33話【拒絶】
「お前も覚えてるだろ、狗神響子とかいうクソ犬が言ってた言葉」
静かに語りかけてくる冥鬼に、楓は着替えを手にしたまま返事に困って視線を彷徨わせる。
そんな楓を見下ろして、冥鬼は続けた。
「そのクソ犬はこう言ってたな、俺様の姉…紅葉は、鬼道楓にそっくりだと」
そう告げた冥鬼が一歩、楓に歩み寄る。
反射的に、楓が一歩後退した。
不自然に距離を取る彼女を見て、冥鬼が赤い瞳を細める。
「やはり、何か見たな」
「…っでも、あたしが見たのは夢よ?ただの夢!たまたま紅葉って人の名前が印象深くて、それで…変な夢を見たのかも……」
しどろもどろになる楓に、冥鬼は大股で歩み寄る。
その大きな手が楓を捕らえようとした時、楓は逃げるように壁際へと移動した。
「逃げるな」
そう命じた冥鬼の瞳に見つめられると、楓はまるで蛇に睨まれたカエルのように身動きが取れなくなってしまう。
楓は咄嗟に、これは妖術の類いだと思った。
指一本どころか、瞼すら自分の意思で動かせないからだ。
まさに【逃げるな】という鬼の命令通りになってしまった。
まるで石のように固まってしまった楓の目の前へ歩み寄った冥鬼は、注意深く彼女の瞳を覗き込んで告げる。
「お前は普通の人間と違う。何せ鬼の気が読める一族だぞ…予知夢や、過去の出来事を【視る】ことだって出来るだろうぜ。夢で何を見たか、全て話せ」
鬼王の命じた言葉が楓の頭いっぱいに広がっていく。
抗ってはいけない、彼に従わなくては…そう思わせるような感覚だ。
楓は冥鬼から目を逸らすことが出来ないまま固まっていたが、命令に抗うように唇を震わせた。
「ぐっ…いや、よ…」
楓の指先が僅かに動く。
掛けられた術に抵抗するように、途切れ途切れに声を発した。
冥鬼が表情を強ばらせる。
「貴様…」
「言わ、ないっ…」
目尻をつり上げて怒りを含ませた声を上げる冥鬼だったが、楓はそれすら怖くないというように反抗の意思を示す。
徐々に動かせるようになった指先を強く握りこんで、楓は震える足を一歩後退させる。
「術で無理やり従わせようとするなんて…最低、よ…!」
歯を食いしばって楓が告げる。
すると、風も吹いていないのに冥鬼の髪がゆらゆらと揺れ始めた。
楓の背中に、鬼や犬神の気配を感じる時と同じ寒気が走る。
明らかに冥鬼は不快さを示していた。
彼女の背中に走る感覚はおそらく冥鬼が放っている威圧感、そして妖気だ。
「俺様は気が短い。もう一度だけ聞くぞ…夢の中で何を見たか、全て話せと言っている」
冥鬼の眉間に皺が寄る。
しかし楓は、唇をまっすぐに結んでかぶりを振った。
「今のあんたには言いたくない…」
ハッキリとそう伝えると、冥鬼の赤い瞳に怒りの炎が宿ったように見えた。
しかし、楓は怯むことなく口を開く。
「昨日の夜、あたしを助けてくれた小さいあんたになら話してもいいわ」
「昨日の夜?何を言ってやがる…」
震えた声で楓が告げる。
冥鬼は僅かに眉を寄せると、心当たりがないと言ったように訝しげな表情で楓を睨んだ。
もちろん、冥鬼に心当たりがないのも当然だ。
幼い鬼子が楓の前に現れている間、冥鬼の記憶はないのだから。
自分を抱きしめて子守唄を歌ってくれた鬼子は目の前の冥鬼ではない。
楓に大好きと告げたのも、弟のように甘えてきたのも目の前の冥鬼ではないのだ。
そう思うとたまらなく悲しくなってしまって、楓は怖い顔をしたままの冥鬼を見つめて表情を歪める。
「……ずっと小さいままなら良いのに」
「おい、どういう意味だ…待て!」
まるで吐き捨てるようにそう言った楓は、冥鬼の顔も見ずに身を翻す。
言葉の意味が分からない冥鬼はワンテンポ遅れてから楓の後を追いかけようとするが、彼女の真紅の瞳に睨みつけられると今度は冥鬼のほうが動けなくなってしまう。
冥鬼が立ち止まったのを確認してから、楓は長い黒髪を靡かせて部屋を出ていった。
一人取り残された冥鬼は、身に覚えのない事を口にされた戸惑いと自分の疑問がこれっぽっちも解消されなかった苛立ちに髪を逆立てる。
「誰が生かしておいてやってると思ってんだ、クソ女…!」
怒りに任せて吐き捨てた言葉だったが、既に彼女の耳には届かない。
その気になれば無理やり楓を屈服させることも、呆気なく食べることも出来る。
しかし、冥鬼がそれをしないのは彼女が自分の姉に似ていると言われたからだ。
きっと理由はそれだけ。
(ずっと小さいままならいいのに)
そう吐き捨てた楓の瞳は深い悲しみに満ちていた。
彼女の悲しそうな表情を思い出すだけで、冥鬼は胸が締め付けられたように苦しくなる。
冥鬼は折れたツノの痕に触れるように前髪をかきあげると、獣のような唸り声を上げて部屋の中をぐるぐると歩き回った。
記憶の戻らない焦りと不安。
自分を拒絶した楓の眼差し。
名前しか知らない姉。
自分のツノを折ったであろう銀色の獣。
そして自分を封印した男。
どれもが冥鬼の頭の中で駆け回って、彼を苦しめる。
「どうして、俺様の知らないことばかり頭の中に流れ込んできやがる…」
冥鬼はズキズキと痛むツノを押さえてうんざりしたように呟く。
断続的に続く頭痛。
そして同時に胸を締め付ける不快な痛み。
どれもが彼の体と心を苦しめる。
部屋から出ていく直前の楓の悲しそうな眼差しが脳裏に焼き付いて離れない。
冥鬼は強く瞼を伏せて、少女の部屋の片隅でうずくまった。




