第4話
アルバイトを本格的に始めてから、はや二週間が経過した。
仕事にも少しずつ慣れ、怒られることもあるが、なんやかんやで何とか業務をこなしている。最初不安だった同僚の樋口さんも、慣れれば話しやすく仕事にも詳しい。実に頼りになる先輩である。
だがやはり、慣れないことをしているせいか、仕事が終わると未だにクタクタになる。こういう時は家に帰ってキンキンに冷えたサイダーでもがぶ飲みしたいのだが……ここで、俺は悲劇に見舞われた。
「――ない! ないないない! なぁぁい!!」
必死にあらゆるポケットを漁るも、アパートの鍵が見つからない。窓は完全施錠。玄関もしっかりと鍵を閉めていて、鍵がなければ侵入は不可能。俺の防犯意識の高さが裏目に出てしまったようだ。要するに、家に入れない。
すがる思いで大家さんに電話をするが、なんとまあ運が悪いことに電話に出てくれない。鍵屋さんに電話して概算見積もりを聞いてみたが、これがベラボーに高い。おそらく、窓を割って入った後の修理費とドッコイだ。これは最終手段だろう。
あとは大家さんが着信に気付いてかけ直して来ることを待つばかりというわけだが、何と言うか、間抜けな自分をただただ恨むばかりである。
「……はぁ。ついてないな……」
力なく玄関前に座り込んだ。やることもなく、そのまま目の前の空を見上げる。
夕方に差し掛かった空は茜色に染まり、薄い雲が膜のように広がっていた。遠くからはローカル線を走る電車の音や、車のクラクションが微かに聞こえる。
この街に来てから早二週間。少しずつ生活にも慣れて来た。
高校の時とは全てが違う。自分で飯を用意して、自分で洗濯して、自分で掃除をする。最初こそ新鮮で楽しかったが、同時に苦労も多い。そこで思い起こすのは、バイト初日に樋口さんが言っていた言葉だった。
――夢の独身生活ってわけだ。まあ、楽しいよな。最初は。―
さすがは人生の先輩。言い得て妙である。
そして更に思うことは……。
(……俺、何がしたいんだろうな……)
……そんな、ネガティブなことだった。
考えもなしに一人暮らしを始めたはいいものの、これといってやりたいこともない。やろうと思っていることもない。
樋口さんは人気配信者になるべく、毎日意欲的に動画を配信し続けていた。それに比べて俺はどうだ。ただ毎日を過ごして、じゃあその先はどうする。
……そう考えた時、どうしても言葉が浮かんでこない。
空から降り注ぐ無限の黄昏はどこか侘しく、儚く、そして目に沁みる。この光は慰めてくれているのか、それとも嘲笑っているのか……。
それは、俺にも分からなかった。
とここで、奥の階段から足音が聞こえて来た。
何気なくその方向を見ると、やって来たのは隣の部屋の金髪姉ちゃんだった。
彼女はこの前のずぼらな恰好とは打って変わり、スラッとしたスーツを着ていた。パンプスをカツカツ鳴らしながら歩き、ビジネスバッグ片手に背筋を伸ばすその姿は、まさしくキャリアウーマン。
(……いや、誰だよ)
もはや別人にしか思えない。
何と言うか、超美人の超仕事ができる人って感じだ。あのふてぶてしい態度を知らなければ一発で心を持っていかれていたかもしれない。
そんなくだらないことを思っていると彼女と目が合った。俺は思わず立ち上がり、「こんばんわ」と頭を下げる。
彼女は挨拶を返すことなく近くまで来ると足を止めた。
「……何してんの?」
「え? い、いや……鍵をなくしてしまって……」
「入れないってこと?」
「ははは……」
笑って誤魔化すと、彼女は溜め息を一つ。
「大家さんには電話した?」
「ええ、まあ。電話に出なかったので、折り返し待ちです」
「ふ~ん……」
彼女は俺と部屋の入口を交互に見た後、そのまま自分の部屋へと入って行った。彼女が去った後、再びその場に座り込む。
一向に大家さんからの電話が鳴る気配はない。最悪、血の涙を流しながら鍵屋さんを呼ぶしかないのかもしれない。
そう思っていると、突然201号室の扉が開いた。そして中から出てきたのは、普段着に着替えた金髪姉ちゃんであった。その手には二本の缶。
彼女はなぜか俺の横に座る。
「え、ええと……」
俺が困惑していると、彼女は「ん」と言いながら缶の炭酸ジュースを渡して来た。
同情されたのかもしれない。だが良かれと思ってくれているのだろう。ここで受け取らないのは無粋と思い、感謝の言葉を口にしながらジュースを受け取った。
すると彼女は持っていた缶ビールを開け、グビグビと飲み始めた。
「……ッぷはぁ、うっま」
(オッサンかよ)
しかし喉が渇いていた俺には実に美味そうに見えた。彼女に続き、俺もジュースを開けてグビリと飲む。
「……ッぷはぁ、美味いっす」
彼女はクスッと笑みを浮かべた。
「オッサンかよ」
あんただけには言われたくないが。
そこから特に会話をすることもなく、並んで空を見ながら片やビールを、片やジュースを飲む。茜色だった空は、少しずつ濃い紺色に変わっていった。
不思議と気まずさはなかった。少し変態的に言えば、彼女からいい匂いもする。
「……そう言えばさ、名前、言ってなかったっけ?」
突然、彼女はそんなことを言ってきた。
「え? あ、はい」
「そっか。……アタシ、聖璃。勅使峰聖璃。あんたは?」
「洛内陸です。よろしくお願いします、勅使峰さん」
「聖璃でいいって」
すると彼女は、ポケットからおもむろにタバコを取り出し火をつけた。そして空に向けて白い息を吐き出す。
「……タバコ、吸うんですね」
「悪い?」
「い、いえ……。女の人で吸う人って、あんまり見たことがないので」
「確かに肩身は狭いけどね。世間体も悪いから、家以外じゃ吸わないんだけど」
そして、もう一息。
「あんたさ、近くのコンビニでバイトしてるよね?」
なぜそれを知っている。と、顔に書いてあったのかもしれない。彼女はニタニタと笑みを浮かべた。
「通勤途中に前を通るんだけど、そん時に見かけたからさ。今度寄るから何かサービスしてよ」
「俺にそんな権限はないんですけど」
「そこはアレだよアレ……裏工作?」
「俺は工作員か何かですか?」
彼女は声を出して笑った。
何と言うか、オンオフが激しいようだ。とてもさっきのOLと同一人物とは思えない。
……が、いい機会かもしれない。
ビールを飲む彼女に聞いてみることにした。
「……聞いてもいいですか?」
「うん?」
「勅使峰さ……聖璃さんって、働いてるんですよね?」
「そりゃいちおうね」
「その……やっぱり大変ですか?」
「まあ楽じゃないけどね。でも、働かないと生活できないし」
「ですよね……」
すると彼女は、俺の顔をじーっと見た。
「な、なんすか?」
「……ふーん、今あんたが考えてること、当ててやろうか? 自分が何やりたいかわからない……そんなところ?」
「エスパーですか」
彼女は微笑みながら「まさか」と言う。
「あんたぐらいの年に考えがちなことだからさ。最初に言っておくけど、アタシだって今の仕事がしたかったわけじゃないから。言ってしまえば、ただの生きる手段ってところかな」
そして彼女はビールを飲み干す。
「……アタシさ、本当はやりたいことがあるんだよね。やるべきことって言った方がいいのかも。今はちょっと面倒なことになってて、こっちにいるんだけどね。そのやるべきことのために、生きる。生きるために、働く。それが、私の働く理由ってところ」
聖璃さんはどこか誇らし気に見えた。ぶれない瞳で空を見つめ、決意を見せるように話していた。
「……カッコいいですね、聖璃さんは」
「ハハハ、ありがと。まあ、人生色々ってことだ。頑張れよ少年」
彼女は立ち上がり体を伸ばした。すると、俺の玄関を見る。
「あんたの部屋、ここだっけ?」
「あ、はい」
「……」
すると、彼女はドアノブに手をかける。
「だから、鍵はなくしたんで――」
と言い終える前に、玄関戸はあっさりと開いてしまった。
「……は? なんで? 確かにさっきは……」
「でも開いてんじゃん。あんた、ちゃんと確認した?」
聖璃さんはニタニタしながら俺を見ていた。
つまりこういうことのようだ。俺は鍵を閉め忘れていたにも関わらず、鍵がないと焦り勝手に慌てていた……と。
「……はぁぁぁ。なんだよそれ……」
クソデカい溜め息をつくと、彼女は腹を抱えて笑う。
「……笑い過ぎでしょ」
「ごめんごめん。まあ、今回のことは一つ貸しにしとくよ。でも大家さんにはちゃんと鍵をなくしたこと言うんだよ?」
彼女は今度こそ自分の部屋の扉を開ける。
「……じゃあおやすみ、陸」
そして、そのまま部屋へと入って行った。
(……最初はふてぶてしい人って思ってたけど、良い人みたいだな)
彼女の部屋に向けて一度だけ頭を下げた後、ようやく懐かしの我が家へと帰還するのだった。