴に絶滅されたり、終末論が描かれる。

それがそれなりにウケるのは作品を見る個人個人が何処かで作品と通じる感覚があるからだ。

本能的には「分散」しなければならない事は解っている。

地球や自然を大切にしなければそこに住む自分達は生きていけない。

だが現実問題として分散しようともしないし、科学の力で何とかしようとしている。

何故なら誰も貧乏くじなど引きたくないからだ。


若者は都会へ、老人は田舎へ。

そこに行けば「価値」を与えられる。

正確に言えば「労力」や「時間」をかけずに「価値」を与えられる。

チヤホヤされる。

誰しもが「与えられたい」からその場から動かない。

それでも若者ならまだ分かる。

弱者だから。

そして様々な困難にぶち当たる。

田舎の常識が通用せず、井の中の蛙であった事を知る。

それをちゃんと理解していれば老人となり

「定年後は田舎でゆっくりしたい」などと口にしない。


井の中の蛙が生きるための盾と剣を持ち替えただけなのだ。

田舎で経験し、都会に憧れた「志」という盾を

都会で経験して手に入れた「実績」という盾に。

子供時代に親や友人、教師から与えられた「自信」という剣を

稼いだ富が与える「権力」という剣に。

住む場所が井の中から出ただけ、装備を変えた蛙でしかない。

勿論、それも「力」ではあるし、「成長」の一つではある。

だが実績の盾と財力の剣を手にした事で気が大きくなり、田舎を見下した自分自身を「強者」であると勘違いする。


場所を変えれば挑戦者となり、それは弱者である。

学校を卒業して就職して、40年前後で定年。

その40年で強者として真っ当に「特権」と「責任」を手にしていればどこでもそれなりに生きていける。

だが特権を最大限に、責任は最小限、という生き方を普通とした考え方ではどこにいっても「お客様気分」

同じ日本である以上、田舎の人間も大して変わらない。

同じ様な「強者のつもりの蛙」同士が争えば「地の利」がある以上、田舎の人間が勝つに決まっている。

そうすると負けた都会からきた蛙は自分の行為や考え方を改めずネット等で「田舎は糞」と文句をつける。


一方で田舎の人間も変わらないというのは「外から来た蛙」相手に争う姿勢を見せるからだ。

旅行、観光の「お客様」は金を落とすから持て成す。

その様は強者に媚びへつらう様子に似ている。

一方で移住者については「郷に入っては郷に従え」と強要する。

親が子供に、先輩が後輩に、上司が部下に対して「教育」「指導」という名目で弱者の話を聞かず、ブラック企業のように一方的に支配しようとする。

お客様は価値を与えてくれるが新入りは身をわきまえるように支配する。

井の中の蛙と外からきた蛙、お互い一歩も引かない。


「愛情を与えられたい」と都会からやってきた蛙が思う。

「価値がある人間だと評価されたい」と田舎に残り暮らしてきた蛙が思う。

何故なら「頑張ってきたから」。

その証拠が財力、権力、威光、伝手。

過去の実績。


「弱者」としてその気持ちは分かる。

だが結婚したり、それなりの財や力も得て、その上で「弱者」を見下し、「強者」気取るのであれば、もうその「愛情を与えられたい」と言う欲を捨て、「愛情を与えたい」と言う欲へ変わらなければならない。

その一方で「愛情を与えたから」と愛情を与えた対象を縛り付けてもいけない。

「支配」には「責任」が付随する。


考えるべきは「どうすれば責任を負わず特権を得られるか」ではなく、「誰に対してどう悩むのか」。

行き着く先はシンプルで行政が、社会が、などと外に目を向ける前にまっとうな「親」と「子」の家庭環境と「教育」について考えるだけである。

ブラック企業、ブラックな校則のある学校、住みにくい土地、究極的には「家庭」から排出される生き物で構築される。


「挑戦」「行動」が弱者の権利と責任なら、

「苦悩」「思考」が強者の権利と責任。

侍や将軍が守ってくれていたから親も子供も農民も弱者として動く事ができた大和の国。

そしてその侍と将軍が外部から、あるいは内部からの影響で責任を放棄したから「国民」が生まれた。

強者が権力を持ちたいのなら、責任を取らなければいけない。

挑戦者として、弱者として生きる区切りをつける、歯止めをかける事すら「苦悩」と「思考」の産物。

美貌や能力、財力だけで「強者」を名乗るなら、正論だけを伝えれば良いのならAIと機械で代用は効く。


昔から商人は金を稼いで金持ちとなった後、為政者となり権力を得ようとする。

金と権力を得た後、次は名声。

他人から「賢者」と思われようとする。

そこに至る過程において向き合う過去がある。

商人として、為政者としてどれだけの人を陥れ、蹴落としてきたのか。

欲が深いから最後の最後で欲しい物が絶対に手に入らない。

過去に向き合えば得たもの、奪ったものが大きければ大きいほど恐怖も大きくなる。

得たもの全てを投げ捨てて、今まで見ようともしなかった、切り捨ててきた弱者に頭を下げ、許しを請う覚悟で最後の欲、心の安寧が満たされる。

金と権力でその安寧を埋め、老いる身体と精神で今まで踏みにじってきた弱者からの報復に怯えながら暮らすもよし。

その取捨選択に悩んだなら結果はどうあれ、強者として逝ける筈。

それが「悩む」という権利。

とりあえず「ウジウジ悩んで考える」は終わり。

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