男は全員マザコンである、という件
マザーコンピュータではない。
男の弱い部分の代表的なものの一つに「男はマザコン」ってのがある。
でもおかしな話だよね。「男らしさ」「雄々しい」っていう言葉があるけど男が全員マザコンなら男らしい男なんていない。
どちらかが嘘でどちらかが本当なのか。
或いはどちらも嘘、それともどちらも本当なのか。
まぁそんなのあえて疑問に思うまでもなく単純にどちらも本当ではあるのだと思う。
外に向けて「男らしさ」、内向きに「マザコン」。
それで男という存在のバランスが取れている、という風に捉えることもできる。
けれどそれなら女の場合はどうなのかな。
外に向けて「女らしく」、内向きにも「女らしく」。
そんなスタイルが日本古来、少なくとも自分が見てきた性別の内外の分け方だった。
そりゃあ勿論、個人レベルで見れば女の中にもマザコンだったりファザコンだったり、逆に男の中にも内向きにも男らしい男もいればファザコンもいるだろうよ。
だけど世間一般的な女は内外それぞれの「女らしさ」という強さを持っているのに対して男は外には「男らしさ」という強さ、内向きには「マザコン」という弱さがある。
2分割で言えば女は内外それぞれに女としての強さ、男は外だけで構わない、というのが今の「性別で役割を決める」事を止めろ、と言われる十中八九根っこの部分だと思う。
とりあえず前提として文章に起こしてみたけど、改めて見るとそりゃあ男は弱いとか何とか言われるわ。
だけど、コレって他の国にも当てはまるのかな、と。
海外の女性差別への過激なフェミの活動は最早男顔負けの暴力性がある。
「行き過ぎたフェミニズムは性別を変えただけのマッチョイズムと同じ」と聞く。
流石にそんな男性蔑視みたいな女性を相手にする男性は海外でもそうはいないと思うが、それでもそういう社会性から日本の女性以上に海外の女性は強い。
なら日本では許される男性の内向きのマザコンという弱さは許容できないだろう。
それをハリウッド映画と日本の映画の持つ男の親子のイメージでなんとなく掴めてくる。
ハリウッド映画でイメージしてほしいが高校生くらいの男の子がスポーツか何かで優勝したりした。
そこに応援に来ていた父親がかけより、息子を抱きしめ称える。
何の作品か、というのはわからないけど、なんとなく見たような場面のような気がするくらいにはそれがハリウッド映画だと言われればイメージできると思う。
じゃあそれを日本人にキャストを置き換えて日本の映画としてイメージ出来るかな?
悪いけど自分は出来ない。
日本の映画でそれをやっても凄く胡散臭く感じる。
そりゃそうだ、そんな習慣は日本にないから。
それじゃあそれを今度は日本の映画で配役を息子と母親、娘と母親、娘と父親に組み合わせを変えてイメージしてほしい。
自分はそこにイメージしやすい順位はあるが日本映画でも出来なくはない。
たった1パターン、息子と父親という組み合わせがイメージ出来ない。
コレの何が言いたいかというと日本で許されている、というか黙認されている男の弱さ、マザコンというのは男親と男の子という組み合わせのコミニュケーションが日本では確立されてないんじゃないか。
だからその部分を母親が日本では担うから
「男はマザコン」になるんじゃなかろうか。
そんな事は分かってんだよ、と言う人もいるだろうけど
だとしたら仮に同じ家庭の兄妹だとしたら一見同じ環境に見えても
女の子は両親から愛を育まれる→強く育つ。
男の子は母親からしか愛を貰えない→弱く育つ。
それじゃあ悪いのは誰?と。
とはいえ、コレで父親を責めるのはあまりに短絡的。
だって父親だって昔は男の子。
同じように父親から愛を貰えず母親からだけ貰ったであろうという背景は簡単に想像できる。
父親は娘は可愛い、だから本能的に愛するよ。
息子に対しても小さい幼児の頃は可愛いから愛する事ができる。
けど父親自身が年頃の男の子へ父親はどうするべきか、を学んでいないから幼児から少年と成長するにつれておかしくなる。
でも全ての男が弱いまま大人になるわけじゃない。
その差は何か、を次で考えてみる。