57話【覚醒と共闘】
「……ここは」
天井を見つめたまま、冥鬼が呟く。
戻ってきたのか、と思いながら視線を泳がせると同時に、視界にショートカットの少女が顔を覗かせた。
「冥鬼くん……!」
彼の顔を覗き込んだのは楓の友人、杏子だった。
冥鬼はしばらくぼんやりと彼女の姿を見つめた後、やがておもむろに体を起こす。
寝起きの悪い冥鬼にとって、例え目が覚めたとしても彼の意識が覚醒するまでには時間がかかる。
背中の傷は既に塞がり、体力も十分に回復していた。
どうやら自分は生きているらしいと自覚をしたのは、毎日暮らしている鬼道家の匂いを意識してからだった。
やがて冥鬼の意識と視線は、傍らで自分を心配そうに見つめている少女へ向く。
彼女の名前は、小田原杏子。
楓の幼馴染である。
まるで男のようや口調をしており、サバサバとしてはいるがガサツというわけではなく、冥鬼の前では何故かしおらしい一面を見せる変わった少女。
黒いロングヘアをポニーテールにしている楓とは違い、杏子はショートカットで大人っぽい印象を受ける。
以前会った時とは違う化粧をしているのか彼女の頬には赤みが差しており、唇も女の子らしいコーラルピンクに彩られていた。
冥鬼と視線の合った杏子は、胸を撫で下ろして微笑んだ。
「冥鬼くん、よかった……目が覚めるなりみんなどっか行っちゃうし、オレ……すごく心細くて」
「みんな?……楓もか」
どこかふわふわとした様子の冥鬼を心配そうに見つめていた杏子だったが、ようやく安堵の表情を浮かべる。
しかし、冥鬼の表情が険しくなったことで杏子はハッとした顔で俯いた。
「実はさ……さっき狗神さんが来たんだ。冥鬼くんの命を救う解毒薬と引き換えに、一人でついてきて欲しいところがある……って。めちゃくちゃ怪しいだろ?なのに楓の奴、狗神さんと一緒に出て行っちまって」
杏子は姿勢を正しながら静かに応える。
冥鬼は、ゆっくり瞬きをすると、やがて長いため息をついた。
毒の傷をつけた男と同じ、白銀の髪と金色の瞳を持った狗神と名乗る少女の存在を、彼も知っているからだ。
「狗神響子、か」
冥鬼が忌々しそうに呟くと、杏子は再度頷きを返す。
その手は小さく震えている。
心細いと漏らしたのは本心なのだろう。
「そ、そうだよ。狗神さんとは同じクラスなんだけど……何か、いつもと雰囲気が違ってた」
「あの大間抜けの馬鹿女が……」
冥鬼は自分の顔を片手で覆って視線を外す。
同時に、自分の袖を纏っている洋服ではない和装の黒衣に気づいて目を見張った。
よくよく見ると、布団の上にも見慣れない赤い羽織が掛けられているようだ。
「……こんな服、持ってたか?」
「え?オレが起きた時にはもうその服装だったぜ。桜ばあちゃんたちが着替えさせてくれたんじゃないのか?」
杏子は不思議そうに首を傾げている。
彼の肌に馴染む黒衣からは、確かな妖気が感じられた。
それはただの黒衣ではない。
恐らくこの服を着ていれば並大抵の攻撃は弾けるだろうと、そう確信させるだけの妖気が黒衣を覆っている。
そして、彼の布団の上にかけられていた血のように赤い羽織。
鮮血を流したような赤い生地に妖気を練り込ませて編まれたのであろう羽織も、冥鬼には身に覚えのないものだった。
(人間である桜が作ったとは思えんが……)
まさかあの世からの差し入れか?と冥鬼は鼻で笑って羽織に袖を通す。
肌馴染みのいい和装に身を包んだ冥鬼は、開け放たれたままの障子に手をかけて言った。
「もし、桜が帰ってきたらさっき俺様に話したことをそのまま伝えておけ」
「め……冥鬼くん、待って!」
そのまま出ていこうとする冥鬼に、杏子は慌てたように立ち上がると、冥鬼の袖をぎゅっと掴んだ。
振り返った冥鬼の瞳に杏子の姿が映し出される。
不安そうに向けられた眼差しは、まるで小動物のようにも見えた。
杏子は不安そうな表情を浮かべて何か言いたそうに唇を開くが、やがてゆっくりと震えた手を離して大きく頭を下げた。
「……楓と鈴蘭のこと、お願いしますっ!」
体育会系らしい、凛とした杏子の声が部屋に響く。
冥鬼は、静かに目を瞬いて杏子を見つめると、やがてゆっくり身を翻して小さく震える少女の手を取った。
「あっ、冥鬼くん……?」
突然手を握られたことで杏子は慌てたように顔を上げる。
すると、思いのほか至近距離に冥鬼の顔があった。
それだけで、少女の頬は赤く染まっていく。
冥鬼は、恥ずかしそうに耳まで赤くしている杏子を見ると、少しだけ緋色の瞳を細めて笑った。
「何かしてりゃ恐怖も紛れる。お前はくっきいでも焼いて待ってろ。楓の分も忘れるなよ、あいつはよく食うからな」
楓には言うなよ、と冥鬼が茶化すように笑うと、小さく震えていた少女の手から、次第に力が抜けていく。
案外子供っぽい素の表情は、杏子の見たことの無い新鮮なものだった。
楓のことを話す彼の表情は深い愛情に満ちていて、少しだけ杏子の胸がちくりと痛んだ。
それは失恋のほろ苦い痛み。
けれども、杏子の顔には眩しいばかりの笑顔が浮かんでいた。
「……知ってる!」
ようやく杏子が見せた心からの笑顔を見届けた冥鬼は、悪戯に歯を見せて笑うと握っていた手を離して軽く杏子の頭を撫でた。
突然の不意打ちに、少女の頬は瞬く間に赤く染まり上がる。
振り返ることなく部屋を出て行った冥鬼の後ろ姿に、握りしめられていた手を大切そうに握りこんだ杏子は真っ赤な顔をして小さな呟きを漏らした。
「冥鬼くん、ずるいって……」
耳まで赤く染め上げている杏子を背にして、冥鬼は険しい表情で住み慣れた鬼道家の廊下をまっすぐに進んでいく。
意識を失っていた時に彼が見た夢の中で幼子と手を握った時、幼子自身の記憶が冥鬼に流れ込んできた。
それは、幼子が冥鬼の代わりに見守ってきた子孫たちとのこと。
1000年以上もの膨大すぎる記憶を頭の中で少しずつ整理しながら、今は誰も居ない和室に目を向ける。
そこはかつて、楓の母であるすみれが居た部屋だ。
「……鬼道すみれ、か」
冥鬼は誰も居ない和室を見つめて小さく呟く。
彼自身、すみれと出会ったことは無い。
けれども幼子から引き継いだ彼の記憶は、彼女のことを昨日のことのように覚えていた。
彼女の雰囲気は、どちらかというと冥鬼の姉、紅葉に似ている。
冥鬼は部屋の中にぽつんと置かれた仏壇に近づくと、その場にゆっくりと座り込んだ。
そして、写真立てに飾られた楓によく似た女性を見つめて懐かしむように目を細める。
「あんなにお転婆だったお前が母親とはな……。今の楓によく似てるぜ」
幼子の記憶を得ている冥鬼は、すみれとのやりとりを思い起こしていた。
料理が下手なところなんか楓にそっくりだよな、と茶化すように言って笑みを浮かべる。
かつて、楓同様、壊滅的な料理の腕をしていた母のすみれだったが、彼女は妊娠をきっかけに料理教室に通うことで少しずつ料理の腕を上げていた。
冥鬼は、そんなすみれから毎日料理の上達報告を受けては彼女を見守ってきたのだ。
幼い頃からすみれを見てきた冥鬼にとって、すみれのことは我が子のように感じていたし、成長して年頃になった彼女が好きな人が出来たのだと嬉しそうに報告した時も、それを静かに聞いていた。
『私、巫女にはならなくて良いんですって』
かつて、すみれはそう言った。
幼い冥鬼は首を傾げる。
『じゃあ何になるの?』
そう問いかけると、すみれははにかむように笑って言った。
『柊くんのお嫁さん』
えへへとすみれが笑って冥鬼の頭を撫でた。
そして、柊が婿養子になると冥鬼は柊の居ない日中にこっそりと姿を現すようになる。
日に日に大きくなるすみれのおなかをまじまじと見上げる冥鬼に、すみれは幸せそうに微笑んで言った。
『冥鬼様、私の赤ちゃんのことも見守ってね』
そう言って微笑んだ彼女は、もう既にこの世には居ないのだ。
柊の話では、すみれは交通事故で亡くなったと話していた。
夫と娘を何より大切に想っていた彼女のことを、冥鬼は誰よりも知っている。
冥鬼は写真立ての女性をしばらく見つめた後、やがて静かに言った。
「……おかしな話だ。俺様はお前と話したことは無いし、お前も俺様のことを知らんだろう。お前が知ってるのは餓鬼の俺様だろうからな……」
ふてくされたように冥鬼が鼻を鳴らす。
しかし、やがて僅かな間を置いた冥鬼は、姿勢を正したまま真剣な面持ちで言った。
「鬼王の名に賭けて誓ってやる。お前の愛した娘は、俺様が必ず守ると」
彼が宣言したその言葉は、静かに部屋の中へ響く。
冥鬼はしばらく、記憶の中の思い出に浸るように写真立ての女性を見つめていたが、やがてゆっくりと立ち上がると、誰もいない部屋から出ていった。
懐かしい匂いのする部屋を出ていき、玄関へと向かう。
楓の父、柊の靴が無いところを見ると、彼は今日も仕事のようだ。
玄関を出た冥鬼は、そのまま大きな数寄屋門をくぐる。
朝、楓に急かされるようにして飛び出した門が、今はやけに重々しく感じられる。
門を抜けた冥鬼は、家の前に立っている幼い鬼の姿に気づいて僅かに眉を寄せた。
青みがかった黒髪が特徴的な、少年とも少女ともつかない小柄な鬼がそこに立っている。
「お前……クソ犬の仲間のチビ鬼」
「雪鬼です」
覚えてください、と雪鬼は心外そうに付け足して目を細めた。
以前会った時よりもずいぶんやつれたように見える青鬼は、おもむろに冥鬼の前に立ち塞がる。
冥鬼はそんな雪鬼を無視するように、鬼道家を背に楓の気配を追って歩き始める。
すると、遅れて雪鬼が冥鬼の後についてきた。
「待って。僕も連れて行ってください。楓殿を救いに行くんですよね?」
大股で歩く冥鬼の後に続いて雪鬼が駆けてくる。
雪鬼の頼み事を耳にした冥鬼は、大して面白くもなさそうに鼻で笑った。
寒さのせいか背を丸めている。
「白々しいガキだな。貴様のお仲間に楓は連れていかれたんだぜ」
「響子は関係ありません。僕はもう、捨てられましたから」
冥鬼の嫌味も気にすることなく、雪鬼が応える。
すると、雪鬼の返事を聞いた冥鬼はやにわに声を上げて笑い始めた。
「ぷっ……あははは!そうか、鬼が犬に捨てられたとは情けねえ話だ!」
「……笑いすぎです」
雪鬼は眉を寄せて冥鬼の背中を据わった目で見つめる。
ひとしきり笑った冥鬼を静かに諌めた雪鬼は、表情を変えることなく続けた。
冥鬼は相変わらず、雪鬼に歩幅を合わせることはなく背中を丸めたまま自分のペースで歩いている。
「……着いてくるなと言われても勝手に着いていきます。あの人が楓殿を狙っているのに、何もしないで見ているなんて出来ません」
「……やはり、あの狗神響也って男はお前らの仲間かよ」
雪鬼の言葉を聞いた冥鬼は、雪鬼に目を合わせることなく静かに舌打ちをした。
既に雪鬼が狗神響也について知っているかのような口ぶりだったからだ。
雪鬼は、惑うこともなくハッキリと応えた。
「あの人は響子の兄です。そして、僕に戦い方を教えてくれた師匠でもある」
「あんな変態野郎が師匠かよ……」
悪意たっぷりの、嫌そうな表情で言った冥鬼が肩をすくめる。
雪鬼は否定も肯定もせずに、少しだけ俯いた。
「あの人は、響也は……本当に楓殿を狙っているんですよね?」
間違いであって欲しいとでも言うように、雪鬼が冥鬼に問いかける。
冥鬼は歩きながら応えた。
「鬼王の巫女の生き血は不老不死になれるらしいぜ。どこで知ったのかは知らねえが、狗神響也はその生き血を狙ってるようだな」
「鬼王の、巫女……?」
聞きなれない言葉を耳にしたとでも言うように、雪鬼が首を傾げる。
そこでようやく、冥鬼は立ち止まった。
「鬼道楓には鬼の血が流れてる」
僅かな間の後に、冥鬼が告げる。
まだ自分自身でも信じられない話だった。
楓には鬼の血が流れていて、なおかつ自分の子孫だったなどと。
「そうか……楓殿には僕と同じように人間と鬼の血が……」
雪鬼はあまり驚いていないのか、納得したように自分の顎に手を当てた。
「……楓には言うなよ」
「言いませんよ」
険しい表情で振り返った冥鬼とは正反対に、雪鬼はどこか嬉しそうな顔をしている。
何が嬉しいのか、と冥鬼は冷めた目を送るが雪鬼が人と鬼の半妖であることを思い出して合点がいった。
恐らく、楓にも人と鬼の血が流れていることを知って嬉しくなったのだろう。
この幼い鬼は、今までずっと一人だったのだろうから。
しかし、最近まで狗神響子と暮らしては居たようだ。
捨てられたと口にしたところからすると、今は一人で生活しているのだろう。
「……貴様、今はどこで暮らしてるんだ」
「どこ、と言う特定の場所はありません。人の入ってこない山とか、あとは廃墟とか……」
冥鬼の問いかけに、雪鬼は少し言いづらそうに応えた。
幼い鬼の体には傷を手当を受けた跡がいくつも見られる。
以前よりやつれて見えるのも恐らく、まともな飯を食べていないせいだ。
冥鬼は大きくため息をつくと、やにわに雪鬼の腕を掴んだ。
「……で、貴様はそんな体で俺様に着いてくるつもりか?」
雪鬼のか細い腕を掴んだ冥鬼が静かに尋ねる。
雪鬼は返事に惑うように視線を揺らしたが、すぐにつり目がちの赤い瞳を向ける。
「……僕が足でまといになったら捨ててください」
「どんな冷徹野郎だと思われてんだ俺様は」
冥鬼は少し心外そうな顔をして肩を竦めた。
そして、雪鬼から顔を逸らして小さなため息をつくと、雪鬼を値踏みするように横目で見つめた。
やがて間を置いたのちに雪鬼の腕を掴んでいた手を離し、手のひらを雪鬼の顔前に突き出す。
同時に冥鬼の手のひらから発せられたのは、橙色をしたあたたかい光だった。
「な、何を……」
「黙ってろ、気が散る」
戸惑うように向けられた雪鬼の問いかけを冥鬼が冷たく遮る。
別に気が散るわけではなかったが、今口を挟まれたら冷静に自分の行為を思い返した時、何をしでかすかわからない。
自分が人助けなど柄じゃない、と冥鬼は分かっていた。
こんなことをしても彼にメリットなどないし、冥鬼は自分が正義の味方だとは思っていない。
傷ついた雪鬼の姿を目にして彼の心が動かされたのは同族への情けだろうか。
それとも……。
「半妖ってのは不便だな、自分の怪我も治せねえのかよ」
手のひらから発せられる橙色の光がみるみるうちに傷を癒していく。
雪鬼の顔前に向けていた手のひらを軽く左右に振りながら、冥鬼はわざと嫌味っぽい言い方をする。
以前も雪鬼との共闘で感じたことだったが、純粋な妖怪である冥鬼には、自らの妖気を治癒に変え、傷を修復できる力がある。
元々彼の体にある傷を治すことは出来ないが、封印が解けてから作られた傷ならば直ちに治すことが可能だ。
しかし半妖の雪鬼にはそれが出来なかった。
狗神響子と暮らしていた頃ならばともかく、右も左も敵しかいないこの世界で5年先も生き抜ける確率は、恐らく限りなくゼロに近い。
特に今の世の中は人間が多すぎて、半妖の雪鬼には生きづらいだろうと、冥鬼は感じていた。
(子供、か……)
冥鬼の脳裏には、先程から幼い少女の姿がよぎっていた。
夢の中で見た、鬼道楓と同じ名前をした自分の子。
あの子は無事に人間の世界で生きられたのだろうか。
雪鬼のように、親が居ない人間の世界で無事に天寿を全う出来たのだろうか。
彼自身に当時の記憶はないものの、自分の子をとても大事に想っていたはずなのだ。
だからこそ、見守りたいと強く願った意思が、彼にもう一人の自分を生み出させた。
「何で、僕を……」
完全に傷の塞がった自分の体を見下ろして、雪鬼は目を瞬いた。
冥鬼は手を下ろすと、素っ気なく顔を背ける。
「敵陣に向かう前から足でまといになられちゃ迷惑だからな」
「ありがとう、ございます……」
雪鬼は頭を下げて冥鬼に礼を言う。
らしくないことをした、と冥鬼は自分の髪を軽くかき乱してから、再び背中を丸めて歩き出した。
雪鬼が遅れて冥鬼の後について歩き出す。
「いいか、向こうで足でまといになったら本当に捨てるぞ」
「わかってますよ。僕を気遣いながら戦う必要はありません……相手は狗神響也ですから」
冥鬼が怒ったような声色で言うと、雪鬼は目を丸くして応える。
狗神響也の名を耳にした冥鬼は心底不快そうに鼻を鳴らしたのだった。




