18話【再戦 前半】
「また出やがったか」
チッと舌を鳴らして水面を見つめる冥鬼の横顔を見て何が起こったのかよく分かっていない様子の杏子が目を丸くしている。
しかしやがて、安心したのか力が抜けたように気を失ってしまった。
冥鬼は杏子を抱きかかえたまま、注意深く浴室の壁を見渡すと、いつかの日に桜が貼った結界符が無くなっていることに気づいてすぐに状況を理解する。
「なるほど。つまり結界が剥がれるまでコソコソ隠れて待ってたってことかよ、水鬼」
冥鬼がそう告げるとゴポゴポと泡立つ水面から顔を出したのは長い髪をした青い肌の鬼だった。
ヒッ、と鈴蘭が息を呑む。
ぎょろりとした目を黒髪の間から覗かせた水鬼はぶくぶくと泡を立てながら顔を出した。
「くそォ…オレの食事を邪魔しやがって…」
「そいつは悪かった。確かに食事を邪魔されたら俺様も嫌だ」
まるで水鬼に同調するように冥鬼が応える。
水鬼は、意外な返事を聞いてニタァと笑うと水かきのついた手を冥鬼に伸ばして言った。
「冥鬼様よォ…同じ鬼なら分かるだろ?人間の肉を喰いたいって気持ちが。特に若い女の肉はサイコーに美味い。足なんか柔らかくてぷるぷるしてる」
下卑た笑みを浮かべながらよだれを垂らして、水鬼が媚を売るように続ける。
「その女を喰わせてくれりゃ、オレがみんなに口添えしてアンタの罪を無かったことにしてやってもいい。いっぱい身内を殺したんだろ?そりゃあ良くねえよ…オレたちは仲間なんだからなァ」
水鬼は、冥鬼が同じ鬼たちを何匹も殺したことについて言及する。
一度目は楓を襲った鬼を殺し、二度目は楓と雪鬼が鬼に襲われているのを(結果的に)救うために殺した。
人間同士にルールや法律があるように、鬼同士にも決して破ってはいけない決まりがある。
それが同族殺しだ。
それを破れば、仲間たちから袋叩きにあっても文句は言えないだろう。
「冥鬼様ァ、せっかく封印が解けてこの世に蘇ったんだろ?何で人間なんかと暮らしてんだ?半端者じゃあるまいし、アンタだって人間を食ったり殺したりしたいだろ?なあ…」
ニタニタと笑いながら水鬼が喋り続けている間に冥鬼は杏子の体を下ろすと、その身を鈴蘭へ預けた。
ぐったりとしている杏子を抱き寄せて鈴蘭が泣きそうな顔で、冥鬼に怯えた視線を向ける。
冥鬼はゆっくりと水鬼に向き直った。
「ピーピー良く喋るな、貴様。話はまだ続くのか?」
呆れたような、興味のなさそうな顔でそう告げる。
冥鬼の背後で、水面が不自然に揺らいだ。
「冥鬼くん、危な…!」
「うぐ…!」
思わず鈴蘭が声を上げると同時に、冥鬼の後ろから無数の髪の束が飛び出した。
まるでゴムのように伸びたそれは冥鬼の首に巻きついてギリギリと絞め上げていく。
上手いように事が運んだ水鬼は、水面をバチャバチャさせながら笑い声を上げた。
「ギャハハハ!オレが本当に貴様を改心させようとして喋ってたと思うのかよ、間抜けェ!」
浴室を震わせる耳障りな甲高い笑い声に、鈴蘭は気を失ってしまった杏子を抱きしめて一層身を堅くする。
冥鬼は首を絞められたまま、ゆっくりと持ち上げられていった。
すぐに爪で髪の毛を断ち切ろうとする冥鬼だったが、その髪の毛はまるで鋼のように堅い。
(こいつの妖力、以前とは比べ物にならないくらいに増してやがるッ…!)
以前風呂場で遭遇した時の水鬼は、いかにも臆病そうな下級の妖怪だった。
しかし今はまるで別人のように好戦的になっている。
明らかに水鬼の妖気は異質であった。
「おい、冥鬼様ァ!さっきまでの威勢はどーォしたァ?オレの髪に手も足も出ないじゃねーか!ツノの折られた王様なんてこんなもんかあァ~!」
「な、ん…だと…?」
ゲラゲラと笑いながら水鬼が冥鬼の首をさらに絞め上げていく。
ツノが一つ折られていることで本来の力は出せない冥鬼だったが、それでも並の妖怪に苦戦するほど衰えているわけではない。
ツノが折れていることを侮辱するかのような水鬼の言葉に、冥鬼の顔面に青筋が浮き出る。
再度、強い殺意を持って自分の首を絞めている髪の毛を掴もうとした時、浴室の入口から凛とした声が響いた。