人に教えるということ。説明が下手ということを考える。
僕は誰かの言う簡単を最初は絶対に疑う。
僕はそこそこ面倒な人間なので、簡単と言われたら、論理的に、僕が理解できるように、説明させたくなるのだ。そこで理解できる、何なら、できなかったことができるようになってしまうような、そんな素晴らしいきっかけを得られる説明をされてしまったら、僕はその人を崇め奉り、ディナーで焼き肉に連れて行って、そのまま奢ってしまうだろう。
逆に、感覚的な、何を言っているんだ? と言いたくなるような説明なら。お前教える気あるのか? みたいな指導の仕方の場合、君は何をもって簡単だと言っているのだと。
僕は考える。いくつかパターンがあるのではと。名選手名コーチにあらずという言葉があるのだ。説明が下手だからと、そいつが無能であるという認定をするには早いのである。
そもそも説明が下手でも、できているという事実を目の前にしている以上、できているのに説明できないというある種の矛盾を孕んだ状況は、しっかりと考察をせねばなるまい。
・簡単だから、このくらいの説明で十分だと。即ち。できない奴の気持ちが理解できないタイプ。
恐らく、センスが良く、簡単に会得できてしまったために、あっという間に、論理的な理解がなされる前に、身体で覚えてしまったのだ。それは例えば、人が喋り方や歩き方を上手く説明できないようにである。
先に述べた、名選手名コーチにあらずというのはこれである場合が多いと感じる。
・簡単と見栄を張っているだけ。これは一番しょうもない。説明するまでもない。
・簡単だと思い込んでいるパターン。これが恐らく一番厄介だろう。前者二つ。見栄を張っているわけでも、感覚的な理解も完璧というわけでは無い。
ただその人の頭の中で処理できることが多いために、感覚的に理解できている人よりも要領が悪い、やり方は非効率かもしれないが、結果的にはできてしまう。
このタイプは、説明しようとすると、パンクする。なぜならその場しのぎその場しのぎでやっているため、結果的には出来ているから、自分の適当なやり方でもできるから簡単だと思ってしまうのだ。
何となく何とかなる状態。だから説明すると曖昧に、明確な基準やコツを示せない。一通りのやり方説明以上のものができないのだ。
ただこのタイプは、将来的に、論理的に自分のやっていることが理解できてくる。考えながらやっているから。それが成れば良い教え方ができるようになるだろう。いわば探り探りの状態、羽化する前のさなぎである。
以上が、僕の考える。簡単と言いながら、教え方が下手な人の分類である。
元塾講師が教える。わかりづらい指導のやり方。
・指示語を多用する。「あっち」とか「こっち」とか「これ」とか「あれ」とかを多用すれば。物凄く分かりづらい指導になるよ。
もっと具体的に物を言えや。
・ひたすら同じことを言う。
例。バック駐車
「右後輪を線に乗せて。そこを軸に曲がるの」
しかし上手くいかない。
「だから、右後輪を線に乗せるの!」
という感じ。
いや、その説明で失敗しているんだから。工夫しろ。工夫。「窓枠と駐車場の線が合わさるように」とかさ。
・感情的に怒鳴る。 論外。指導者は感情的に、イラつき任せに怒鳴った時点で失格。
・複数の段階を踏むものを、一つの行程として、一気に説明してしまう。
「急須に茶葉を入れてお湯を注いで少し待って湯呑に注ぐの」
「急須に茶葉を一匙入れて。そうそう。んで、急須の内側に線見えるでしょ。そこまでお湯を入れて、んで少し待つ。あとは今回は三杯湯呑あるから、一回で満タンまで入れずに、少し注いで、次の湯呑に。というのを繰り返す。イエス。そんな感じ」
指導される側に寄り添いましょう。
まとめると。
「それをこうして、こうやって。こうするの。……だから! これを! こうして! こうやって! こうするの!」
最悪の説明の仕方はこんな感じになる。