41話【月下の湯】
街中から離れた山の中にその秘湯はある。
私有地のひとつとは言え、木々に覆われてその姿を隠しているため家人ですら滅多に立ち入らない天然の秘湯に、バスタオルを体に巻いて足を踏み入れる少女の姿があった。
彼女は鬼道楓。
鬼道家の巫女であり、現在大鳥と小鳥という兄妹の元で修行中の身である。
日中から休みなく続いた修行は終わり、既に日は暮れて頭上では月が顔を覗かせていた。
普段はポニーテールにしている青みがかった長い黒髪を頭の上でおだんごにして髪が濡れないように配慮しながら、楓は湯けむりの立つその秘湯を覗き込む。
『楓ちゃん、家の裏に天然の温泉があるんすけど浸かっていきます? 疲れも吹っ飛ぶっすよ〜! 桜さんには帰りが遅くなるって連絡しておくんで!』
などと胡散臭い顔の青年に言われた手前断りきれず(もちろん天然の温泉という言葉に惹かれたのは否定出来ない)楓は二つ返事で了承すると、着替えを手にして家の裏手にある山へと足を踏み入れた。
けもの道を突き進むこと五分もせずにその秘湯が姿を見せる。
コポコポと音を立てながら地面からわき出るそれは、暗がりの中でもはっきりわかるほどに湯けむりを揺らめかせていた。
「おい、さっさと入ってこいよ」
楓の後ろからぶっきらぼうな声が届いた。
今日の修行には冥鬼もついてきている。
いつもは面倒くさがって家から出ない彼だったが、何故か最近は楓の行く先々についてくるのだ。
彼なりに犬神に狙われている楓の身を心配してのことだったが、楓本人には彼女が狙われていることなど話していない。
故に、こんな場所にまでついてきた冥鬼を、楓は不思議に感じていた。
「冥鬼、何やってるの」
楓が後方へと振り返って呆れたように問いかける。
そこには、彼女に背を向けたままの鬼の姿があった。
秘湯までついてきたのは良いが、彼は一度たりとも秘湯に顔を向けない。
「俺様は入らない」
冥鬼は背を向けたままそっけなく告げた。
小さくあくびの声が聞こえる。
おそらく既におやすみモードに入っているのだろう。
楓は、冥鬼が昼夜問わず眠くなる現象のことを脳内で勝手におやすみモードと呼んでいた。
もちろん口にしたら間違いなく冥鬼の機嫌を損ねる言葉だろう。
「ええ? 寒いんだから入ってきなさいよ。すっごい湯気出てるわよ」
「嫌だ」
きっぱりと冥鬼が拒否を示す。
背を向けたままの彼を不思議そうに見つめていた楓は、湯の中に手を入れて温度を確かめながら笑みを浮かべた。
「何照れてるんだか。前はあたしと一緒のお風呂でも平気な顔してたくせに」
「誰も照れてねえよ、勘違いすんなバ……」
ムッとした表情の冥鬼が振り返ろうとした時、楓が湯の中から手を出して熱い湯を冥鬼に引っ掛ける。
バ楓と、言いかけた冥鬼は髪から上着までぐっしょりと濡らしてしまった。
その姿を確認するなり、楓はイタズラっぽく笑って首を傾げてみせる。
「ほら、早くお風呂に入らなきゃ鬼だって風邪引くかもね?」
「このクソ女……」
冥鬼が恨みのこもった眼差しを楓に向けるが、やがて大きなため息をつくと顔を背けてすっかり水気を含んだ上着を脱いだ。
コートが濡れなかったのがせめてもの救いだ、と冥鬼は思った。
せっかく桜にプレゼントしてもらったコートを得体の知れない湯で濡らしたくはない。
楓は再度湯を手でかき混ぜて濁りの混じった湯の温かさを堪能していたが、やがて冷えた体を温めるべく素足を湯に浸ける。
体を蕩かす熱い湯が体を包んでいくのを感じて、楓はたまらず気持ち良さげなため息をついた。
「はーっ……極楽……」
肩まで湯に浸かった楓は長い吐息を漏らして柔らかな湯を手ですくった。
暗がりの中でも夜空に輝く月に照らされて光っているその湯を眺めながら、修行の疲れを癒すようにゆっくり足を伸ばす。
同時に、背後から足音が聞こえて楓は湯の中で身じろぎした。
「すっごく気持ちいいわよ、冥鬼も早く入りなさいよ」
そう言って楓が振り返ると、黒い何かが彼女の眼前に映る。
それは動物の古い頭骨のようだった。
いや、というか正真正銘頭骨なのだ。
不気味に暗闇の中で浮かび上がるそれを見るなり、楓は文字通り目を点にした。
「ギャーー!! おばけ!」
突然眼前に頭骨が迫ったことで楓は湯の中で両手をバタつかせながら叫ぶ。
すると頭骨を持った手がゆっくりと下げられていく。
それは、してやったりと言った風の表情を浮かべた冥鬼だった。
「近所迷惑も甚だしいな」
「あ、あんたよくも……」
悪戯に笑って見下ろしている冥鬼と動物の骨を交互に見た楓は、わなわなと震えながら鬼の王を睨みつける。
たっぷりと恨みのこもった眼差しを受け止めた冥鬼は満足したように笑うと、そのまま頭骨を楓へと投げ渡す。
「湯を引っ掛けてくれた礼だ、くれてやる」
「いっ、いらないわよっ! 馬鹿!」
楓は投げ渡された頭骨を咄嗟に繰り出したレシーブで茂みの奥へと放り投げる。
冥鬼はと言うと、楽しげに声を出して笑いながら湯に浸かった。
コロコロと表情が変わる鬼の王を子供みたいだと思いながら、楓が冷えた肩を湯に浸ける。
頭上には、木々の合間から青白い月が覗いていた。
「明日辺り、満月だな」
冥鬼が月を見上げたまま告げると楓もつられたように空を見上げた。
しかし楓の見上げる位置からは木々が月を覆い隠してしまっているためにその姿がハッキリと捉えられない。
「よく見えないんだけど」
楓が空を見上げながら呟く。
すると冥鬼は空を見上げたまま言った。
「場所が悪いんだろ。こっちにこい」
そう言って冥鬼が楓を手招く。
楓は少し考えてからゆっくりと冥鬼の傍へ近づいた。
少し照れくさい気持ちもあるが、月の光だけしか明かりのない暗闇では互いの素肌も見えないだろうと考えて、楓は思い切って冥鬼の傍らへと距離を詰める。
そうして、冥鬼が見ている景色をようやく瞳に映し出した楓は、青白く輝く冬の月をしみじみと見上げて言った。
「本当……まあるい月だわ。明日どころか、もう満月でしょ?」
楓が言うように、暗闇の中で輝いているそれはほぼ円であり、墨を流し込んだような真っ黒な世界に小さな光の穴が開いているかのようにも見えるのだ。
目を凝らして月を見つめている楓の言葉を聞いて、冥鬼は呆れたような声で否定をした。
「どこが満月だよ。端っこが欠けてるだろ」
冥鬼は湯を肩にかけながら告げた。
視力にはそこそこ自信のあった楓だが、冥鬼の言うように注意深く月を見つめても良く分からない。
首を傾げながら月から冥鬼へと視線を移した楓は、普段は服に隠れて見えない彼の素肌を何となしに見つめる。
暗がりの中でもハッキリと見えるのは、冥鬼の皮膚に刻まれた無数の傷跡。
何か堅いもので深々と切り裂いたような跡や、尖ったもので突き刺したような傷跡など。
どれも痛々しい傷跡に見えるが、人間ではない彼には驚異的な自己治癒力がある。
以前、楓が火傷を負わせた腕ですらゆっくりではあるがその跡は薄れ始めているのに、彼の古傷は残ったままだ。
「その傷跡、治らないの?」
楓が静かに尋ねると冥鬼は今気づいたかのように自分の体を見下ろした。
そうして、少しの間の後に冥鬼が口を開く。
「……らしいな」
彼は曖昧に応えて、自分の腹を貫いたような傷跡を指でなぞる。
どうしてその傷がついたのか。
何故傷が治らないのか。
楓の中で冥鬼へ問いかけたい疑問が少しずつ増えていく。
あれこれと質問して機嫌を損ねられたらどうしようだとか、またとぼけられてしまうだろうかと考えていた楓だったが、静まり返った空気を断ち切るべく口を開いた。
「冥鬼、あの……」
「……月が綺麗だな」
口を開きかけた楓とほぼ同時に、冥鬼が静かに呟く。
その目は湯に浮かぶ月の光を見つめていた。
何を言われたのか分からずに一瞬戸惑う楓だったが、冥鬼の視線を追って湯にぼんやりと照らし出されている月の光に気づくと、ようやく納得したように微笑む。
楓は、しばらく冥鬼と共に月を見つめていたが、やがてゆっくりと口を開いた。
「このまま、時が止まればいいのにね」
冥鬼がその言葉の意味など知らなくとも、楓は言わずにはいられなかった。
遠慮がちに冥鬼との距離を詰めて、楓は湯に浮かぶ月を見つめている。
「何故だ?」
小さな声で冥鬼が問いかける。
楓を見下ろす赤い瞳は意味ありげに煌めいていたがおかしな妖術だとかそういった力は感じられない。
冥鬼の問いかけに、楓は小さな頷きを返した。
「あんたと、こうしていられるから……かな」
我ながら恥ずかしいことを口にしていると楓は思う。
月が綺麗だと言った冥鬼の言葉には著名な文豪が愛の言葉を訳したような深い意味など無かっただろう。
それでも、言わずにはいられなかった。
「俺様は嫌だぞ、ふやけちまう」
案の定、冥鬼は色気など微塵もなしに応える。
その返事を聞いて、楓は吹き出すように笑った。
「あはは……あんたらしいわ」
「だが」
僅かな間を置いて、冥鬼が口を開く。
視線を楓から、湯に浮かぶ月へと向けながら独り言のような声量でぽつりと呟いた。
「俺様も、今この瞬間くらいなら…止まっても良いと思った」
冥鬼が小さな声で呟く。
そんな彼の表情を、楓はジッと見つめている。
楓の視線に気づいた冥鬼が少し考えるように目を細めてから、楓の名前を呼んだ。
楓は、冥鬼を見つめたままゆっくりと瞬きを繰り返す。
「何……?」
そう尋ねる楓の声は少し震えている。
まるで彼女の心の中を全て見透かすような緋色の眼差しが目の前にあった。
楓を見つめる冥鬼の瞳はまっすぐに向けられており、以前のように妖術を使う気配はない。
ただ、冥鬼は静かに彼女を見つめていた。
期待を込めた表情で小さく楓が喉を鳴らす。
「な……何よ、黙ってないで……」
「もう少し傍に来い」
沈黙に耐えかねて楓が冥鬼を急かそうとするが、そんな彼女の言葉に被るようにして冥鬼がおもむろに楓の肩を抱き寄せる。
抱き寄せられた体は大人しく冥鬼の体へと寄り添う形となった。
(ち、近すぎるっ……!)
突然冥鬼に抱き寄せられた楓は、目を白黒させながらも大人しく彼に身を任せる。
おずおずと冥鬼を見上げると、冥鬼もまた楓を見つめていた。
バスタオルを巻いているとは言え、楓は自分が裸であることを意識して顔を赤らめる。
そして彼もまた裸なのだ。
楓は頭がクラクラとするような感覚に包まれながら遠慮がちに口を開く。
「……め、冥鬼……ちょっと聞いていい?」
「何だよ」
楓の問いに、ぶっきらぼうながらも冥鬼が応える。
暗がりの中では赤く染まった顔など見えないはずなのに、すべて冥鬼に見透かされているような気持ちでいっぱいになっている楓は、恥ずかしそうにおずおずと尋ねた。
「あんたは、その……あたしのこと、どう思ってる……の?」
その問いかけは、まるで恋をする少女が意中の人に想いを問うかのような言葉だと、楓は口にしてから思った。
しかし、一度口から出た言葉は既に冥鬼の耳に届いている。
冥鬼は、暗がりの中で赤い瞳を丸くしてから自分の肩に湯を掛けると、すぐにいつもの悪戯な笑みを見せた。
「ふーん……今更聞くのか?」
そう言った冥鬼はおかしそうに笑ってからかい混じりの表情を向ける。
楓は、自分がからかわれているのか、それとも冥鬼も自分を好意的に想ってくれているのか分からずに一層顔を赤く染めた。
「あっ、あんたの考えてることなんか分からない、から……」
しどろもどろになりながら楓が言い訳のように告げるが冥鬼は一層楽しそうな眼差しを向けている。
楓は余計に恥ずかしくなった。
「そうか」
冥鬼は相変わらず楽しそうに笑っている。
どうやらしどろもどろになっている楓を見るのが楽しいようだが、羞恥で頭がパンクしそうになっている楓はそれに気づかない。
しかし、やがて笑みを止めた鬼はふと思い出したように口を開いた。
「お前はどうなんだ、楓」
静かに湯の水面が揺れる。
冷たい夜風が頬を撫でていくのが分かって、楓は小さく肩を竦めた。
しかし冬の夜風よりも今はずっと体は火照っていて、彼女の全身が熱を持っている。
原因など、とっくにわかっていた。
目の前の鬼がこんなにも楓の傍で意味ありげなことばかりを口にするせいだ。
「俺様のことを、どう思ってる?」
そう問いかける冥鬼の眼差しに、悪ふざけだとかからかいの類は含まれていない。
楓は返事に困って、恥ずかしそうに目を逸らそうとする。
しかし、少し惑って揺れた眼差しは再び冥鬼へと向けられた。
「……い、いまさら……聞くの?」
何とか、先程の冥鬼と同じ回答を無理やり絞り出す。
冥鬼は少しだけ目を見張ってから、口角を上げて笑った。
「くくっ……俺様の真似か。まあ良い」
冥鬼は声を押し殺すように笑ってから、ゆっくりと頭上の月を見上げる。
そんな冥鬼の横顔を見つめていた楓は、独り言のような小さな声で問いかけた。
「……月が、そんなに好き?」
楓の微かな問いかけに、冥鬼は応えない。
ほぼ丸い月を赤い瞳に映している鬼の王は、何を考えているのか黙って月を見上げている。
月を映し出しているその赤い瞳は、楓にはとても寂しそうに感じられた。
楓は唇をキュッと結んで目を細める。
(ねえ……あんたは今、何を考えてるの?)
そう、小さく問いかける。
今この時ほど心の中を読んでほしいと思った瞬間はない。
これほど近くに居るのに、楓は冥鬼が自分の傍から居なくなってしまうような錯覚すら覚えた。
湯の中で泳がせた手が、冥鬼の手のひらを握ろうとして、遠慮がちに引っ込む。
楓は、少し躊躇ってから勢いよく湯の中から立ち上がった。
「あ……あたし、先に出てるから……ごゆっくり!」
そう告げた楓はすぐに湯から上がろうとするが、それがまずかった。
ゆっくりと世界が反転するような錯覚を感じた瞬間、彼女の体は派手に湯の中へと倒れ込む。
要は、逆上せたのだ。
しかし楓自身がそれを認識することはなく、彼女は目を丸くして自分へと呼びかける冥鬼の声を聞きながらぼんやりと湯の中で瞬きをした。
(ああ、月が綺麗)
先程まで冥鬼が見つめていた月をぼんやりと見つめた楓の意識は、徐々に墨を塗りたくったような黒一色へと染まっていく。
瞼を閉じるその瞬間まで彼女の瞳に映し出されていた月の魔力か、はたまた彼女自身の巫女としての能力が高まっている証なのか、楓は手放した意識の先で不思議な夢を見た。
それは遠い遠い過去の記憶。
楓が生まれるよりもずっと前、冥鬼が封印されてからさらに後の記憶だった。
楓とよく似た顔立ちで、艶やかなポニーテールを揺らした活発そうな少女が出てくる夢を、見ることになる。




