4話【犬神】
どれだけの時間が経っただろう。
いつの間にか昼食の時間になっていた。
案の定、狗神響子は杏子の隣に座り、冷たいオーラを醸し出している。
学食の案内をすると迫る杏子に、無反応な響子。
楓は隣で不満そうに頬を膨らませている鈴蘭を宥めながら、壁際の美少女が気になって仕方なかった。
(朝の視線……気のせい、だよね?あたしたちは初対面なんだし…何も怒らせるようなこともしてないし…)
悶々とした気持ちを抱えながら鈴蘭を宥めていると、こちらの気持ちを知りもしない杏子が声をかけてくる。
「ほら、楓と鈴蘭も学食行こうぜ!狗神さんも行くってさ」
「へ、へえ…?そうなんだ…」
人を寄せ付けないイメージのある響子が杏子の誘いを受けるとは意外だ…と内心思いながら楓が応える。
ふと、響子と視線が合った。
切れ長の瞳が楓を捉えてキュッと細くなる。
まるで心臓を掴まれるような息苦しさを覚えてたまらず口を噤む楓に、響子が妖しく微笑みかけた。
「小田原さんがどうしてもと言うから、お付き合いするわ。まだこの学校のこと…何も知らないの。色々教えてくださる?学級委員長なんでしょう、鬼道さん」
「う、うん…もちろん…」
まるで蛇に睨まれたカエルのように動けなくなってしまった楓の心中など知ってか知らずか、杏子があっけらかんと響子の肩を叩く。
「小田原さんじゃなくて杏子で良いって!堅苦しいのは苦手なんだよ、オレ」
「あら、そう?じゃあ杏子。案内、よろしくお願いするわね」
ぽんぽんと人懐っこく肩を叩く杏子をほんの僅かに一瞥した響子は、ニコリと笑みを浮かべた。
その一瞥した眼差しの何と冷たいことか。
楓は寒気すら感じながら、気付かないふりをして乾いた笑みを浮かべた。
そんな楓の隣から、別の悪意が向けられる。
隣を見なくても楓にはすぐわかった。
鈴蘭が、明らかに敵意を向けて響子を見つめているのだ。
杏子と(表面上は)仲良さそうに話している彼女が嫌だ、許せない、と言う感情が隣にいる楓にまで伝わってくる。
もちろん、響子は鈴蘭には目もくれない。
それが余計、鈴蘭の敵意を増大させていた。
「あ…っあのさ、早く行かないとお昼時間終わっちゃう!みんな、早く行こ…」
取り繕うようにわざと明るい声を上げて席を立った楓が、今すぐにでもこの場から離れたいと言うように踵を返す。
すると、氷のように冷たいものが楓の腕を掴んだ。
そのあまりの冷たさに、楓は思わず小さな悲鳴を上げる。
「ひっ!?」
恐ろしく強い力で手首を握るそれの正体を確認するように、ゆっくり、ゆっくりと振り返る。
そこには、楓の鞄を片手に持ったままニコリと微笑む響子が居た。
とても自分と同い年とは思えない大人っぽい表情だし、同性として響子は綺麗だと素直に思う。
しかし………。
「貴重品でしょう?ちゃんと持って行かないとダメじゃない」
狗神響子は、楓の鞄の取っ手を握りこませてそう言った。
まるで鞄の中身が何なのか、知っているかのようにすら思える。
響子は「おっちょこちょいなのね、鬼道さん」と笑って杏子と共に通り過ぎていく。
その後から慌てたような足取りで鈴蘭が着いていった。
強引に握らされた鞄を抱き抱えるようにして、楓が立ち尽くす。
いつの間にか口の中はカラカラに乾いており、声すら出せない。
全身を震え上がらせるほどの寒気が彼女を包んでいる。
そして何より。
鞄を差し出した響子の目は、笑っていなかった。
(……っ……)
震えながら、鞄を抱きしめる楓。
ふと、その鞄の取っ手に何かが付いているのを見つけて、楓は鞄を注意深く観察した。
黒い、一般的な学生鞄。
その取っ手に付いていたものは、無数の毛のようなものだった。
人の毛とはまた違う、太い白銀の毛が無数に付いている。
楓はその毛の色に見覚えがあった。
「こ、れって…」
これがもし、今朝方に彼女の前に現れた白銀の獣のものだとしたらどうだろう。
なぜ鞄についているのか?
あの巨大な犬が楓に迫っていたのは事実だが、彼女とは十分に距離があった。
自らの体毛を付けるなんて出来るはずがないのだ。
それも、こんなにびっしりと…。
「ごめんなさい。私ね、換毛期なの」
不意に、氷のように冷たい声が背後から聞こえて楓は息を飲んだ。
カツン、と背後から靴音が響く。
振り返ってはいけない。
楓は咄嗟に思った。
背中に冷や汗が流れているのが分かる。
「換毛期って、わかる?ちょうどこの時期はピークでね、体毛が冬毛に生え変わるの。毎日ブラッシングが大変なのよ」
カツン。
楓の背後で、冷たい声が響く。
気づくと、周囲から生活音は消えていた。
教室の中であると言うのに、クラスメイトの話し声すら聞こえない。
いつの間にか、自分しかいないのだ。
自分と、背後に居るこの女しか…。
「ねえ」
楓の耳元に冷たい風が吹く。
獣臭い匂いが、辺りに充満していた。
「覚えた?私の匂い」
「き…きゃあああっ!!!」
恐ろしく近くで、鼓膜を揺らす凍てついた声が聞こえた途端、楓の恐怖が臨界点を超える。
たまらず叫び声を上げてその場から逃げ出そうとするが、恐怖にもつれた足は滑って膝を激しく強打した。
胸を強く打った楓は、這うように体を起こして思わず背後を振り返る。
そこには、先ほど教室を出ていったはずの狗神響子の姿があった。
凍てついた眼差しは、初めて会った時にも見た。
そう、庭に突如として現れた白銀の獣から向けられた眼差しが、まさに響子のものと瓜二つだった。
「いっ…狗神さん…あなた、何なのっ…」
恐怖で楓の声が引き攣る。
問いかけを受けた響子は、わざとらしく肩をすくめてクールな外見に似合わずいたずらっぽい態度を取ってみせた。
しかし、今の楓には響子の一挙一動が恐ろしく映る。
「何なの、とは心外ね。分かってるくせに」
響子の口元が弧を描く。
その弧を描いた口の端が、パリ、と音を立てた。
「なっ!?」
パリパリパリ、と響子の口の端が音を立てる。
まるで肉を裂くように、口が破れていた。
小さい頃、口裂け女の都市伝説を鈴蘭から聞いたことがある。
まさにその口裂け女のように、響子の美しい顔がグチャグチャに歪み始めていた。
響子の美しい顔立ちが割れていく。
目尻にヒビが入る。
耳が尖り始める。
白く美しい手にはありえない量の体毛がびっしりと生え始めていた。
「だ、誰か…たすけっ…」
悲鳴にもならない声で助けを求めようとする楓に、響子だったものは肩を震わせて笑った。
ぶち、ぶち、と音を立てて響子の制服が破けていく。
白いデコルテには、既に白銀の毛が生え始めていた。
形のいい乳房はググッと大きくなっていき、つるんとした形のいいお腹にまでも獣の毛が生えている。
そのうち、立っていられなくなったのか、響子は背中を丸めるようにして床に両手をついた。
全身の毛という毛が総毛立つ。
既に響子だったものは、巨大な白銀の獣へと姿を変えていた。
「2度目まして、といったところかしら。朝にもこうして会ったわよね。鬼道楓さん」
響子の顔はほとんど体毛に埋もれ、裂けた口の周りにもびっしりと毛が生えている。
まさしく犬に変貌した響子は、一歩進み出た。
今朝方、楓と対面した時と全く同じシチュエーションだ。
「狗神さん…。私を、殺すの…?」
まっすぐに向けられる敵意は、明らかに朝と変わっていない。
それどころか、HRで出会った時から彼女の敵意は楓に向けられていた。
響子はずっと、楓に敵意を向けていたのだ。
楓は、勇気を振り絞るように震える声で尋ねた。
「殺す?あなたが大人しくしてくれれば何もしないわ」
もはや響子のものとも思えない低い声で白銀の獣が言葉を紡ぐ。
小さく鼻を鳴らして一歩、また一歩と近づいてくる。
楓は無意識に鞄をキツく抱きしめて後ずさりした。
「単刀直入に言うわね、鬼道さん。ツノを渡しなさい。粉々に砕いて、二度と復活なんかできない体にしてやる」
低く唸り声を上げながら、響子は静かに告げる。
ツノ、と聞いてまず最初に楓の脳裏に浮かんだのは首飾りのことだった。
祖母から託された鬼のツノ。
肌身離さずに持っているようにと、16歳の時に渡された首飾りだ。
それ以来ずっと楓は首飾りを文字通り肌身離さずに持っている。
なぜ響子が首飾りの存在を知っているのか、どうして響子が犬に変わったのか。
様々な疑問で頭がいっぱいになりそうになりながら、楓は震える声を張り上げた。
「な…なんの事?ツノって…。そんなの知らなっ…」
「あまり舐めない方がいいわよ、私の鼻を」
そんなの知らないと叫ぼうとした楓の言葉に被るように響子が低い声を上げる。
グルル、と低く唸りながらまた一歩前足を進み出した。
「臭うの。あなたの近くに鬼がいる。憎たらしい鬼の臭いがするの。気が狂いそうなくらい臭ってくるのよ!!」
まるで咆哮をするように響子が怒鳴る。
ビリビリと空気が震え、窓ガラスにヒビが入って何枚かが砕け散る。
思わず身を竦ませる楓の腕のなかで、鞄が静かに熱を持っていた。
どくん、どくんと脈打つようにして鞄の中で何かが怒りを募らせている。
(なに…?胸が熱い。いえ、鏡が熱いの…?)
胸にしっかりと抱いた鞄の中で脈動する熱。
同時に首飾りも熱を持っているようだった。
直接皮膚に触れているせいか、たまらなく熱い。
楓は思わず自分の胸元を掴んだ。
「う、っ…」
あまりの熱さに呻き声を上げる楓のことなど気にも留めずに、狗神響子は喋り続ける。
「その鬼が完全に力を失えば、あなただって巫女として家に縛られることもなく自由に生きられるのよ。いい事づくめじゃない!だからそのツノを早く私に寄越しなさい!」
饒舌に喋り続ける響子。
耳障りな鳴き声が空気を震わせていた。
胸元を握りしめたままの楓は、あまりの熱さに顔をしかめながら腕の中の鞄を見つめる。
「巫女として家に縛られることもなく、自由に…?」
その小さな呟きを、響子は聞き逃さなかった。
大きな目を細めて、憐れむような眼差しを向ける。
「私も同じよ。鬼が居るせいで、普通の女の子として暮らすことも出来ない。ずっと、ずっと一人だったの」
響子の目が悔しさに歪む。
その眼差しにも言葉にも、偽りはないように見えた。
少しだけ、楓の気持ちが揺らぐ。
都会への憧れが強い楓にとって、巫女になる未来しかない自分の将来は、正直なところ寂しいものだ。
杏子も鈴蘭も、高校を卒業したら都会へ出て自分の夢を叶えると言う。
一生をこの片田舎で過ごすことになる運命しかない楓にとって、都会への夢も、親友たちも失うのは悲しくて耐えがたい。
(もし、これを渡したら……)
胸元で熱く脈動するツノを握りしめて、楓が俯く。
響子がニヤリと笑ったように見えたが、俯いたままの楓は気づかない。
震える手で、ツノの首飾りを掴みあげようとする楓。
家に昔から祀られている鏡はともかく、首飾りを渡してしまったところで何か不都合でもあるのだろうか?
普段、肌身離さず誰にも見せずに持ち歩いているのだから、家族が突っ込んでくる心配もない。
もし聞かれたら、コスメポーチに入れてるの、とでも言えば済むだろう。
「あたしは…巫女になんてなりたくない…。みんなと一緒に進学して…都会に行きたい…」
ずっと、思うことさえ許されなかった悲痛な願いが口をついて零れる。
まるでなにかに取り憑かれたかのようにポロポロと願いを口にし始める楓に、響子は僅かに耳をピクッと震わせた。
目を細めてニヤリと笑うその顔を楓が見ることはなかった。
「そう、じゃあくれるのね?そのツノを」
「……いいわ。あげる…」
響子の噛み締めるような問いかけに掠れた声で返した楓は鞄を片手で抱いたまま、首から下げた紐をゆっくりと引っ張りあげた。
その手を、突然大きな手が背後から掴みあげる。
冷たい手をした狗神響子とは対照的に、焼けるように熱い手で楓の手を掴みあげた存在は。
頭にツノの生えた男だった。