56話【現世への帰還】
1000年以上前から変わらない青空が、緋色の瞳に映し出されている。
冥鬼は一度眩しそうに目を細めてから、ぼんやりと瞬きをした。
「気づいたか、冥鬼」
そんな彼を覗き込む坊主の姿があった。
夢で見た、心配そうに冥鬼を見つめていた坊主と同じ人物だ。
「川は渡るなと行っただろう。お前、鶴の恩返しの鶴が機織りしてる場面で、絶対覗くなって言われてるのに開始5秒で即覗くタイプだな」
坊主が呆れたようにため息をつく。
意識を取り戻したばかりということもあり、彼の言っている意味が分からなかった冥鬼は、やがてゆっくりと体を起こして口を開いた。
「澄真……」
「うん?」
「俺、お前のこと……思い出した気がする」
少しだけ、と付け足して冥鬼が坊主を見つめる。
澄真と呼ばれた坊主は、ゆっくりと瞬きをした後、困ったように微笑んだ。
「悪いが……俺は確かに鬼道澄真だが、お前の知っているご先祖さんじゃないんだ。あくまでも、お前を現世に連れ戻すためだけにここに呼ばれた……ただの案内人の坊主だからな」
澄真は意味深な言い方をして笑う。
彼の言っていることが分からずに、眉間に皺を寄せた冥鬼は澄真から目を離して辺りを見渡した。
いつの間にか空は晴れており、おどろおどろしかった先程と違い、川も澄み渡っている。
(どこから夢だったんだ……?)
冥鬼は首を傾げながら瞬きをした。
やがて、澄真は冥鬼に目を向けて「行けそうか?」と尋ねる。
今度は冥鬼も大人しく頷く。
再び歩き出した澄真の後ろをついて歩きながら、冥鬼は問いかけた。
「あと、どのくらいかかる?」
「お前がよそ見をしなけりゃすぐにでも到着できるぞ」
澄真が背を向けたまま応える。
先程ならムッとしていた冥鬼だが、大人しく頷きを返すだけに留めた。
何故か、この男に逆らう気が起きなくなったからだ。
記憶の中で交わしたやりとりを思い出したせいかもしれない。
記憶の中の澄真は、冥鬼の命を助けようと必死になっていたように見える。
冥鬼自身、先程よりも胡散臭い坊主に対する反抗心は消えていた。
「そろそろ見えてくるぞ」
澄真の声に顔を上げた冥鬼の視線の先に、空間の歪んだ部分が見える。
歪んだ空間の向こうには、見慣れた本殿が見えた。
「……あれは、鬼道家の……」
「そうだ。ここが現世への出口。そして……」
坊主はそこで言葉を止めると、ゆっくり振り返った。
つられて冥鬼が後方に目を向けると、そこには幼い子供が一人、裸足で立っている。
それは、冥鬼にとっては二度目に会う人物。
「貴様は……」
冥鬼は目を丸くした。
先日の白昼夢で会話を交わした、幼い姿をした自分が、確かにそこに立っている。
ボロの着物を着た鬼の子は、何かを考え込むように下を向いて目を伏せていたが、やがて顔を上げると、冥鬼と同じ緋色の瞳をして言った。
おもむろに小さな手を伸ばす。
「ぼくの手、握って」
「何でだよ」
「……帰りたくないの?」
冥鬼は嫌そうな表情を隠そうともせずに告げるが、不思議そうに首を傾げた幼子に問われると、やがて渋々と言ったように小さな手を握る。
以前は触れることができなかったもう一人の自分。
前回目にした白昼夢の時には、殴れるものなら殴ってやりたいと思っていた冥鬼だが、今はそういった気持ちにはならなかった。
冥鬼に手を握られたことを確認した幼子は、ゆっくりと瞼を伏せる。
同時に、幼子の体がぼんやりと光り始めた。
繋がれた手のひらから伝わる何かが、冥鬼の中に流れ込んでくるようだ。
冥鬼は反射的に繋いだ手を解こうとするが、幼子にギュッと握りこまれてしまう。
やがて、冥鬼は大人しく幼子の手を握ると静かに問いかけた。
「お前は、俺が生み出した存在なんだろ?」
「うん」
確かめるように問いかけると、幼子は頷きを返して緋色の目を向ける。
「君が鏡に封印される瞬間、大好きな紅葉おねーちゃんの子供たちを末永く見守りたいって望んだから、ぼくが生まれたの」
そう告げた幼子の言葉に、冥鬼の表情が強ばる。
「紅葉の……子供?」
紅葉の子供という言葉に、冥鬼は頭を殴られたような衝撃を受けた。
冥鬼はずっと、鬼道楓は鬼道澄真の子孫だと思っていた。
鬼道という名字がついていたし、彼らも鬼道澄真の子孫を自称しているからだ。
しかし、冥鬼が衝撃を受けたのはそこではない。
「つまり俺をお父さんと呼んだあいつは……俺の……」
夢の中の【楓】という少女は、冥鬼を父と呼んだ。
そして目の前の幼子が発した言葉で、冥鬼は気づいてしまった。
自分は、実の姉と結ばれていたのだと。
鬼道楓が紅葉と瓜二つなのにも、これで説明がつく。
彼女、鬼道楓には自分と同じ鬼の血が流れているのだ。
(じゃあ、俺が楓に惹かれてるのは……)
かつての愛する女性と、重ねていたからなのだろうか。
そう自らに問いかける。
例え記憶がなくても、何も思い出せなくても、無意識に紅葉の面影を楓に見ていた可能性が、全くないとは言いきれない。
「ちっ……」
冥鬼は苦虫をかみ潰したような表情を浮かべて舌打ちをする。
目の前で冥鬼と手を繋いだままの幼児の姿が、足元からうっすらと透け始めた。
「安心して。おにーちゃんが楓おねーちゃんを大好きって気持ちは本物だよ。それはぼくが一番知ってる」
まるで冥鬼の心中を読んだかのように、幼子が声をかける。
自分自身にキッパリと言いきられたことで気恥ずかしくなってしまった冥鬼は、不機嫌そうな顔を作って視線を背けた。
「……おにーちゃんの体の毒ね」
ふと、しばしの沈黙の後に幼子が口を開く。
既に彼の体は半透明になっていた。
「ぜんぶ消えたよ。これでもう大丈夫」
「……礼は言わねえぞ」
幼子の言葉に、冥鬼はぶっきらぼうに応える。
冥鬼には、もうこの幼子が自分や楓の前に現れることはないのだと何となく分かっていた。
彼自身が死の間際に望んだ願いは、長い時をかけて意思を持ち、幼い冥鬼の姿となって実体化した。
冥鬼が体の傷を癒すために深い眠りについている間、代わりに自分の子孫たちを見守ることが幼い冥鬼の役目だった。
しかし、冥鬼が目覚めた今、幼子の役目はもう無い。
彼は、消えるのだ。おそらく、永遠に。
「……楓に何か伝えておくこと、あるか?」
相変わらずぶっきらぼうな調子で尋ねる。
それは、今まで自分の代わりに彼女たちを見守っていた幼子への、冥鬼なりの気遣いだった。
すると、幼子は意外そうにゆっくりと瞬きを繰り返した後、緋色の瞳を細めて微笑む。
「……おねーちゃん、大好き」
「絶対伝えねえ」
冥鬼が間髪入れず、仏頂面で即座に口にする。
幼子は不思議そうな顔をしてぱちぱちと目を瞬いてから、少しだけ笑って瞼を伏せた。
「ぼく、眠くなってきちゃった……」
幼い体は、既に表情すら読み取れないほどに透け始めている。
冥鬼は握ったままの手を見つめて言った。
「後は大人に任せて、餓鬼は大人しく寝てろ」
冥鬼の言葉に、幼子は「うん」と小さな声で応える。
小さなツノが一際赤く輝いた。
思わず目が眩んでしまい、冥鬼は瞼をぎゅっと閉じる。
やがて赤い輝きが落ち着いた頃、ゆっくりと瞼を開けるとそこは冥鬼のよく知る天井があった。




