21話【はじめてのおつかい】
楓が、巫女としての修行をすると宣言してから数日が経った。
とは言え、何か変わったことをさせられている自覚はない。
いつものように1時間早く起きて鬼符を使った修行をし、軽く庭を掃除してから朝風呂を堪能してお腹がペコペコになったところで朝一番の飯を食べる。
冥鬼は相変わらずテレビを食い入るように見ては美味そうに白米を食べ、そして本殿に上がり込んでグースカと寝ている。
育ち盛りの小学生ですらもう少しマシな生活をするぞ、と楓は思った。
「あんたね…たまには外に出ようとか思わないわけ?最近ずっと本殿にこもりっきりじゃない」
いつもより数段気合いの入ったおめかしをしている楓が本殿を覗き込む。
白いタートルネックに大人びたキャメルのチェスターコート。
長めのタートルネックニットからチラチラと見えるレース素材のミニスカートの下は程よく肌色が見え隠れする黒いタイツを身にまとっている。
鬼を祀るために作られたであろう暗がりの部屋の中、座布団を枕代わりに折り畳んで寝転がっている男が居た。
桜が作ったのであろうおにぎりを弁当箱の中から摘んで食べている。
「大きなお世話だ。用がないならさっさと消えろ、俺様は忙しいんだ」
寝転がったままのどこが忙しいのか冥鬼は据わった目で普段とは違った装いの楓を、頭のてっぺんからつま先まで眺めて鼻を鳴らしてからすぐに顔を背けておにぎりを口に放り込んだ。
雪鬼の一件で楓が家に持ち込んだ捨て猫が、のんびりと冥鬼の傍で毛繕いをしている。
楓は冥鬼の枕元に歩み寄ると、彼が枕にしている座布団を両手で引っこ抜いた。
「今からあたしと出かけない?買い物したくて…そのために起こしに来たの」
「あがっ!」
突然座布団を引き抜かれて床に頭を打ち付けてしまった冥鬼のことなどお構い無しに楓が告げる。
思い切り頭を打った冥鬼は弾かれたように起き上がると、黒く長い爪を楓の喉元に向けながら凄んで見せた。
「…ッッッ言っておくがな、子供のおつかいに付き合う暇なんか俺様には無い。今度俺様の睡眠を妨害してみろ、骨まで喰ってやる。俺様は仏じゃないんだ…二度目はないからな…」
「あっそう。お祖母様の代わりに夕飯の買い出しをする…予定、だったんだけど…それでも断るの?もうお酒のストックないでしょ」
「行くに決まってんだろ」
だんだん冥鬼の扱いを学び始めてきた楓は、あえて夕飯の買い出しというワードを使って冥鬼を揺さぶりにかかる。
すぐさま即答した冥鬼だったが、彼は明らかに不快そうな顔をしたまま喉元に向けた爪を一度引くと赤くつり上がった瞳で楓を睨みつけてから彼女の額にデコピンをした。
自分が好物で釣られているということを自覚しているらしい。
まんまと言いくるめられたことが腹立たしいのか、冥鬼は足早に本殿を出ていった。
「いたた…超わかりやすい分めんどくさい奴だって最近思い始めたわ…」
冥鬼の後ろ姿を見ながら、額を押さえたままの楓が大きなため息をつく。
足元で床に背中を擦りつけながらお腹を見せている猫が楓に呼応するように「みゃあ」と鳴いた。
本殿から出ていった冥鬼は楓の父が愛用しているモッズコートとマフラーを無断で拝借すると、それを羽織りながら本殿の入り口まで戻ってくる。
下はブラックのチノパンだ。
これも楓の父親が使っている服なのだが、冥鬼は当然のように拝借している。
外に出る時は以前も桜に言われていたのか、自身の妖術でツノと牙を消し去ったように見せていた。
そのせいで普段より幼く、それどころかどう見ても楓と同い年くらいの高校生男子にしか見えない。
ただ、目つきだけがものすごく悪いのが難点か。
「おい、早くしろ」
「ちょ、ちょっと待って」
普段見慣れない服装の冥鬼が珍しく、頭のてっぺんからつま先まで観察していた楓だったが焦れた冥鬼に急かされたため、慌てて本殿を下りた。
無造作にぐるぐると巻き付けただけのマフラーを取り上げた楓が、マフラーの端を輪に通してワンループ巻きへと変える。
「ほらほら、このほうがあったかいでしょ?せっかく外に出るんだから格好良くしてちょうだい」
「けっ…どっちも変わらんだろーが」
冥鬼のマフラーを巻き直した楓だったが、当の冥鬼にはマフラーの巻き方による違いがよく分かっていないのか、面倒そうに顔を背けてしまう。
それでも首元が先程よりもあたたかいのが気に入ったのか、マフラーを片手で触りながら感触を楽しんでいる。
素直じゃない奴、と楓が苦笑ぎみに呟くが幸い冥鬼の耳には入らなかったようだ。
楓は足早に玄関を出ると、お気に入りのショートブーツに履き直して家を後にした。
冬本番に入りかけているためか、風が冷たく肌を刺す。
それでも日差しが出ているために、ぽかぽかとして春先めいた陽気だった。
「買い出し先はこっちだろ」
意気揚々と、楓を先導するように先に歩き出す冥鬼は桜行きつけのスーパーへと向かい始める。
スーパーの隣にある酒屋でお気に入りの酒を物色するのが冥鬼の密かな楽しみだった。
すっかり道を知り尽くしている鬼の後を追いながら楓が小さく笑う。
「さっきまで機嫌悪そうだったくせに」
「そんなの忘れたな。それより酒だ、酒」
ケロッとした顔で冥鬼が急かす。
急がなくても酒は逃げないのだが、楓は小さく笑って後を追った。
「まずは買い物を済ませてからね、その後にお酒!わかった?」
「子供じゃあるまいし言われなくても分かってるんだよ」
あんまり口うるさく言うものだから拗ねてしまったのか、冥鬼が子供っぽい言い回しで応える。
よくもまあお祖母様は買い物中にこいつと上手くやっていけるな…と思いながら楓はスーパーへと入っていく。
買い物カゴを取って、桜から頼まれた商品をひとつひとつ確認するようにメモを見つつ買い物を始めた。
冥鬼はと言うと、そんな楓を気にも留めず菓子売り場へと向かい出してく。
「ちょ…ちょっと…!小さい子じゃないんだからフラフラしないでよ!」
野菜をバラで買うか袋で買うか悩んでいた楓は、突然離れていく冥鬼の後を追って慌てて菓子売り場へと向かう。
彼が見ているのはチョコレートやキャンディ、スナック菓子などの売り場だった。
ふと、その中の1点が気になったのか冥鬼の手が袋入りグミへと伸びる。
そんな冥鬼とほぼ同時に、グミへと手を伸ばした人物が居た。
「ん」
「な…!」
冥鬼と同じグミを狙って手を伸ばしたのは腰まで伸びた長い銀の髪が眩しい少女。
二度目の邂逅となる、狗神響子だ。
こうして冥鬼と顔を合わせるのは初めて対峙し、犬神の住処で散々に叩き潰された時以来である。
あの時の大怪我は治ったのか、服の上からでは包帯なども見受けられない。
「冥鬼、あなた…どうしてよりにもよってこんなところにいるのッ…!」
声を荒げかけた響子は必死に声を押し殺して冥鬼を睨みつける。
しっかりとグミの袋を手に握って。
強ばったその表情は明らかに警戒しきった様子だが、冥鬼はそんな彼女を挑発するかのようにグミの袋を引っ張り上げる。
「そんなことはどうでもいい。手を離せ、躾のなってないクソ犬。犬には犬に相応しい餌があるだろ」
「なんですって…?」
袋を引っ張られた響子がよろけて冥鬼に近づくと、彼はわざと凄むように声を低くして言った。
一度彼の手で散々な目に遭っている響子は思わず身を震わせて、それから憎悪と悔しさを滲ませて涙目になる。
その表情が心地よくて、冥鬼はさらに続ける。
「それとも、もう一度腹を潰されないと分からないか?学習しないな、犬って奴は…」
「…っう…」
「やーめーなーさーい!冥鬼!」
まるで響子を怖がらせるように耳元で囁いた冥鬼を背後から叱りつけたのは楓だった。
楓の隣には、心無しか笑いをこらえている雪鬼が買い物かご片手に立っている。
響子は目を丸くしてから楓と雪鬼を交互に睨みつけた。
「き…鬼道さんッ!?あなた…どうしてこんなところにッ…!それからユキ、見ていたなら何か言うことがあるでしょう!」
「すみません響子、面白すぎる絵面だったので最後まで観戦したくて。あ、シュークリームは入れておきましたよ。和栗のやつでしたよね」
顔を真っ赤にして楓と雪鬼を叱りつける響子の言葉に、雪鬼が笑いをこらえながら火に油を注ぐような発言をする。
響子は既に半泣き状態だ。
あまりいじめてはかわいそうだと楓が何とか仲裁し、グミを響子へと譲らせる。
冥鬼が不服そうに楓を睨んだが「お酒、要らないの?」と楓に念を押されると渋々と言ったように手を離した。
「ご…ごめんなさい、狗神さん…冥鬼が失礼なことを言って…」
「ふん、躾がなっていないのはどっちなのかしら…」
申し訳なさそうに頭を下げる楓だったが、それすら気に障るのか響子はさりげなくグミの袋を雪鬼の持っているかごに入れて機嫌悪そうに楓と冥鬼をそれぞれ睨む。
わざと挑発するような言い回しで冥鬼を刺激する響子だったが、冥鬼を何とか片手で押しとどめている楓は、努めてにこやかに話しかけた。
「え、えーと…狗神さんたちも買い出しなの?あたしたちはさっき来たばかりなんだけど、冥鬼がお菓子売り場なんかに来るからなかなか買い物が進まなくて…」
気を遣って話しかけてきた楓に、小学生ほどの背丈をした幼い子供の鬼、少年のような身なりをした少女が嬉しそうにはにかむ。
そして深く同調するように頷きを返すと、子供らしからぬ大人びた口振りで返事をした。
「楓殿もですか…。僕も嫌がる響子を連れて買い出しに来たんですが、響子がお菓子売り場に行ってしまったので先に最低限必要なものだけ一人で選んでいたんです」
雪鬼は表がデニムで裏がボア生地となっているショート丈のジャケットを羽織り、ジャケットの中はストライプのタートルネック、下はレギンスパンツという少年とも少女ともつかない風貌で応える。
反対に響子は肩を出した白いニットに黒いフレアスカートという装いだ。
片手サイズの高級そうなバッグを手に持っており、まるで狗神響子という人物を表すように知的で近寄り難い雰囲気を醸し出していた。
「そ、そうだったのね…。と言うか、ユキくんと狗神さんって知り合いだったの?」
「言いませんでしたか?僕、この人と二人で暮らしてるんです」
楓の問いかけに、雪鬼は小さく首を傾げて響子を見やる。
響子はと言えば、ばつが悪そうな顔をしてそっぽを向いていた。
それもそのはず、転校初日から楓に自分の正体を明かして鏡を渡すように迫り、挙句に封印から解かれた冥鬼と対峙してコテンパンにやられた彼女としては二度と会いたくなかったコンビに違いない。
あれ以来彼女はしばらく学校のほうを休み、最近になってようやく通学を再開したのは良いが、一度も楓と会話することはなかった。
「……無駄話してないで。早く買うものを買って帰るわよ、ユキ」
「帰りたいなら先に帰っても良いですよ、鍵は開いてませんけど」
響子が口早に言って雪鬼を急かす。
すると雪鬼は、わざとらしくポケットの中の鍵の束をチラつかせながら響子へと振り返る。
響子は顔を真っ赤にして雪鬼を据わった目で見つめるとすぐに顔を背けてしまった。
「本当に鬼ってムカつく奴ばっかり…!」
苛立たしい感情を隠そうともせずに吐き出す響子のその言葉は、きっと本心だろう。
雪鬼はあえて聞こえない振りをして自分の買い物かごの中を整頓しながら口を開く。
「響子、ケーキ作ろうと思うんですけどいいですか?」
「愚問だわ、買いなさい」
響子は顔を背けたまま即答する。
彼女たちの意外な接点に楓は目を瞬いて、それから冥鬼と顔を見合わせた。
「……おまえ、ケーキ作ったことあるか?」
「あるわけないじゃない…」
冥鬼の問いかけに小声で返す楓。
すると、耳のいい響子には聞こえたらしく彼女はどことなく勝ち誇ったような顔で雪鬼の肩に手を置いた。
「それから…今晩の夕飯はハッシュドビーフが良いわ。市販のルウを使うんじゃなくて、ちゃんとデミグラスソースを手作りするの。ユキは料理がとっても得意だものね?」
「いや、今晩は普通に昼食の残り物の炒飯ですけど。手伝ってもくれないのにそんな面倒くさいことするわけないじゃないですか」
まるで楓たちに聞かせるような響子の勝ち誇ったような問いかけに、雪鬼が淡々と訂正する。
言葉に詰まった響子は、グッと言葉を飲み込んでから再び口を開く。
「ち、炒飯でいいわ…。それにしても…ユキから聞いたけど、鬼道さんの家はお祖母様が料理をなさるそうね。あなた自身は何も出来ないのかしら?鬼道楓さん」
「う…う…」
気を取り直して響子が挑発的に楓を見やる。
雪鬼は小さなため息をついた。
問いかけられた楓はと言えば、得意料理どころか自分は料理が全くできないということに気づいて口ごもる。
冥鬼は真剣な顔つきで二人の少女を交互に見てから楓の名を呼んで視線を合わせた。
楓は、冥鬼が何か自分を庇う一言をかけてくれるのかとすがるような気持ちで見つめ返す。
そんな楓の思いは全く伝わることなく、冥鬼は心底憐れむような眼差しを送って言った。
「お前、巫女の修行よりも料理の修行をしたほうがいいんじゃないか?」
固まる楓。
冥鬼のその言葉は、しっかりと地獄耳である響子の耳に届いた。
彼女はたまらず吹き出すと、雪鬼の肩をパンパンと叩きながら我慢しようともせずに声を上げて笑う。
「ぷっ…あははは…!ちょっとユキ、聞いた?面白すぎるわ!巫女の修行よりっ…料理の修行って…あははは!」
「知りませんから僕を巻き込まないでください。楓殿、よければ一緒に買い物の続きをしませんか…?」
すっかり機嫌が戻ったのか、声を上げて笑う響子に辛辣な対応を返した雪鬼が楓を気遣って声をかける。
楓はと言うと、力なく頷きを返して「今度料理教えて…」と小声で雪鬼にすがったのだった。




