53話【坊主と鬼王】
気がつくと、辺りは暗闇だった。
自分が目を開けているのか、目を瞑っているのか、立っているのか、横になっているのか、それすら分からない暗闇の中で冥鬼は思った。
まるで自分が封印されていた時のような感覚だと。
彼は長い長い時間の中、鏡の中に封じられていた。
鬼道澄真と言う坊主の手によって。
「……」
少年はぼんやりとその名前を口にする。
声になったかどうかは定かではない。
しかし、少年の言葉に呼応するかのように暗闇の中で白いモヤが人の形を作っていく。
シルエットだけだったその形は、次第にハッキリとした人間の輪郭や指先を作りあげた。
髪の生えていないつるんとした頭に、人の良さそうな顔立ち。
肩には黒い鴉を従え、ボロを纏ったような着物姿をした坊主。
少年の目の前に現れたその坊主は、おもむろに歩み寄ると少年に向かって手を差し伸べた。
「なんて顔してるんだ、冥鬼。立て」
坊主はそう言って少年の手を掴んだ。
その途端、暗闇しかなかった周囲で突然明かりがついたかのように視界が眩む。
冥鬼と呼ばれた少年は、咄嗟に目を瞑った。
やがて、ゆっくりと瞼を開けると、そこには見慣れない草原がどこまでも広がっている。
「俺、は……生きてる、のか?」
先程まで暗闇で覆われていた世界は、嘘のように晴れ渡っていた。
狐につままれたような顔をして冥鬼が独り言を呟くと、目の前の坊主は人の良さそうな顔をして応える。
「かろうじて生きてるぞ」
坊主の返答に、冥鬼の表情に遅れて緊張が走る。
彼は狗神響也と名乗る男の毒で倒れた。
途中で痛車に乗った天狗兄妹が現れたところまでは記憶しているが、その後についてはよく覚えていない。
おそらく気を失ったせいだろう。
「貴様もあの響也とか言う変態の仲間か?」
冥鬼は感情を殺した声で尋ねる。
しかし、坊主は目を丸くすると、ゆっくりかぶりを振って言った。
「俺はただの無害な坊主だよ」
坊主は肩を竦めて笑う。
冥鬼はすかさず「信用できない」と口にしようとするが、坊主の言葉によってそれは遮られた。
「いいか冥鬼、この川を下るとお前が元居たところに帰れる。途中まで送っていくから、俺についてこい」
坊主は、自分たちの傍で流れている川を指して言った。
彼の言葉や気配に邪気はない。
しかし、冥鬼は鼻を鳴らして男を睨む。
「会ったばかりの貴様を信用しろってか?」
「ま、まあ……確かに一理あるな。知らない人について行かない、なんてのは子供ですら知ってる言葉だ」
坊主は馬鹿正直に腕を組んで考え込む。
その姿は、どこか懐かしさすらあった。
困ったように眉間に皺を寄せている坊主から視線を外した冥鬼は、足元を流れる川を眺めて再度口を開く。
「ま……いいぜ。いつまでもここに突っ立ってたって仕方ねえんだ。貴様について行ってやるよ。だが、妙な真似をしたら殺す」
「それで構わんよ。では参ろうか」
坊主は、ホッとしたように頷きを返してゆっくりと川沿いを歩き始める。
どこまでものどかな陽気だった。
空には雲一つ無く、眩しい太陽が輝いており、文字通りの晴天だ。
暦の上では冬だが、小春日和のような陽気さえ感じさせる。
冥鬼は坊主の後ろ姿を見つめながら問いかけた。
「ここは何処なんだ?」
「まあ……言ってしまえばあの世とこの世の間にある世界……デスタウンってやつかな」
冥鬼が着いてきているか、一度確認するように振り返った坊主が応える。
しかしすぐに前を向いて歩き始めた。
冥鬼は、聞きなれない横文字に首を傾げる。
「俺様は死ぬのか」
坊主の後に続きながら、冥鬼は静かに問いかける。
返ってきたのは先ほどと変わらない、のんびりとした声色だった。
「そうならないように俺が案内してるんだ」
「……貴様は何者だ?」
一定の距離を保ちながら男の後に続いていた冥鬼が立ち止まる。
坊主は数歩遅れて歩みを止めると、ゆっくりと冥鬼に振り返った。
「言ったろ、ただの坊主だ」
その言葉と同時に、坊主の肩に乗っていた大きな鴉が耳障りな鳴き声を上げる。
坊主は鴉をたしなめるように嘴を軽く撫でてから冥鬼へと視線を向けた。
「冥鬼よ、ここから帰りたいなら三つの約束事を守ってもらうぞ」
そう言って、坊主が冥鬼へと一歩踏み出す。
思わず後ずさろうとした冥鬼だったが、坊主はすかさず冥鬼の顔前に指を向けた。
「ひとつ、俺の傍から離れないこと」
その言葉に、後ずさろうとした冥鬼は直前で踏みとどまる。
坊主は続けた。
「ふたつ、よそ見をしないこと。綺麗な花が咲いてたから寄り道しようとか、知らない奴が声をかけてきてもついて行かないこと」
「……俺様は餓鬼かよ」
坊主の言葉に、冥鬼は明らかに嫌そうな表情を浮かべる。
しかし、坊主は応えなかった。
その代わりに、三つ目の約束事を口にする。
「みっつ、川の向こう側に行かないことだ」
それだけ言って、坊主は再び踵を返して歩き始める。
冥鬼は遅れて坊主の後に続いた。
彼らのすぐ傍には川が流れており、向こう岸にも同じような景色が広がっている。
「川の向こう側に行ったらどうなる?」
「まあ……二度と戻って来られないだろうな。すまん、俺も詳しくは知らないんだ」
冥鬼の問いかけに、坊主は曖昧に応えた。
坊主の眩しい後ろ頭を見ながら歩き続けていた冥鬼は、ふと川の向こう側に幼い子供が数人立っていることに気づく。
子供たちは冥鬼に向かって手を振った。
彼らの顔は何故か霞んでいて、まるでのっぺらぼうのようにも見える。
冥鬼は眉間に皺を寄せて、思わず目を凝らそうとした。
「見るんじゃない、冥鬼」
坊主が歩きながら静かに告げる。
「帰りたいなら立ち止まるな」
冥鬼へと振り返って坊主が言う。
その言葉を聞いた冥鬼は少しだけ考えると、川の向こう側で手を振っている子供たちのことを視界に入れないように、背中を丸めて歩き始めた。
「本当に貴様に着いていけば帰れるんだろうな?」
「ああ、帰れるぞ。お前がよそ見をしなければもっと早くに着く」
坊主は振り返ることなく言った。
黙って彼の後に続く冥鬼だったが、やはり川の向こう側が気になるらしく、時折視線を泳がせる。
既に子供たちは川の向こう側から姿を消していた。
(何だったんだ……?)
少しホッとしたような、拍子抜けしたような気持ちになりながら、冥鬼は目を瞬いた。
そのまま、冥鬼と坊主の間に無言の時間が流れる。
長い川はどこまでも続いており、草原と青い空以外に目に映るものは何も無い。
坊主は何も喋らなくなり、代わり映えのしない景色はまるで同じ場所を延々と歩いているような気持ちにさせる。
冥鬼は次第に退屈を感じ始め、先に歩いている坊主から視線を離した。
(一体いつまで歩かせる気だ、このクソ坊主)
疲労を感じたわけではない。
ただ、同じ景色だけが流れるこの空間の中をずっと歩かされていることが退屈だった。
冥鬼は、よそ見をするなと言われていたにも関わらず、再度川へと視線を向ける。
澄み切った、これといって特徴のない平凡な川はどこまでも流れている。
そんな川を挟んで向こう側の岸に着物姿の女性が立っていることに気づいたのは、冥鬼が水面から顔を上げた時だった。
「……女?」
その女性は長い黒髪を腰まで伸ばし、柔和そうな顔立ちをしている。
先程の子供たちとは違う不思議な雰囲気を纏った女性だ。
女性の額には二本のツノが生えており。一目で人間ではないのだと分かった。
ぬばたまの長い髪を揺らした女性の顔には見覚えがある。
「楓……?いや、違う……」
冥鬼は、目をこらすようにして女性を見つめる。
楓と非常によく似た女性は、しばらく水面をぼんやりと見つめていたが、ふと顔を上げて川を挟んで反対側に居る冥鬼に気づいて目を丸くした。
「冥鬼……?」
女性が静かに呟く。
その声は楓とよく似ていたが、楓とは違う雰囲気が彼女にはあった。
女性は冥鬼の姿を目に留めると、大きな緋色の瞳を細めて懐かしそうに微笑む。
そして、女性はおもむろに川へ足を踏み入れた。
着物の裾をたくしあげて踏み入れた川の水位は、女性のふくらはぎの付け根ほどだ。
それほど深い川ではないらしい。
川に足を踏み入れた女性は、川の流れに逆らうように冥鬼へ向かって歩みを進める。
しかし、焦って足を滑らせたのか女性の体勢が崩れた。
「馬鹿!」
咄嗟に冥鬼は川へと足を踏み入れるなり、よろめいた女性の体を支える。
女性は、少し体勢を崩したものの照れくさそうに笑った。
たくしあげていた着物の裾を手放してしまったために長い着物が川の流れに合わせて揺れている。
「お前は……もしかして」
間近で見る女性の顔は、楓と瓜二つだったが決定的な何かが違う。
冥鬼が呟くと、女性は濡れた着物の裾を絞りながら微笑んだ。
「もしかして?」
女性は優しく問いかける。
その問いかけに、鍵が掛けられたままだった記憶の扉から鍵の解錠された音が聞こえた。
冥鬼の耳に優しく響くその声には、確かに聞き覚えがある。
「紅葉……」
冥鬼が恐る恐る名前を口にすると、女性は嬉しそうに深く頷いて微笑んだ。
「……俺の姉、なのか?」
恐る恐る尋ねる冥鬼だったが、すぐに優しい両腕に抱きしめられた。
懐かしい匂いとぬくもりが、少年を包む。
女性の手は冥鬼の髪を優しく撫でていた。
「あなたの姉さんは、今も昔も……わたし一人だけですよ」
おばかさんね、と笑って女性の指先が優しく冥鬼の額を弾く。
その行為すら、冥鬼には酷く懐かしいものに感じられた。
「まだ、記憶は戻らない?」
紅葉は優しく冥鬼の頭を撫でる。
その心地よい行為に、冥鬼は逆らうことも出来ずに瞼を伏せていく。
ただ頷きを返して、冥鬼が口を開いた。
「俺は……」
「あなたはいい子よ、冥鬼。楓も言っていたでしょう?いつだって私のことを心配してくれる……正義感が強くて、優しい子なんだから」
紅葉は冥鬼の髪を撫でながら子守唄を聞かせるような声色で言った。
まるで冥鬼の言いたいことを見抜いていたかのように口にする。
本来の自分は悪い鬼なのではないかと観覧車で楓に話した時、彼女はキッパリと否定をした。
一度は安心したが、本来の自分を知っているであろう紅葉の口からその言葉を聞かされたことで、彼は再び安堵する。
冥鬼は、ようやく安心したように目を伏せ、紅葉に撫でられるままになっていた。
冷たい川の中で優しく冥鬼を撫でていた紅葉は、ふと表情を強ばらせる。
「冥鬼。あまり私と話していたらあなたまであの世に行かなければならないわ。だから……よく聞いて」
紅葉は冥鬼の髪から手を離すと、幼い子供に言い聞かせるようにして言った。
その言葉で、紅葉はもうこの世には居ないのだと冥鬼は理解する。
「狗神響也には、もう会いましたね」
紅葉の言葉に、今度は冥鬼の表情が変わる。
自分に死の毒を与え、楓を連れ去ろうとした銀髪の男、狗神響也。
そして、冥鬼のツノを折った張本人でもある。
冥鬼は忌々しげに舌打ちをした。
弟の反応を確認した紅葉は、声のトーンを落として続ける。
「あの男は……鬼王の巫女の血を得て、不死になるつもりでいます」
そう告げた紅葉の瞳は、深い悲しみに満ちていた。




