親の愛情の審査員、その1
毒親についてのまとめに入りたかったがまだ親の愛情部分で語り足りないからもうちょっとだけ続くんじゃ。
親の愛情は金、時間、手間で構成され、それすなわち安心感と資産を与える事を意味する。
そしてそれらはあくまで子供の成長のために必要なもので有り全て満点である必要もない。
愛情とは不足していなければいい。
子供の成長はあくまで子供が行う。
さて、とりあえずまとめてみたがそれでは「愛情の不足」とは?そもそも何故を持って足りている、足りていないを判断するべきなのか。
まず大前提として親の愛情を充分か、足りないか、判断するのは親じゃなくて子供。
親がいくら愛情を注いだ、と訴えても子供が成長出来なければ足りていない。
そもそもとしてまともな親なら「私は愛情を注いだ」なんて訴えも起きない。
その訴え、言い訳が心に宿った時点で毒親の素質あり。
さて子供の審査基準、それは「比較」で決まる。
どれほど自分のために金、時間、手間をかけてくれたか。
それを比較するのは子供にとっての同じ子供。
学校の同級生との比較、兄妹との比較、そして親自身の子供の頃やテレビやネットで見た同世代の子供との比較。
全て子供にとって受け身の状態で入ってくるそれらの情報を基準にして子供は判断する。
だから判断基準は非常に曖昧だ。
ここで毒親がやらかす3つの妨害行為。
それが「よそはよそ、うちはうち」の比較をさせず、さらに子供の比較対象の情報を狭める行為。
「○○ちゃんはあんなに優秀なのに、あんたは駄目」という親が他所と子供を比較して審査する行為。
そして「何故こんな簡単な事ができないんだ!」あるいは「○○賞を貰ったから偉いぞ」と結果しか見ない結果主義的行為。
別に不思議なことじゃない。
子供でなくても例えば仕事で上司から言われたら嫌でしょ。
職場の問題を上司に進言して改善してもらおうとしたら「うちは昔からコレでやってきたから」と返されたら。
常に優秀な人間と比較され続けて仕事にケチつけられ続ければやる気も萎える。
結果ばかり求められて自分の努力を見ていてくれなかったら。
さてこんな一般的な日本人にとって弱音みたいな事を言うと勝者的な考えの人間はこう返す「だって仕事だろ、甘えるな」 と。
本当にただの弱音かどうかはしっかり分析して責任を問わないとわからない。
それに社会人には「退職する」という選択肢もある。
これを親子の立場に変えて考えてみればいい。
子供の仕事は結果を出す事じゃない。
子供にとっての仕事は「よく食べ、よく学び、よく遊ぶこと」昔から言われてる事だ。
そして子供には家から逃げる決意をきめることも、そして実際に家から逃げ出す事もかなり難しい。
とりあえず一旦ここで区切り。
次は毒親の妨害行為を通してそこから見える子供の訴えと疑問を考えてみる。
長い、長すぎる。
もっと簡潔にまとめられたら、とは思う。
一応、結論は先に持ってくるようにはしてるけど長いと見るのダルいよねぇ。