27話【夢現】
夢現6-1
「起きなさい、冥鬼」
暗闇の中で、名前を呼ぶ懐かしい声が聞こえる。
辺り一面が闇に覆われた世界の真ん中に、ぼんやりと曇った景色が浮かび上がった。
目を凝らさなければ見えないほどのぼやけた景色の先に、人間の輪郭が見える。
どうやら年若い女性のようだ。
懐かしい声をした女がもう一度「冥鬼」と呼んだ。
彼はしばらくの間、ぼうっとしたままその声を聞いていた。
何とも心地いいその声は、彼を深い眠りへと誘う。
しかし、女の声があまりにもしつこく名前を呼ぶものだから、彼はようやく重い口を開いた。
「何度も呼ばなくても聞こえてるぜ、姉さん…」
欠伸混じりにそう応えた男は、眠そうに目を擦りながら瞼を開ける。
目に飛び込んでくる朝の光に、思わず顔をしかめてしまう。
その光を遮るかのように、自分を覗き込む女の顔があった。
朝の光で艷めく黒髪を頭の後ろ高くで縛り、桜のアクセサリーがあしらわれたリボンをつけた少女。
【彼】を覗き込んでいる少女は、何とも言えない顔をして少し気恥ずかしそうに眉を下げている。
「…あのね冥鬼。確かにあたしはあんたに、たまにはゆっくり寝ろって言ったわよ。長い間マトモな睡眠を取ってなかったみたいだし」
そこで一旦言葉を止めた楓は、おもむろに自分の腕を上げた。
その腕…正確には制服の袖をしっかりと掴んでいるのは他でもない冥鬼だ。
彼は眠そうな顔をしたまま気の抜けた返事をする。
そんな彼にトドメをさすかのように、楓は続けた。
「だからってあたしの部屋で目覚めることないでしょ…。あんた寝相悪すぎよ」
「は…?」
楓の言葉が頭に入っていないのか、冥鬼は寝ぼけたような返事をする。
しかし、徐々に目が覚めてきたのかやにわに上体を起こした冥鬼は掴んだままの袖を離すと、まぶたを擦りながら冷静に辺りを見回した。
彼は普段、一人の方が落ち着くという理由で本殿で眠っているし睡眠中に本殿から抜け出すことはない。
しかし、たった今目覚めたのは薄暗い本殿とは違って朝日の差し込む見慣れた部屋。
和室だが女の子らしく年代物の白いドレッサーが置かれた、楓の部屋。
その布団の中に、冥鬼は居る。
冥鬼は、完全に寝ぼけた目で楓を見つめた。
「……腹減った」
「このねぼすけ」
未だ夢の中に居るのか半目で楓を見つめる冥鬼に、彼女は吹き出したいのをこらえて彼の額に指を当てると軽いデコピンをした。
ぱちん、と額を弾かれて目が覚めたのか次第に冥鬼の表情が信じられないものを見るような顔つきに変わっていく。
それから顔色を青くした冥鬼は、最後の最後に苦虫を噛み潰したような、何とも言えない表情を楓へと向けた。
今にも吹き出してしまいそうな程に笑いをこらえた表情で自分を見つめている楓の顔がハッキリと見える。
「…ほら、起きた?あんたって寝起き悪いのね、子供みたい」
「………ッッッ」
楓がまるで子供に尋ねるような口振りで言うと、冥鬼は気が遠くなるほど長い間沈黙した後に勢いよく頭から布団を被ってしまったのだった。
さすがに楓も笑いをこらえることができない。
口を押さえて笑いながら「朝ごはん、食べに来なさいよ」とだけ何とか伝え、這うようにして部屋を出た。
廊下を歩きながら耐えきれずに笑い始めてしまう楓だったが、先程までぐっすりと眠りについて楓の袖を握っていた鬼を思い出して何とも言えない微笑ましい気持ちになった。
「姉さんねぇ…?くくっ…確かにチビの冥鬼にはおねーちゃんって言われてたけど」
半分夢の中にいたであろう冥鬼が零した言葉にまんざら悪い気もしない楓だった。
しかし、小さな冥鬼のように素直に甘えてくる弟ならば悪い気はしないが普段の冥鬼はどう見ても弟という面構えではないし図体も大きい。
それが余計におかしくて、楓は声を上げて笑った。
「そう言えば…」
楓は、ふと長い廊下を振り返って誰に言うわけでもなく呟く。
「冥鬼って、家族は居たのかしらね?」
純粋な疑問は冥鬼に届くことはなく、しん、と静まり返った廊下に楓の声が吸い込まれる。
しかしその小さな疑問はすぐに忙しい朝時間へと気持ちを切り替えるために楓の胸の内へと仕舞った。
今日で学校は終業式。
明日からは冬休みが始まり、すぐにクリスマスと大晦日、次いで正月がやってくる。
年末に向けて色んな買い物がしたいしヘアケア詰め合わせ福袋の予約もしたい。
杏子や鈴蘭と冬休みの予定も決めたいし、予定はたくさん詰まっていた。
「あ…でも修行も外せないわよね。後で大鳥さんに連絡しよっと」
スケジュール帳に挟んである大鳥の電話番号を見ながら楓が呟く。
小鳥の放った式神を倒すという修行の後日、改めて鬼道家にやってきた大鳥は桜に挨拶をして思い出話に花を咲かせていた。
何を話していたのか楓は聞いていない。
ただ、大鳥が帰った後の桜はずいぶんと楽しそうにしていたように思う。
…後でそれとなく聞いてみよう。
そう思いながら、楓は味噌汁のいい匂いがする食卓へと向かっていった。
頭から布団を被ったまま悶えている鬼の存在などお構いなしに。




