人魚姫と男
浜辺で歌う一人の少女。
美しい、世界で一番なによりも美しい歌声。
そこに歩み寄る男が一人。
「はじめまして、お嬢さん。どうか怖がらないで、私は怪しい者ではない。」
大きなシルクハットを被った黒ずくめの男は笑みを浮かべて言った。
「私は、貴女を幸せにする為ここに来たのです。」
男は少女に手を差し伸べる。
少女はその白魚のような小さな手を、男の枯れ木のような大きな手に重ねた。
「あなたのお名前はなあに?」
「……秘密です。」
「そうなの。」
「貴女のお名前は?」
「……秘密よ。」
「そうですか。」
ふふっ、少女も男も小さく笑った。
「でも、名前がわからなかったらあなたのことなんて呼べばいいのか困っちゃうわ。」
「貴女の好きなように呼べば良いのですよ。」
「好きなように?…うーん、ぼうしさんとか?」
「素敵な名前ですね。…では貴女のことは何と?」
「ぼうしさんの好きなように呼んで?」
「……そうですね。では、」
「人魚姫、と。」
今宵もまた行われる。
スポットライトは月明かり、舞台は浜辺で。
「人魚姫」のコンサート。
観客は一人きり。
大きなシルクハットで黒ずくめの男。
とても、とても。
幸せな時間。
それもいつか終わりを迎える。
とても、とても。
悲しい結末。
報われず。
泡になる。
天に消え。
忘れ去られる。
そんなのは、許さない。
なぜ、彼女だけ?
他は幸せなのに。
なぜ?
幸せにならなければ。
彼女を、
幸せにしなければ。