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鬼王の巫女  作者: ふみよ
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38話【白昼夢】

夕飯の前の軽食をとるために楓の部屋から続く長い廊下を歩いていた冥鬼は、ふと何となく障子が開いたままの空き部屋へと視線を向けた。

そこには、薄桃色の着物を着て長い黒髪を垂らした女性が姿勢を崩して座っていたものだから、冥鬼はギョッとして立ち止まった。

この家には桜と柊しか居ないはずなのに。

女性の横顔は、楓に似た大人の女性だった。


(写真の女…)


冥鬼は咄嗟に、楓の部屋で見た写真が脳裏をよぎる。

写真の姿より少し若いようだが、楓とは違うとハッキリわかった。

よくよく見ると、女性の膝の上には幼い子供がうずくまるようにして横になっている。

幼い子供は赤毛の混じった黒髪を肩まで伸ばし、額には赤いツノが一本生えていた。


(あの餓鬼は、誰だ…?)


冥鬼は眉を寄せてその光景を見つめる。

ツノの生えた幼子、いつも楓の枕元に立つ幼い冥鬼その人なのだが冥鬼はあまりにも幼いその姿を自分だとは認識できなかった。


「あ、今おなかの中で音がしたよ」


鈴の鳴るようなかわいらしい声で、幼い冥鬼が告げる。

女性は楓によく似た顔で微笑むと、冥鬼の髪を撫でるようにくすぐった。


「ふふ、聞こえた?これはね、もうすぐ赤ちゃんが生まれるっていうサインなの」


女性が言うと、幼い冥鬼は赤い瞳を丸くして足をパタパタと揺らす。

そんな冥鬼を見て女性がにっこりと微笑む。


「冥鬼さまも、おなかの赤ちゃんが無事に生まれるように祈ってね」


冥鬼さま、と呼ばれたことでようやく冥鬼がハッと目を見張る。

そこで気づいたのだ。

楓が言っていた【小さいあんたになら話してもいい】の意味を。

おそらく、昨夜楓と出会ったであろう自分の名をした幼子の存在を初めて認識する。

冥鬼は、何となく不快感を露わにして幼子を見つめた。


「だいじょうぶだよ、ぼくがずーっと見てるから」


冥鬼は、女性の腹に耳を当てて気持ちよさそうに目を細める。

大きくなった腹を優しく撫でながら、冥鬼は続けた。


「すみれおねーちゃんのことも…さくらおねーちゃんのことも…ずっとぼくが見てたんだ。これから生まれるあかちゃんのことも…ずーっとずーっと見守ってるよ」


「ありがとう、冥鬼さま」


冥鬼は優しく彼女のお腹を撫でながら語りかける。

大きなお腹を抱えた女性は安心したように微笑んで冥鬼の頭を撫でた。

そんな二人のやりとりを見ながら、廊下に突っ立ったままの冥鬼は眉を寄せる。


(見守る…?あいつが鬼道家の女を…?)


何故、と呟いた声は掠れていて言葉にならなかった。

すると、その声に反応したのか女性の膝の上に頭を置いていた幼い冥鬼がゆっくりと立ち上がる。


「まだ、思い出せない?」


幼い冥鬼が舌足らずな声色で問いかけてくる。

ゆっくりと近づいてくる幼い鬼を見て、冥鬼は僅かに身構える。


「何者だ、貴様」


短く、冷たい声で問いかける。

幼子とは言え、おかしな真似をしたらすぐにでも切り裂くつもりでいた。

しかし、目の前の幼い鬼は赤い瞳をまっすぐに向けてぱちぱちと瞬きを繰り返すのだ。


「ぼくは君だよ?」


幼い冥鬼は不思議そうに小首を傾げる。

冥鬼が目を細めて苛立ったような表情を浮かべるが、幼い冥鬼は赤い瞳を丸くさせて言った。


「楓おねーちゃんのこと、守って」


「は?誰があんな強情女…」


突拍子もないことを口にする幼子に、冥鬼が苦笑気味に肩を竦める。

しかし、幼い冥鬼はニコリともせずに言った。


「しろいおばけが、おねーちゃんを狙ってる」


まるで冥鬼の返事など初めから聞いていないと言ったように、幼い冥鬼が語りかける。

しかしその瞳は真剣そのもの。


「おい、貴様が何を言ってるかサッパリ分からん。しろいおばけってのは何のことだ」


理解不能なことばかりを口にする幼い子供の言葉が理解出来ず、冥鬼が眉を寄せる。

すると冥鬼の背後から不自然に伸びた影が室内に広がり始めた。

影は獣の耳がついた巨大な生き物のように見える。


(何だ、この感覚…)


冥鬼の額に汗が浮かぶ。

狗神響子と似た獣の気配だが、それは響子よりも遥かに邪悪で、強い力に満ちていた。


「…ッ、こいつは…」


背後から近づく邪悪な気配と獣臭い息遣い。

冥鬼は腹の底から湧き上がってくる吐き気と恐怖、そしてそれ以上に深い憎しみを感じながら勢いよく振り返る。

だがそこは窓があり、庭の景色が見えるだけ。

何の変哲もない鬼道家だ。

冥鬼はすぐに室内へ向き直るが、そこには既に獣の影もなければ女性の姿もない。

ただ、幼い鬼がぽつんと立っているだけだ。


「貴様、どんな妖術を使いやがった!」


冥鬼は大股で部屋に上がり込むと、幼子の胸ぐらを乱暴に掴もうとする。

しかしその手は、あっさりと空を切った。

幼子の体に触れることが出来ないのだ。

まるで幻か何かだとでも言うように、冥鬼は幼子に触れられない。


「ぼくは術なんて使えないよ。ぼくは君の心の中に住んでるの。だから触れないし、きみがぼくを知らないから…こうしてお話もできなかった」


幼子は小さく首を傾げてそう告げると、小さな手で冥鬼の袖を掴むような素振りをしてみせる。

もちろん幼子からも冥鬼に触れることはできない。

冥鬼は眉を寄せてしばらく幼子を睨んでいたが、やがて根負けしたようにため息をつく。


「貴様は、どこまで覚えてるんだ?」


自分の失った記憶を、幼子がどこまで知っているのか。

大きなため息の後に冥鬼が問いかけると、幼子は迷わず答えた。


「君が知らないことならだいたい覚えてる」


そのハッキリとした回答に、冥鬼はすぐにでも色々な疑問をぶつけたかったが、まずは目先の疑問を解くために再度口を開く。


「楓を狙ってるしろいおばけってのは何だ」


「犬神だよ」


幼子は即座にそう言った。

全身の毛が総毛立つような不快な感覚をおぼえて、冥鬼が眉を寄せる。

犬神と言って思い浮かぶのは狗神響子の存在だった。


「あの(アマ)、俺様に忠告しておきながら楓を狙ってるとはな。安心しろ、あの女は弱い。俺様の敵じゃねえさ」


ふん、と鼻で笑って冥鬼が言う。

しかし、幼子は笑わなかった。


「ぼくは、きみが寝てる間、いつも楓おねーちゃんのそばにいたんだ。昨日も一緒に寝た」


「貴様…いい度胸してんな」


冥鬼が青筋を立てながら幼子をジト目で見つめる。

しかし、そんな視線もお構い無しと言ったように幼子が続けた。


「昨日、しろいおばけがおねーちゃんの部屋の前まで来たんだよ。おねーちゃん、とっても怯えてた。起きた時も…怖がってたでしょ?」


そう告げた幼子の言葉を聞いて、冥鬼はふと今朝の楓の様子を思い出す。

目が覚めた時から何かに怯えたように体を震わせて、夢の内容すら口にしたくないと強く拒否をした楓の様子を。

そんな彼女に無理やり術をかけて夢の内容を吐かせようとした冥鬼は、少々やりすぎたかもしれないし、いや、自分の覚えていない過去の出来事を視たと言うのならどうしても聞きたくなるのは鬼の性だろうと思い直して自分のせいではないと言い聞かせた。


(まあ、だが…少しやりすぎた、か)


冥鬼は落ち着きなく視線をさまよわせて、少しだけ、本当に少しだけ反省をする。

自分の外見は少々人相が悪いこともあり、そのせいで楓を怯えさせたかもしれない可能性も大いにあるからだ。


「……よく覚えてねえな」


「顔に出てるよ、ぜんぶ覚えてるって」


さりげなくとぼけようとした冥鬼に、幼子が静かに突っ込む。

冥鬼はわざとらしく咳払いをした。

そんな冥鬼を困ったような表情で幼子が見つめるが、話の続きをするべく口を開く。


「しろいおばけは、あの子じゃない。あの子よりももっと強くて怖いやつだよ。きっと、ぼくたちじゃ倒せない」


幼子の言葉にカチンときた冥鬼が眉を寄せて鋭く尖った瞳を向ける。

不快さを滲ませる冥鬼の視線に、幼子はかわいらしく首を傾げた。


「あんな犬、何匹来ようが俺様の敵じゃねえ。貴様も自称冥鬼だろ、何を弱気になってやがるんだ」


そう言って冥鬼が幼子の胸ぐらを掴もうとするが案の定空を切る手に苛立ったのか、彼は幼子の頭を叩くようなジェスチャーをした。

幼子は困ったような表情のまま、軽く自分の頭に手を置いて目をぱちぱちさせている。


「…こわくないの?」


幼子がおずおずと問いかける。

その問いかけを、愚問とでも言うように冥鬼は鼻で笑い飛ばした。


「ふん、怖いどころか楽しみだぜ。犬の親分がどれほど強いのか…」


「じゃあ、おねーちゃんを守ってくれる?」


勝気に笑う冥鬼を見上げて、幼子が間髪入れずに問いかける。

冥鬼は笑うのをやめて、低い声で応えた。

何で俺様が、と言う返答ではないハッキリとした意思表示。


「くだらんことを聞くな。鬼道楓は俺様の所有物だ。自分の物は誰にも渡さねえ」


貴様にもだ。

そう言って冥鬼が幼子を睨みつける。

幼子はキョトンとした顔で冥鬼を見上げていたが、安心したようににっこり笑った。


「貴様、笑えたのか」


「ぼくだって怒るし笑うよ」


意外そうに目を見張っている冥鬼に、幼子は元の無表情で応える。

冥鬼は鼻を鳴らして幼子に背を背けた。

ゆっくりと部屋から出て廊下に降り立った時、全身から力の抜けるような感覚をおぼえて足元がふらつく。


「おっ、とっとっと…!冥鬼くん、どうしちゃったんだい?まだ眠い?」


気がつくと、廊下に突っ立ったままで楓の父に支えられていた。

冥鬼はハッとした表情で再び部屋の中を見やる。

しかし、既にそこは夕陽が差し込むただの空き部屋。

自分と同じ名前の幼子は、どこにも居ない。

冥鬼は、部屋から出て歩き出した姿勢のままで足元から崩れ落ちそうになっているところを楓の父に支えられていたのだ。

夢うつつのような気持ちのまま、冥鬼は目を瞬きながら楓の父を見た。


「親父殿は…今の、見てたか?小さい俺様が…」


ゆっくりと柊から体を離してから、室内へともう一度目を向ける。

自分でも何を言っているのだろうかと思いながら、冥鬼が問いかけた。


「小さい冥鬼くん?何のことか分からないけど…歩いてる途中でいきなりフラつくからびっくりしたよ」


冥鬼の問いかけに、楓の父は困ったように首を傾げてしまった。

いくら寝汚い冥鬼でも、立ったまま白昼夢を見たりはしない。

先程までは寝起きでぼうっとしていたかもしれないが部屋にやってきた柊と話していたことで眠気はすっかり覚めたし、寝ぼけているかそうでないかは冥鬼自身が一番よく分かっている。

よく分かっているのだが…ここで冥鬼は考えることを止めた。

幼い姿の自分との邂逅や楓を狙う犬神のことよりも優先すべき重要な問題が生まれてしまったからだ。

ずばり言おう。

彼は自分の空腹に勝てない。

冥鬼は真剣な表情で柊を見つめたまま再度口を開いた。


「腹が減った」


「ああ…うん、知ってた」


そう言って安堵したような、呆れたような表情で笑う父は、やはり楓にそっくりだと冥鬼は思う。

先程のやりとりがすべて白昼夢だとは思わない。

あまりにも、彼の背筋に感じた妖気、そして恐怖がリアルすぎたからだ。

何者かが鬼道家の平穏を狙っていることは真実であると言える。

水鬼の出現や狗神響子の発言、そして楓の見た悪夢もその前兆に過ぎないのだろう。


(何がしろいおばけだ)


ち、と舌打ちをして鬼王は空き部屋を睨む。

先程、空き部屋に映し出された桃色の着物の女性も幼い冥鬼もそこには居ない。

冥鬼は、頭を使いすぎてすっかり空っぽになった胃を満たすべく居間へと向かったのだった。

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