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鬼王の巫女  作者: ふみよ
26/63

26話【犬神】

時間は少し遡る。

楓や冥鬼と買い物中に遭遇し、意味深な発言をして立ち去った銀髪の少女は先にスーパーマーケットを出た少女の後を追うように足早に歩いていた。


『命を狙われているのは鬼道楓よ』


自分が鬼にアドバイスを送るような真似をするなんてらしくない、と狗神響子は舌打ちをする。

鬼道楓に関しては、別段悪い印象があるわけではない。

響子が人間であったら仲のいい友人くらいには、なれたかもしれない。

しかし、響子は人間ではない。

今でこそ人の姿をしているが、その正体は妖怪だ。

雪鬼と違って人と何かの混血というわけでもない、純粋な妖怪。

俗世に染まりたくなくて、人と馴れ合いたくなくて、不必要な人間との接触は自ら避けてきた。

だからあえて市街地から離れた山の中に家を建てて、静かに雪鬼と暮らしている。

彼女には人間と馴れ合いたくないという強いプライドがあった。

つまりは、一匹狼なのだ。


「……どこまで行ったのよ、ユキったら」


そんな彼女でも、少なからず心を許している者がいる。

雪鬼の存在だ。

雪鬼が今よりずっと幼い頃から一緒に育ってきた彼女は、雪鬼のことを妹のように思っていたし弱音を見せられる友達のようにも感じていた。

楓が杏子や鈴蘭を親友と呼ぶように、響子にとっては雪鬼が親友に近い存在なのだ。

例え、雪鬼に大嫌いな鬼の血が流れているとは言え、彼女自身を嫌いになることはない。

そんな雪鬼の姿が一向に見つからずに響子が銀の長い髪をかきあげる。


「……!」


ふと、彼女の首筋にヒヤリとした気配を感じて、響子は勢いよく振り返った。

いつから着いてきていたのか、彼女の傍には黒いスーツに身を包んだ男が立っている。

銀の髪を腰まで伸ばし、長いみつあみに結っているその男は切れ長の冷たい目で響子を見つめていた。

彼女と同じ、金色の瞳で。


「…ッ、あなたは…!」


響子は動揺の色を見せて僅かに後ずさる。

スーツの男は口の端を少しだけ綻ばせると、不気味なほど優しい声で彼女の名を呼んだ。


「響子、久しぶりだね。50年ぶり…いや、100年だったかな」


そう告げた男は響子の元へゆっくりと歩み寄っていく。

反射的に響子が後ずさろうとするが、それよりも早く男の腕が響子の手首を捕らえた。


「…はっ、離しなさい…!」


響子は怯えたように男を睨みつける。

キツく睨みつけてはいるがその瞳は畏怖と戸惑いに揺れていた。

男は握ったままの手首を引き寄せると、響子の華奢な体を抱き寄せて優しく囁くのだ。


「久しぶりの再会だと言うのに相変わらず冷たいな。だが…そこがいい。かわいい妹、響子」


「…っいや…!」


男は嫌がる響子の耳朶に唇を寄せると、やにわにそこを優しく食む。

びくりと響子の肩が跳ねた。

驚愕に見開かれる金の瞳が、嫌悪を示すように強く細められる。

男は食んだままの耳朶をわざとらしくねぶりながら、彼女の聴覚を犯し始めた。


「う、ぅ…っ…やっ…」


響子がビクビクと肩を震わせながら男の胸を叩く。

しかし、男は響子の体をしっかりと抱き寄せてわざと音を立てながら咥えたままの耳朶に吸い付いた。


「く、ぁ…や、やめ…なさっ…」


響子の声に涙声が混じる。

目尻に涙を浮かべて、もうやめてほしいと懇願に近い声を上げるが、男は行為をやめなかった。

それどころか、行為をエスカレートさせるかのように男は強く響子の体を抱き寄せる。

やがて、響子の吐息に甘いものが混じり始めた。


「本当にやめてほしいのかい?」


男が吐息混じりに問いかけると、響子はハッとした表情を浮かべてから悔しそうに表情を歪ませた。

お気に入りの黒いレーススカート越しに内ももを撫でる男の手。

その手に響子は抗えない。

必死に男の手を掴んでそれ以上の行為をやめさせようとするのだが、いつの間にか彼女の手は男の腕に添えられたまま、抵抗する術をなくしていた。


「…っ、…きょ、や…兄さん…」


「ようやく素直になったね、響子」


男の行為から逃げられないでいる響子がようやく縋るような目を向ける。

まるで服従を示す犬のように。

兄と呼ばれた男は、耳朶から顔を離すと愛しげに響子の髪を撫でながら囁いた。

ようやく開放された響子は小さく体を震わせながら荒い息をついている。

それでも何とか呼吸を整えた彼女は、乱れた衣服を直しながら尋ねた。


「響也兄さん…一体、何の用…なの…」


響也と呼ばれた男は自分の傍から逃げなくなった響子の頬を撫でながら猫撫で声で聞き返す。

その問いかけすら、響子には恐怖のサインだった。

今度は、言葉を選びながら質問を変える。


「鬼道の…巫女、の…こと?」


「さすがだね、響子。この兄の言いたいことが分かるなんて」


響也は目を細めて笑うと、彼女の髪を手でゆっくり梳きながら頷きを返す。

髪から伝わる兄の指使いにすら怯えた響子が体を小さく震わせる。

響子は兄の言葉を待つことなく震えた声で続けた。


「…っ鬼道の巫女なら、見つけた…わ。冥鬼が目覚めて…彼女を守ってる。家にも、強力な結界が張られているから…突入するのは困難、よ…」


「ほう…冥鬼か…いや、懐かしい響きだ」


震えた声で説明する響子に、兄の響也は噛み締めるように呟いて笑みを見せた。

まるで古い親友の名でも口にするかのような声色で。

しかし響子は、冥鬼の名を耳にして平静を保つ兄の姿が恐ろしくて仕方がない。

響子の予想通り、やがて響也はその微笑みを変貌させていく。


「あぐっ…!」


響也の手が、梳いていた銀の髪を乱暴に引っ張る。

あまりの痛みに響子が悲痛な声を上げるが、彼は全く気にも止めていなかった。


「冥鬼、冥鬼…か。いや、はは…あの小憎たらしい餓鬼が、まだのうのうとこの世界に生きているなんて…。この狗神響也と同じ空気を吸っているなんてッ!!ああ、おぞましくてたまらないよ僕はッ!!」


「ひ、ぐっ!に、兄さっ…やめてっ…!」


ぶち、ぶちと響子の髪の毛を毟りながら、まるでなにかに取り憑かれたかのように叫ぶ狗神響也。

その目は彼女を見ているようで、全く別のものを見ているかのように焦点が合っていない。

響也は響子の美しい銀糸を乱暴に引っ張りあげながら激しく喚き散らすと、荒い息をつきながら彼女の耳に再び唇を寄せた。


「教えてくれてありがとう、響子。もう冥鬼たちと顔は合わせたのかい?」


「…冥鬼には…負け、ました。手傷を負わされて…」


響子が涙声で告げる。

すると響也は突然人が変わったかのように響子の体を抱きしめて心配そうに頭を撫でる。


「なんだって…!かわいそうに…どこを怪我したんだい?兄さんに見せてごらん」


「だ…大丈夫よ兄さん、もう傷は癒えてるからっ…平気なの…」


壊れ物を扱うように彼女を優しく抱き寄せて、心底心配そうな眼差しを向ける響也に、響子は上擦った声で応えた。

まるで子供をなだめるように、「大丈夫よ」と告げる響子の瞳には恐れと愛情が入り交じっている。

嘘偽りのない彼女の瞳を見て、響也はようやく安心したように優しく妹の体を抱きしめた。

暴力で支配するわけでも事務的な挨拶でもない、ただ家族を心配する優しい抱擁。

本当によかった…と心からの安堵の声が聞こえる。

響子は兄の背中に腕を回した。


(兄さん…)


兄から伝わるぬくもりに、響子の怯えた心がようやく解きほぐされていく。

兄の響也は昔から、激情的な面とそしてとても優しい兄の顔を持っている。

二重人格というわけではない。

ただ、心が不安定なだけ。

例え何百年経とうと、どんなに乱暴をされても、そんな兄の顔を見せられると響子は胸がキュッとなるのだ。


「寂しかった、兄さん…」


「すまなかった…響子。ずっと寂しい思いをさせてしまったね」


響子の口から出たのは心からの本音の言葉だ。

妹の甘えるような、悲しみを押し殺すような声に、響也は胸が締め付けられるのを感じる。

兄の響也は妹の響子と違い、昔から人間社会で暮らしている。

響子は犬神のプライドが邪魔をしてしまい、人間が苦手だったが響也はそうでもない。

昔から、人と上手く共存する術を知っていた。

定職についており、自分の家も持っている。

ゆえに、自分と一緒に住まないかと提案したこともあったが人間嫌いの響子に拒否をされたため、響也は伴侶も持たずに一人で暮らしている。


「それで…兄さん、私に何か用があってきたのでしょう?」


愛しい響也の胸に抱かれながら、響子が問いかける。

まだしばらく、再会を喜ぶただの兄妹でいたい気持ちは互いに同じだった。

響也は響子の髪を優しく撫でながら、「もう少しこうしていよう」と呟く。

響子は小さく目を見張るが、その金の瞳は嬉しそうに、心からの喜びに潤んで兄との再会を噛み締める。

冬の切ない風が互いの体を冷やすが、確かなぬくもりを求めるように二人の兄妹は抱き合っていた。


「響子」


しかし、そんな時間も長くは続かない。

響也の顔つきが、兄の顔から誇り高い犬神としての表情に変わる。

兄の真剣な眼差しに見つめられた妹はまるで恋を知ったばかりの少女のように、頬を桃色に染めて顔を上げた。


「この兄と共に悲願を果たそう。今こそ鬼王を完全に殺し、全ての鬼を根絶やしにする」


響也から発せられた言葉に、響子が目を丸くする。

全ての鬼を…と呟いた妹に深く頷きを返して、兄は続けた。


「お前は巫女の居場所が分かるだろう?兄は昔から鼻が効かない…巫女の気が読めないんだ」


「それは…鬼道楓の命も奪うということ?」


響子が問いかけると、響也は「もちろんだ」と答えてしっかりと頷きを返した。

全ては悲願のために、と繰り返す。


「100年ほど前に拾った鬼の娘も、何らかの時のためにと思ってお前のところに預けていたが…もう必要ないな。処分しておくといい」


まるで不要なゴミを捨てるかのように、響也が言い放つ。

響子は少しだけ間を置いてから「そうね」と告げた。

妹の返事を聞いて嬉しそうに微笑んだ響也は妹の髪を優しく撫でながら再び口を開く。


「さて…かわいい妹がいい返事を聞かせてくれて安心したよ。今日はそれだけ話したかったんだ…。すまないがこれから先生方と会食があって、もう帰らなくてはいけない。また時間を作ってゆっくり話そう」


「……ええ。またね、兄さん」


申し訳なさそうに微笑んだ響也は、後方の路肩に停めてある高級車を指して肩を竦めた。

響子が静かに頷きを返すと、もう一度兄の腕に抱きしめられる。

まるで別れが惜しい恋人のように、親が子供を寝かしつけるように、前髪にそっと口付けた響也は「愛しているよ」と短く告げて身を翻していく。


「愛しているわ、兄さん…」


響也が立ち去った後に、響子が小さな呟きを漏らす。

一人残された響子の胸には、重くのしかかる感情だけがあった。

兄は、鬼を嫌う。

それを誰よりも知っているのは妹である響子だ。

響子も鬼が大嫌いなのだから。

そんな兄が連れてきた幼い鬼、雪鬼は彼女の中で異質であり、特別だった。

仕事の合間を縫って雪鬼の様子を見に来ては、彼女に身を守る術を熱心に教えていた兄。

拾われてきた当初は言葉も話せないほどに心的ショックを受けていた雪鬼だが(どうやら親が目の前で殺されたらしいと、後で兄に聞いた)いつしか笑顔をみせるようになった。

来る日も来る日も熱心に修行をつけてくれる、そんな彼に心を開いた雪鬼は彼を師と呼ぶほどに懐いていた。

いつからか、彼が響子たちの前に姿を現さなくなってしまって長い月日が流れたけれど。


(どうして今になって、ユキを処分しろだなんて言うのよ…)


その場に立ち尽くしたまま、響子が俯く。

銀の髪がサラサラと風に揺れた。

夏には鮮やかな緑の葉を茂らせていたであろうが、今ではすっかり細枝が剥き出しとなった並木から落ちた葉が風に攫われていく。

そんな落ち葉を踏みしめる足音が聞こえて、響子が顔を上げた。

買い物袋を両手に、とっくの昔に響子よりも帰路に向かっていたはずの子供の鬼の姿がそこにある。


「……響子」


雪鬼の険しい表情と、感情を殺したような声。

聞いていたのねと呟く響子の声に力はない。

自分がどんな顔をしているのか、響子には分からなかった。

雪鬼は早足で響子に近寄ると、両手の荷物をパッと下ろして彼女の両肩を掴む。


「師匠は、楓殿の命を狙っているんですか」


彼女は響也を師匠と呼ぶ。

ああ、自らの処分よりも鬼道楓の心配をするのか…と響子はぼんやり思った。

応えない響子に、雪鬼はなおも続ける。


「僕はあの人に拾われなかったら今日までの命は無かったと思っています。だからいつ死んだって構わない」


死んだって構わないと口にする雪鬼の言葉に、響子は言葉では言い表せないような深い悲しみを覚えて次第に表情を固くしていく。

雪鬼はさらに続けた。


「響子、あなたのことは好きだ。しかし何の罪もない人間の命を狙うと言うのなら、僕は…僕はあなたたち兄妹に協力できな…」


「……ふざけないで」


つのる暗い感情を解き放つかのように、強い拒絶の言葉が響子の口から発せられる。

俯きがちでぼそぼそと呟いた響子の声に、雪鬼が耳を傾けようとすると彼女が深い憎しみをたたえた金の眼差しを向けた。


「鬼道楓を殺し、冥鬼を殺し、鬼を根絶やしにすることが兄さんの悲願なの!」


ああ、自分は何を言っているのだろう。

響子は激しい感情の裏側で、冷静に今の自分を見つめている。

そして、決定的な一言を口にした。


「人でも鬼でもない半端者に好きだなんて言われる筋合いも、鬼と馴れ合っていたつもりすらないわ。ああ、今すぐにでもあなたを殺してしまいたい。今すぐ私の前から消えて。二度とその顔を見せないで!」


響子が激昂する。

全身の毛という毛が逆立つのを感じた。

強い、強い拒絶の言葉。

重い沈黙だけが二人の間を支配し、冷たい秋風となってすり抜けていく。

まるで今まで紡いできた友情も思い出も風と一緒にどこかへ飛んでいってしまったかのように。


「……わかりました」


雪鬼の静かな声で、響子がハッと我に返る。

お別れですね、と告げた幼い鬼は地面に置いたままの買い物袋をゆっくりと持ち上げると響子を見ずに言った。


「さようなら」


響子の返事も待たず、彼女の持っていた買い物袋を手にした雪鬼はすぐさま身を翻す。

その表情は響子には見えなかった。

響子が何かを言うよりも先に雪鬼はその場を後にする。

重くのしかかる両手の荷物をしっかりと持って、二人の住んでいた山奥の家へと向かう雪鬼はしばらく感情を殺してしまったかのような表情で帰路へ向かっていたが、ふと口元をゆるめると呆れたような、それでも愛情に満ちた微笑みを浮かべた。


「馬鹿だな、響子は。嘘をつくのが下手すぎる」


そう言って笑った雪鬼は誰もいない家に帰ると、食材を袋から出しながら今後のことを考えていた。

響子が帰ってくるであろう家をぐるりと見回して、面倒くさがりな彼女が一人で暮らしていけるのかをほんの少しだけ心配しつつ、「よし」と雪鬼が呟く。

そんな雪鬼の思いなど知らない響子は、未だに市街地の外れにある小道から動けずに居た。


(一番言いたくない言葉を、一番言いたくない相手に言ってしまった)


深い後悔に苛まれていた響子はキツく唇を噛み締める。

だが、これで結果的には良かったのだ。

雪鬼を自分の目の前から退ければわざわざ殺す必要はない。

自分たちの敵は冥鬼のみに絞られる。

鬼道楓の命も、愛しい兄が望むのなら奪うことができるはずだと響子は自分に言い聞かせる。

響子はすっかり冷えた体のまま時が止まったかのように長時間立ち尽くしていたが、ようやく辺りが暗くなっていたことに気づくと深く息を吐き出してから自宅へと帰っていった。

山奥の、雪鬼と暮らしていた家に。


「……ユキ?」


鍵のかかっていないドアノブを開けて、響子が静かに暗がりの室内へと声をかける。

もちろん、返事はない。

壁伝いに電気を探して部屋の明かりをつけた響子は、テーブルの上に当然のように置かれた食事を見て目を丸くする。

そこにはラップの巻かれたチキンサラダと、箸が一膳。

箸の下に書き置きのメモが添えられている。


『鍋の中に、ハッシュドビーフがあります。ものすごく面倒くさかったです。あたためて食べてください』


普段通り、毒を含んだ雪鬼の書き置き。

響子はその書き置きを手に持ったまま、鍋の蓋を開ける。

そこにはハッシュドビーフが入っていた。

響子が買い物中、楓たちに張り合うべく子供のようなわがままを言ったメニュー。


「ユキ…」


くしゃ、と書き置きを握りしめて響子が身を翻す。

玄関の扉を開けて外に飛び出した響子は、雪鬼の名前を叫んでいた。


「ユキッ!あんなにたくさん作って…本当にあなたって馬鹿な鬼だわ!食べ切れるわけがないじゃない!」


食べ切れるわけが、と繰り返して響子が声を震わせる。

ぎゅ、と書き置きを握った手が小さく震えていた。

自慢の鼻も、強い風にかき消されて雪鬼の気配を追うことができない。

まるで、探すなとでも言うように。

先程の会話が雪鬼との最期の会話になってしまうような、そんな嫌な想像を振り払って響子はもう一度「ユキの馬鹿」と叫んだ。

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