ウジウジ悩んで考える。その3
親子関係だけではない。
ウジウジ悩むのは大人でも同じ様な事。
それを当人に向かって「ウジウジ悩むな」というのは一見正論に見えるが、それは「相談」を受けて「どうしたら良いのか」と意見を求められた時のみという条件付きでバッサリと斬る事は許される。
単に同じ空間にいて「他人が辛気臭い顔で悩むおかげで空気が悪い」という我儘からくる「正論」をぶつける行為はただの攻撃だ。
そこの空気が悪いと感じるなら自分がその場を去れば良い。
それが最低限の気を使うという事。
どうしても「悩んでいる人間をどうにかしたい」 、つまり「その場を空気を良くしたい」のであればその人間の話を聞いて気を使う必要がある。
話を聞いて、自分に出来る事を伝える。
他人の行動という自分にはどうする事も出来ない事をウジウジ悩み、肩代わりする。
自分にどうする事も出来ない事に「気を使う」という道を強者が塞いでやってそこでようやく「ウジウジ悩むな」と言う権利が発生する。
「自分にはここまで肩代わりする。何も考えなくていい。だがそれ以上は行動するかどうかは貴方次第。行動するなら最大限フォローする。行動しないなら、自己責任。申し訳ないがここにいるべきではない」
こんな風に主張すると「ビジネスなら結果を出さなきゃいけない」と言う言葉が少なからず返ってくる。
逆に言えば自分達のような「ウジウジ悩む」人間というのは小さい頃から「ビジネス」関係と似たような関係を親から突きつけられてきた。
だから引き篭もる、または外に救いを求めて放浪する。
「過程より結果」「100点取るのは当たり前。」
そうやってビジネスライクな関係を「子供のために厳しくしている」と評して語る親自身、子供の頃はどれほどの優秀だったのか知る由もない、だがその教育方針で子供が結果を出さなければ、問題を起こせば、子供の身体や精神が病めば上司である親の責任であり、そしてそれはビジネスとして失敗である。