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何か書きたい。  作者: 冬の老人
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ウジウジ悩んで考える。その4

弱肉強食とは同等の立場、試合や闘争において同じ土俵において発生する。

だが親が子供の土俵に上がり、「気を使わせる」事の押し付け合いをすると言う勝負を始めるのは勝つのは親である事が最初から決まっている。

親と子供の間に無差別級がまかり通ってはいけない。


また親子をさらにその上の世代、「祖父祖母」が親として未熟な「父母」をフォローする事で上手く回る事もあったがその「祖父祖母」の世代がフォローに回るどころか自分達もその土俵の上に上がって過剰に介入したり、あるいは介護を必要として負担になる事も多い。

親子関係だけではなく他の人間関係においてもOB、あるいは外部の関係者がおり、小さな世界で支配者となっても絶対的な支配者にはなり得ない。

「コネクション」が大きな力を持つ現代において支配者であると同時に奴隷でもある。

だから「悩む」べき相手を間違える。

強者として悩むべきは「弱者」へのフォローの筈なのに、自分を支配する「強者」の顔色を伺う事を頭を抱えて生きる。


子供が情けないのは親が情けをかけなかったから。

子供が甘ったれなのは親が子供に甘えたから。

それを進めていくと男女の関係、仕事での関係、世代の関係性にも通じてくる。

男が男らしくないのは母親が親ではなく女の気分のまま甘えて支配しようとした。

女が女らしく無いのは父親が親ではなく男の気分のまま、甘やかして支配しようとした。

そうして育った世代が仕事の人間関係、異なる世代での人間関係を作ればお互いに「支配関係」ありきの上下関係になる。

強者からの支配を受け入れる、我慢をすると言う事は裏を返せばいずれ解放された時、自分が他人を支配する権利を得られるという前提があるからだ。

パワハラやセクハラもそれを我慢すれば後々に恩恵が与えられた、あるいは後々の事を考えると我慢しなければ損だった。

だが今となっては見返りはなく、ただただやられ損。

だから「若者」や「次世代」、あるいは「異性」、究極的には自分が支配する対象であったと思い込んでいた「他人」が堪え性がない、根性がないわけではない。

ただただ「自分自身」の支配したい欲に振り回されている。


「悩まないで行動」、とポジティブで正解のような意見だがこの意見に社会全体が正確であると言う見方、価値観に従った事で「悩む」事がネガティブに捉えられてきた。

故に「他人へ気を使う」と言う意味を食事や服装などの作法やマナーなどの見た目に現れる事としてしか認識していないのだと思う。

心を外に向けない、自分の内側にしか心がない。

そんな状態の人間が他人へ強制させようとする時、親が子供に、上司が部下に「恥ずかしいから」と言う理由しかない。

恥ずかしいという感情で命令するしかないから子供の話を聞かない、部下や後輩、そうした弱者の言葉を聞かない。

という事は逆に言えば自分が恥ずかしくないなら問題はそのまま。

聞く耳を持たないまま恥ずかしくないように見た目だけ取り繕い、強者がそうだと決めれば下の者はそれに従うしかない。

一度それが正しいとしてしまえばあとはもうそれがそこの「文化」である。

その尺度でどこまで限界に行けるのか。

「チキンレース」が文化とされるような状態になる、それが一番恥ずかしい。

オジサンの「昔は悪かった自慢」、

自分のエッセイも近いものがあるが日本人が当たり前のようにする「不幸自慢」

SNSの「映え自慢」。

外からすれば見るに耐えない、聞きたくもない。

自分は少なからず弱者と自覚しているが「悪自慢」や「映え自慢」をする人間が自覚しているだろうか。

それは足りない欲求を満たしてくれる存在、過剰な欲求をたしなめる存在がいないから。

だから他人を踏みつけ奪う。



「悩まず行動」できるのは誰かが「悩んで受け止めてくれたから」。

それで成長して大人になったなら、「他人のために悩み、受け入れる」のは成長した人間の役目。

「自分のために考える」ではない。

「他人のために推し測る」。

推測するためにはデータとして自分の経験が必要となる。

推測するためにはデータを元に自分が考えを巡らせる体力と能力が必要がある。

推測するためには自分の時間を他人に捧げる必要がある。

過去、現在、未来を捧げる、そして他人の行動を受け入れる柔軟性。

愛情がなければ「ウジウジ悩む」事はできない。

逆に言えば愛情を与える事こそが「悩む」と言うこと。

だが子供や弱者には経験というデータがない、体力もない、時間もない。

他人を受けて入れる余裕もない。

それでも親が、あるいは自称強者が同じ土俵に上がり、「弱肉強食」を盾にしてこちらからの愛情を求めてきたら、弱者は自分の問題を無視して、不満を押し殺し、我慢する。

そうやって蓋をして溜めた我慢の箱。

いくら大きな倉庫があってもやがて限界がくる。


そうした支配からの解放、自分が支配したいと言う「欲求解消」を出来るのが強者の特権としてしまっている現代社会の価値観である以上は強者である多数派になろう、普通になろうと人は進む。

だから皆不幸を感じる。

少数派が多数派を、弱者が強者の不満を受け止める力はない。

また不満の吐け口にしていた少数派、弱者が力を持てば多数派や強者は不満を吐き出せなくなり、自分自身の毒で冒される。

かつて様々なレッテルを張られ、テレビなどでも馬鹿に出来た性的少数者を今では迂闊に馬鹿に出来なくなり、「普通」の範疇にありながらただ一点、「モテない」者を馬鹿にしている。

「飲む打つ買う」、それ以外の趣味は「子供の遊び」と馬鹿にしていた者、あるいは「仕事だけ」の人間は今では敬遠される「古い人間」となってしまった。

例え話を挙げていけばキリがないが、かつてはそれが「絶対的価値観」と信じられていた多数派、強者の価値観である。

多数派の不満解消を少数派に押し付けるのではなく、少数派の不満を受け止めるのが多数派の役目、強者の役目。

解決してやるのではない、受け取める。

そうしなければお互いの縁が終わりへ向かうだけである。


最近じゃ「今ある職業の半数が機械化、AI化で消滅する」と言われたりしているし、そうして消滅した時代が来た未来においては更なる「消えるもの」が予測される。

だがそれは多数派や強者から見た考え方である。

消えた先には新しく「生まれる物」がある。

生まれたばかりの物は小さく、弱い。

人間も動物も、植物も。

弱者だけでは育たない。

だからこそ強者は「ウジウジと他人について悩む力」を手に入れる必要がある。


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