44話【初めての電車】
「冥鬼、起きて!」
早朝、本殿に駆け込んできた少女の第一声がそれだった。
冬も本番に近づき、冷え冷えとした鬼道之社本殿内部にはストーブが置かれている。
しっかりと暖められた布団の中で熟睡している鬼王は未だ夢の世界にいた。
だらしなく口を半開きにして眠りこけている鬼の寝顔をのんびり見つめる余裕は今の楓にはない。
楓は、やにわに掛け布団を引き剥がして冥鬼を起こしにかかった。
「冥鬼っ、電車に乗り遅れちゃうのっ! 今日は早起きするって言ったでしょ!」
「ん〜〜……」
掛け布団を引き剥がされて嫌々上体を起こした冥鬼は、大きなあくびをしてうなだれた。
普段はつんつんと逆立っている髪も、寝癖のせいでまるで鳥の巣のようになっている。
楓は自分のポーチから取り出した桃の木櫛で冥鬼の髪を梳かしにかかるが、残念ながら彼女の櫛は冥鬼の剛毛には不向きだった。
未だに半分夢の中にいる冥鬼は、髪を弄られても無反応で目を擦っていたが再度楓から起きるように急かされるとようやく面倒くさそうな顔で楓を見やる。
「何だよ、うるせーな……」
それはまるで母親に叩き起こされた子供のような口振りだ。
不機嫌と言うよりもまだまだ夢の中に居る様子の緋色の瞳が眠そうに楓へと向けられた。
楓はさりげなく掛け布団を畳んで隅に置いてから冥鬼の前で仁王立ちになる。
「遊園地! 行く約束だったでしょ」
「そんな約束をした覚えはねーよ。寝る」
楓の言葉を聞いて間髪入れずに反論した冥鬼はすぐさま布団に横になってしまう。
先日、明日のことについて話しただろうに、と楓は呆れてため息をついた。
結局昨夜、楓を部屋に寝かせた冥鬼は律儀にも本殿に戻って眠ったらしい。
楓は冥鬼の腕の中で眠りにつき、そのまま朝まで目を覚ますことは無かった。
枕元に幼い冥鬼が立ち寄った形跡は無かったから冥鬼もぐっすり寝たのだろう。
遊園地へ出かける約束を冥鬼が口にした時、楓は嬉しかった。
むやみやたらな外出を嫌う冥鬼が楓との約束を覚えていてくれたことが嬉しくて、今日は張り切ってメイクもしたし髪の手入れも時間をかけてたっぷりした。
白いワンピースコートの前をしっかりとボタンでしめ、すらりとした黒タイツは楓の足をキュッと細身に見せている。
楓が普段よりも時間をかけておめかしをしたのは冥鬼と出かけるのが楽しみだったからだ。
冥鬼を連れて初めての遠出ということもあり、普段よりもやる気に満ちている。
楓は額を押さえて大きなため息をつくと、あえて心を鬼にして冥鬼の枕を奪おうとする。
しかし、すかさず冥鬼の手が枕を掴んだ。
「寝たらダーメ! 起きなさいっての!」
「嫌だ、寝る」
楓が強い口調で言うほどに冥鬼は頑なに起床を拒否する。
ただでさえ冷え込む冬の朝方に無理やり叩き起され、気持ちよく起きられるほうが稀というものだろう。
楓はさらに声を上げて冥鬼を叱ろうとするが、何を思ったのか突然開きかけた口を閉じる。
そして、少し考えてから唇を開いた。
「……冥鬼の朝ごはん、食べちゃうからね」
ぼそりと楓が呟くと、冥鬼は突然弾かれたように体を起こして瞬く間に本殿を飛び出していった。
ぐちゃぐちゃになった布団を畳みながら楓は呆れたように苦笑する。
冥鬼の眠っていた布団からは、ほのかに楓の愛用するシャンプーの香りが移っている。
以前なら腹が立つ匂いだったが、今は違う。
楓はちょっと照れくさくなりながら本殿の隅に畳んだ布団を置いた。
既に居間に向かった冥鬼を追うと、そこには楓を待つことなく一心不乱に白米をかきこんでいる鬼が居る。
「そんなにがっつかなくても取らないわよ」
楓は呆れたようにそう言って、桜特製なめこの味噌汁をすする。
特製の漬物を二人分用意した桜は先日の暗い表情が嘘のようにテキパキと食事の支度をしていた。
娘たちと一緒に朝食を取り始めていた父親、柊が思い出したように口を開く。
「今日はデートなんだろう? 楽しんでおいで」
一体いつ知ったのか楓の父は悪気などこれっぽっちもない顔で笑った。
楓は顔から火が出るような思いで力いっぱい否定をする。
「でっ……デートじゃないわよお父さん!」
しかし彼女がムキになって否定すればするほど、それはただの照れ隠しにしか見えなくなり、デートであると認めているようなものだ。
食事を中断して慌てふためく楓とは正反対に、冥鬼は聞きなれない言葉を聞いて柊へと顔を向ける。
「でえとって何だ」
その問いかけに柊がすかさず答えようとするが、それよりも早く楓が冥鬼の尖った耳を掴む。
些か乱暴ではあったが、今はのんびりと談笑している時間などないのだ。
「知らなくていいの! そんなことよりっ、食べ終わったら早く着替えてよね……アンちゃんたちとは現地集合なんだから早く電車に乗らないと」
「いちいちうるさい女だな……」
耳を離された冥鬼はおかわりした白米に味噌汁を注ぐと、一気にかきこみながらジト目で楓を見やる。
しっかりと腹を満たした冥鬼は楓に急かされるようにして別室に移動し、面倒くさそうに洋服を探し始めた。
「着替えろっつったって……親父殿の服は俺様の好みと外れてんだよな……」
ぶつぶつと文句を垂れながら、冥鬼は柊のタンスを漁る。
柊の服は着られないものもないのだが、それでもサイズの問題でなかなか冥鬼に合う洋服は見つからない。
そして服の好みもかけ離れているのだ。
やたら蛍光色の服が多いタンスの中を漁る冥鬼の後ろから桜が声をかけた。
「冥鬼様、サイズはおそらく合ってると思いますけど……これを着て行ってくださいな。近所の人がね、孫がもう着なくなったから冥鬼様に……ってくれたんですよ」
そう告げる桜の足元には衣服を詰めた袋が置いてある。
恐らく、二人が遊園地に行くと知り、近所に声をかけて用意をしてくれたのだろう。
冥鬼は桜の好意を快く受け入れて早速自分のサイズに合う洋服を探し始めた。
もちろん、のんびり服を選んでいる時間はない。
冥鬼は桜のアドバイスを聞きながら洋服を選別する。
その中からさらに冥鬼に合うサイズを選び抜いた結果…。
グレーのプルオーバーパーカーの下には赤いロングTシャツに袖を通し、細身に見える黒いスキニーパンツを履いた。
最後に黒いチェスターコートを羽織った冥鬼は、首元の開いたパーカーの裾を手で引っ張りながら呟く。
「……ちょいと首元が寒いな」
そう言って、思い出したように楓にプレゼントしてもらったマフラーをぐるぐると乱雑に巻き付ける。
相変わらずマフラーの巻き方を学んでいない冥鬼だったが、ひとまずは満足したように腰に手を当てた。
「感謝するぜ、桜。俺様は服に関しちゃさっぱりだからな」
「いいえ、楽しんできてくださいね」
桜は、冥鬼の散らかした洋服を畳みながらかぶりを振る。
少し考えた様子の冥鬼は、楽しんでくるかは分からないぞ、とボヤいた。
部屋の外では、冥鬼を急かす楓の声が聞こえる。
「うるせえよ、せっかち」
「誰がせっかちよ! もう〜っ、早くしないと電車に遅れちゃうんだってば!」
マフラーをぐるぐる巻いた冥鬼がようやく部屋から出てくると、楓は腕時計を見て時間を気にしながら床に置いたままのバッグを持ち上げる。
何が入っているのか冥鬼には分からないが、中身はきっと食べ物だろうと推測した。
「そんなに急ぎなら跳んで行けばいいじゃねえか。体重が増えたから俺様に担がれたくないとか言うんじゃないだろうな?」
冥鬼は窓から小春日和にも似た日差しを覗きながら大きな欠伸をする。
絶好の昼寝日和だと思ったが、今日ばかりはそれができない。
楓は、景色など楽しんでいる暇はないとでも言うように冥鬼の袖を引っ張る。
「馬鹿っ、こういうのは雰囲気が大事なの! あと体重は増えてません!」
「何が雰囲気だか……」
楓の力説にも冥鬼は理解ができないと言ったように首を傾げる。
そんな彼の手を引っ張って、楓は家を飛び出した。
面倒くさそうに軽い足取りで後に続く冥鬼と、白いワンピースを靡かせながら走る楓。
何とか最寄りの駅に駆け込んで二人分のきっぷを買った楓は、駅の中を珍しそうに眺めている冥鬼の背中を押して改札機を通るように急かす。
そうこうしているうちに、電車の発車ベルが耳に届いたため、楓は冥鬼の手を引っ張りながら慌てて電車に駆け込んだ。
「ぜえ……はあ……間に合わないかと思った……」
「だから跳んで行きゃ良かったろ」
大きく咳き込みながら呼吸を整えている楓とは反対に、冥鬼は涼しい顔をしている。
楓は冥鬼を手まねいて空いた座席に腰掛けると、未だ息の上がった声で言った。
「跳んだら一瞬で着いちゃうじゃない」
景色を楽しむ余裕すらないのよ、と楓が言う。
動き出した電車の窓からは田園風景がゆっくりと流れているが冥鬼は興味すら示さない。
それどころか大きな欠伸をして背もたれに体を預けた。
「景色なんざどーでもいい」
「本当……ムードの欠片もないわね、こいつ……」
目を伏せて座席に体を預けている冥鬼に、楓は呆れたように肩をすくめる。
ひとまず目的の電車に乗れたことで安堵したのか、楓の気持ちにも余裕が生まれた。
桜が用意したのであろう冥鬼の服をしげしげと見つめていた楓は、ふとぐるぐると乱雑に巻かれたマフラーを見て小さく吹き出した。
マフラーの端を軽く引っ張りながら楓が声をかける。
「ねえ、そのマフラー……何とかならないの?」
楓が声をかけると、目を伏せたまま背もたれに体を預けている冥鬼が片目を開けた。
しかしすぐに鼻を鳴らして顔を背けようとする冥鬼に、楓が手を伸ばしてマフラーの端を引っ張る。
むぎゅう、と軽く首を締められた冥鬼は文句を言いたそうに楓を睨んだが、楓は全く気にすることはなく、まるで大切なものを包むかのように丁寧に冥鬼の首にマフラーを巻き直した。
乱雑に巻いた時よりも、楓に巻かれたほうがずっと暖かいことに気づいた冥鬼は文句を言おうとしていた口を噤む。
「はい、これでいいわ」
未だ冥鬼の寝癖が気になるのか、軽く櫛で梳かしてやりながら楓が満足そうに笑みを見せる。
しっかりと首元を守るように巻かれたマフラーを手で押さえた冥鬼は、そのぬくもりを確かめるように黙っていたが遅れて礼を告げた。
「お、おう……恩に着る」
マフラーの端を握ったり開いたりしながら冥鬼が礼を言うと、みるみるうちに楓の瞳が丸く見開かれる。
初めて耳にした冥鬼の礼が自分の幻聴かと疑うように、楓はおずおずと問いかけた。
「驚いた……あんた、お礼言えたの?」
「俺様を何だと思ってるんだ」
楓の問いかけに、冥鬼の眉がぴくりと動く。
彼は明らかに機嫌を損ねかけていたが、楓は冥鬼が礼を言ったという驚きのあまり彼の問いかけにも馬鹿正直に応えた。
「えーと、わがままで子供っぽくて意地汚くて意外と甘えん坊で俺様で……」
「待て、それ以上言ったらお前の額が弾け飛ぶからな」
問われるままに応え続ける楓に、冥鬼がデコピンを窺わせるかのように指先を彼女の額の前で構える。
楓はさらに言葉を続けようとしていたのだが、口を開けたまま苦笑した。
ようやく楓が黙ると、冥鬼は手を下ろして小さなため息をつく。
そして胸の前で腕を組むと、何かを考え込むように黙ってしまった。
「……俺様は子供っぽい、のか」
冥鬼がふと、独り言のような声で呟く。
すかさずその通りだと肯定しようとした楓だったが、意外にも冥鬼は落ち込んでいるようだ。
普段と変わらない無愛想な表情は何となく拗ねているようにも見える。
楓は遠慮がちに声をかけようとするが、何と声をかけるべきかは分からなかった。
窓から見える景色をぼんやりと見つめる冥鬼の横顔を見つめたまま、楓は口を噤んでしまう。
しばしの沈黙が二人の間に流れていた。
早朝ということもあり、二人の乗る車両はまばらに人の気配があるもののいずれも仮眠を取ったり、読書をしたりと様々で。
楓は朝から慌ただしく駆け回っていたせいもあり、次第に重たくなる瞼を伏せて仮眠についた。
冥鬼はと言えば、先程と変わらず黙ったまましばらく腕を組んでいたのだが、傍らの楓が眠りについたのを確認すると、一度楓の寝顔を見てから窓の外へと視線を向ける。
今日は、快晴。
どこまでも広がる青い空を見て、冥鬼は緋色の瞳を細めた。
この雲ひとつない青空を、いつかどこかで見たような、そんな錯覚すら感じながら。
(空なんてどこで見ても同じだよな)
青空を見つめたまま、冥鬼は自分の額に触れるが今はそこにツノはない。
外に出る時はツノは隠せと、楓はもちろん桜にも言われているからだ。
今の冥鬼は誰が見ても人間の子供と変わらない姿をしている。
服装も桜と選んだものだし、今の冥鬼におかしなところはどこにもない。
だが、自分だけがこの人間しかいない空間で異質である、そんな感覚だけがあった。
当然、彼は楓や他の人達と違い人間ではない。
鬼と呼ばれる妖怪だ。しかも、記憶のない鬼。
その記憶すら戻る気配はなく、何故自分が封印されていたのかも分からないまま、今日まで時間だけが目まぐるしく流れていた。
(俺は、誰なんだ……?)
窓ガラスに映ったその姿を見つめながら、冥鬼は自問自答する。
もしも本当に自分が邪悪な鬼ならば、封印された理由にも納得が出来るだろう。
しかし、もしそうでなかったら。
鬼道澄真が冥鬼を封印した理由が他にあったとしたら?
(……その理由が分からねえんだよ)
冥鬼は楓に聞こえないようにため息をつくと、傍らで眠る少女を横目で見やった。
かつて自分を封じた鬼道の子孫が今は自分の隣に居る。
しかし、嫌な気分はしなかった。
当然、憎いという感情も無い。
初めて会った時もそうだった。
犬神の少女に襲われた楓を助けた時も、冥鬼の中に憎しみは無く(食に対する恨みはあったが)今すぐ食い殺してやろうという気持ちも、今の今まで一度も起きない。
それは楓が冥鬼の姉、紅葉に似ているからなのだろうか。
そんなことをぼんやりと考え始めた冥鬼は喉の奥でモヤモヤしたものを感じた。
答えが出そうで出ない、どうしようもなくもどかしい気持ち。
霞の掛かった脳裏に浮かぶ、顔の知らない姉の姿を鬼道楓と照らし合わせるようにして少しずつ形作っていく。
真っ先に形作られたのは、長く美しい黒髪に緋色の瞳。
冥鬼と同じ赤いツノは二本伸びており、笑った顔は楓によく似ていた。
もちろんそれは冥鬼のイメージでしかなかったが、そのイメージから自分の記憶を手繰り寄せるように、少しずつ空っぽの記憶に色を埋め込んでいく。
(例えば、この空みたいな景色も記憶の中にあったとしたら……?)
冥鬼は窓の向こうを見つめながら慎重に記憶の欠片を集めていく。
まずは、雲ひとつない青空に佇む記憶の中の姉をイメージした。
楓によく似た少女は優しく笑っている。
その姿が、徐々に失われた記憶を補完するように辺りの景色にも色をつけていった。
『冥鬼、こっちにいらっしゃい』
記憶の中の姉が冥鬼を呼ぶ。
その声は楓によく似ていた。
果たしてこれはそうであってほしいというイメージなのか、記憶の中の本物の姉なのか、冥鬼自身にも分からない。
「姉さ……」
いつのまにか夢現になっていた冥鬼が小さな声で姉を呼ぶ。
このまま夢の中にゆっくりと招かれているような、心地いい感覚だ。
しかし、その穏やかな時間はすぐにかき消された。
電車が目的の駅まで停まるアナウンスをしたことで誰よりも早く目を開けた楓は、再び冥鬼の手を取って慌ただしくホームを飛び出していく。
強引に眠気を断ち切られたことで、冥鬼の中で形作られていた記憶の風景も消えていた。
まるで、雲が青空に溶けて消えてしまうように。
相変わらず、冥鬼はどんなに走っても涼しい顔をしていた。
楓だけが息を切らせながら、ようやく遊園地の前に辿り着くと、既にそこには二人の友人が楓たちを待っていた。
「久しぶりっ、アンちゃん! 鈴蘭!」
「楓! 何息切らしてんだよ! そんなに急がなくてよかったのに」
慌てたように駆け込んできた楓がぜぇぜぇと荒い呼吸を繰り返しているさまを小田原杏子が目を丸くして見つめている。
楓はすぐに喋ることができず、両手を大きく顔の前で横に振ってジェスチャーをしてみせた。
「違うの。冥鬼がなかなか起きなくて危うく電車に乗り遅れるところだったの」
必死のジェスチャーを三浦鈴蘭が通訳する。
楓は息が上がっているために声が出せず、何度も頷きを返して完璧なジェスチャーだと言わんばかりに両手でマルを作ってみせた。
苦笑した杏子は楓の隣でそっぽを向いている少年の前におずおずと進み出る。
「あっ、そーだ……冥鬼、くん……この前のクッキー……どうだった?」
その顔はさながら恋をする少女のようだ。
杏子はすっかり、風呂での一件から冥鬼に恋心を抱いている。
それを理解した上で、楓は今日の遊園地デートを快く引き受けたのだ。
約一名、快く思わない少女もいたが。
「くっきい?」
もじもじと指遊びをしながら問いかけるショートカットの少女に視線を合わせた冥鬼は不思議そうに首を傾げて見せる。
そんな冥鬼の隣で、楓は冥鬼の脇腹をちょんと小突いて言った。
「ほらっ、この前あんたがあたしを姉さんって言っ」
「思い出したからそれ以上言ったら殺すぞ、本気で。今の今までずっと忘れてたんだからな」
楓の言葉を遮るように、冥鬼が楓の口を片手で塞ぐ。
よりにもよって記憶からすっかり抹消していた出来事を口にした楓の罪は重い。
万死に値するぞ、と冥鬼が目だけで訴えた。
冬休みが始まる終業式の日、いくら寝ぼけていたとは言え、楓を【姉さん】と呼んでしまった冥鬼は、あまりの羞恥に落ち込んでしまい、楓と一緒に朝食を取らなかったことがある。
その日、学校から帰ってきた楓の息の根を止めてやろうと玄関で待ち構えていた冥鬼だったが、楓は特に気にするそぶりもなくかわいらしくラッピングされたクッキーを差し出したのだ。
そのクッキーは楓の友人である杏子が作ったものだと言っていた。
口の中でホロホロと砕ける甘い洋菓子の味は冥鬼の記憶にも新しい。
「あー、アレだな……美味かった」
「そ、そっか!よかった……また作ってきたから、冥鬼くんさえ嫌じゃなかったら……」
照れくさそうに笑って、杏子が冥鬼を見つめる。
しかし冥鬼は、杏子の後ろでじっと自分たちを見つめて黙っている鈴蘭へと目を向けた。
「お前……何だか人相が変わったな」
冥鬼がそう問いかけると、鈴蘭はゆっくりとかぶりを振る。
普段、牛乳瓶の底のように分厚い眼鏡を掛けていた鈴蘭だったが今日は眼鏡ではなくコンタクトレンズをつけていた。
そのせいで人相が変わったように見えたと言われても仕方の無いことだったが、鈴蘭の人相は以前と比べても明らかに違う。
タレ目がちの瞳はぽっかりと穴が開いたように丸く見開かれており、明らかに人が変わったかのように見える。
「……私は、変わらない……わ」
しかし鈴蘭は冥鬼の問いかけを否定するように呟いた。
私は変わってない。
私は何も変わってない。
そう、怒りを滲ませた声を繰り返して。
「と、とにかく! せっかく遊園地に来たんだからいつまでも喋ってないで中に入りましょ! ほら、観覧車とかどう? とってもおっきいわよ」
鈴蘭の異質な様子に杏子さえも声がかけられず、沈黙してしまった空気に耐えかねて無理やりに声を張り上げた楓が冥鬼の袖を引っ張る。
冥鬼と杏子を二人きりにしないでほしいと鈴蘭に頼み込まれたことを思い出したからだ。
楓に袖を引かれた冥鬼は、彼女に示された巨大な観覧車を見上げる。
「観覧車ってのは……このデカい乗り物か」
「そ、そうそう! 鈴蘭、チケット買ってきてくれないかな?」
初めて見る遊具が珍しいのか、しげしげと眺めている冥鬼にひとまず安心をした楓は、わざと明るい声で言いながら両手を叩いた。
そうして、鈴蘭にチケットの購入を頼み込むと、彼女は友人達をそれぞれに眺めてから小さく頷きを返す。
「……わかった」
「おい、俺様は乗るなんて言ってないぞ」
鈴蘭の言葉に被るようにして冥鬼が不満そうに楓へ抗議をする。
しかし、楓はあっけらかんとした顔で冥鬼の脇腹を小突いた。
「いいじゃないの! あんた、遊園地に来るの初めてでしょ? せっかく初めての場所に来たんだから堪能しないとね」
「興味ねえよ」
不機嫌そうにそっぽを向く冥鬼を、相変わらず子供っぽい奴だと思いながら、楓は鈴蘭の買ってきたチケットを受け取って強引に冥鬼の背中を押した。
ちらりと鈴蘭を見やる楓の眼差しが不安そうに揺れる。
(これで、いいのよね?鈴蘭……)
アイコンタクトでそう伝えてみるものの、鈴蘭はなんの反応も示さない。
ただ、深い憎しみを湛えた眼差しで冥鬼を見つめているだけだった。




