11話【奇襲】
雪鬼が家を飛び出したあと、すぐに楓も彼を追って自宅を飛び出していた。
泣きそうな顔をした幼い鬼を一人にすることなど、どうしてもできなかったからだ。
捨てられた子猫のような(そう、先程遭遇した子猫のような)顔をして伸ばしかけた雪鬼の手を、無理矢理にでも取っておけばよかった…と楓は後悔する。
鬼とは言え、あんなに幼い子供だ。
1人にしておけるわけがなかった。
(それに……)
楓は考えていた。
雪鬼のように礼儀正しい鬼が存在するなら、他にも理解し合える鬼も居るのではないだろうかと。
鬼の禁忌を破った冥鬼は鬼たちの中で犯罪者という括りになっているようだが。
鬼が全員悪い存在ではないのだと信じたい。
…もちろん冥鬼は例外だ。
「ユキくーんっ!どこにいったのーっ!」
住宅街を抜けて森林公園へと足を踏み入れながら楓が声を上げる。
夕飯時であるためにすっかり辺りは暗くなっていた。
昼間でも多少の薄暗さを感じるため、一層暗くなったように感じる。
もう師走も近づいているせいか、冷たい空っ風が頬を撫でた。
思わず身震いをしてしまう楓だったが、身震いの原因が寒さだけではないことに気づき始める。
「この感じ…どこかで…」
誰かに見られているような、不気味な寒気。
それは彼女にとって、一度経験のある感覚だった。
(鬼だ…!)
そう気づいた時には既に、身の回りを悪鬼たちに取り囲まれている。
ざっと20人ほどの悪鬼が、ニタニタと笑いながら木の上や背後、あるいは正面から楓を見つめていた。
「こいつ、冥鬼を匿ってる女だぜ」
「犯罪者なら喰われても仕方ねえよなあ?」
クケケ、と耳触りな笑い声を上げて鬼たちが楓を囲んでいく。
楓は舌打ちをして、制服のポケットから鬼符を取り出した。
祖母である桜が多めに渡してくれた、特殊な墨で書かれた鬼符だ。
この護符をしっかりと集中して投げつければ、たちどころに鬼の体は溶け落ちると言う。
あのクレープ屋での一件の後、楓は自信がついたのか毎朝早起きをして鬼符を使った特訓を行っていた。
その特訓の成果を今こそ実践で試すときだ、と楓は思った。
楓は鬼符を1枚顔の前に突き出すと、ふーっと息を吐き出してから集中するべく眉間に力を込める。
眉間がチリチリと熱くなっていくイメージを持って、力をためていく。
鬼たちが楓を狙って飛びかかってきた。
(集中して…投げる!)
眉間がなおも熱くなるように意識して、素早く鬼符を投げる。
すると紙の鬼符が刃のように鋭くなり、自ら悪鬼の体に貼り付いた。
途端に鬼符は赤い炎となって、悪鬼の体を焼いていく。
「ぎゃああっ!」
「やった…!成功した!」
赤い炎が悪鬼たちを焼き尽くすように広がっていく。
不思議なのは、どんなに悪鬼たちに火が移っても周りの木々や草花には燃え移らないということだ。
鬼のみを焼き尽くす聖なる火。
しかし、鬼はまだまだ無数に楓を取り囲んでいた。
集中した疲れが抜けきらない楓は、慌ててもう1枚目の鬼符を取り出して鬼たちを牽制するように構えるが…。
「…っ、気が散って集中できないっ…」
どこから飛びかかってくるかわからない悪鬼たちに意識が向いてしまっている楓は、鬼符に集中することができない。
焦る心ばかりが先走って、きちんと力を込めることが難しくなってしまっている。
そうこうしているうちに悪鬼は楓を取り囲み、今にも飛びかからんばかりに大きな口を開けたのを見てたまらず楓は恐怖に身を縮こませた。
(助けて、冥鬼…!)
無意識に冥鬼の名前を呼ぶ。
しかし悪鬼の1人が飛びかかってきたため、慌てて後方にジャンプをする形で一撃を避ける。
勢いよく後退してしまったせいで楓は思いきり尻もちをついてしまった。
「うぁ…いたた…」
衝撃に表情を歪ませる楓。
間髪入れずに、鬼が楓目掛けて飛びかかった。
今から立ち上がって体勢を立て直しても鬼符を投げることも鬼の一撃を避けることも不可能に近い。
思わず脳裏に最悪のシナリオが浮かんでしまい、楓は手の中の鬼符を強く握りしめた。
「ギャアッ!」
瞬間、楓に飛びかかろうとしていた鬼の体が視界の外に吹っ飛ばされる。
殺された訳では無い。
何者かに突き飛ばされた形で鬼の体が地面を転がった。
同時に、楓の前に小さな人影が立ちふさがる。
「お怪我はありませんか、楓殿」
振り向いてそう告げたのは、先程泣きそうな顔で家から飛び出した幼い鬼、雪鬼だった。
雪鬼は楓を守るように彼女の前に立つと、狼狽える鬼たちを一瞥して告げる。
「彼らは悪鬼。鬼からも人からも嫌われている、同じ鬼でも位の低い下等な生物です」
「ゆ、ユキくんっ…怪我は大丈夫なの?」
雪鬼の説明も頭に入らず、楓は弾かれたように我に返って問いかけた。
楓の問いかけに小さな頷きを返す雪鬼。
「平気です。冥鬼にやられた傷など大したことありません」
「な、ならよかっ…ユキくん、危ない!」
先程思い切り掌底を喰らった腹を押さえて雪鬼が微笑むが、同時に、悲鳴に近い楓の声を聞いて視界の死角から飛び出した悪鬼を雪鬼が掌底で弾き飛ばす。
雪鬼が力加減をしているためか、吹っ飛ばされた悪鬼は仲間の鬼たちに受け止められて目を回している。
鬼同士の殺生はご法度であるため、雪鬼は鬼を殺さないように加減をしているのだろう。
「去れ。この人間はお前たちが喰っていい相手じゃない」
雪鬼の凛とした声が空気を震わせた。
楓を守るように小さな体で悪鬼たちの前に立ちふさがるが、邪悪な笑みを含ませた彼らはケタケタと笑いながらからかうように雪鬼を指す。
「弱い奴は弱い奴と群れたがるって本当だなァー、半端者」
「…僕が半端者だと?」
悪鬼たちの挑発の声に、雪鬼は赤い瞳の目尻をぐっとつり上げる。
その瞳は動揺と不快感を滲ませていた。
雪鬼の背後にへたりこんでいる楓は不安そうに悪鬼と雪鬼を交互に見つめる。
「鬼と人の混血を半端者と呼ばずに何と呼ぶ?」
悪鬼の言葉に、雪鬼が明らかな動揺の色を顔に浮かべる。
楓も驚いたように目を見張ると、雪鬼を見上げて「ユキくんが…?」と小さく呟く。
「ゲェー!こいつ半分人間かよォー!」
「そういや人間くせぇ匂いが増えたと思ったんだよなァ〜」
口々に雪鬼を貶し始める悪鬼たち。
雪鬼は明らかに狼狽えていた。
「違う!僕は誇り高き鬼の子だっ!」
雪鬼の否定の声も鬼たちには届かない。
口々に、やれ半分だとかやれ人間だとか騒いでいる。
ニヤニヤと笑っている鬼の1人が口を開いた。
「そういやよォ、鬼を殺すのはご法度だけど…半端者は喰おうが殺そうが構わないんだよなァ、俺たち」
1人の鬼の言葉に、それまで騒いでいた鬼たちがピタリと騒ぐのをやめて食い入るように雪鬼と楓を見つめる。
雪鬼は舌打ちをして楓を守るように抱き寄せた。
「跳びます、少々揺れますが掴まってもらえますか?」
「う、うん…!」
抱き寄せられた時の不思議な違和感に楓の思考が一瞬止まってしまうが、すぐに雪鬼にしがみついた。
思いのほか密着するようにしがみつかれて、雪鬼がぽおっと顔を赤らめる。
「あ、あの…楓殿、もう少し離れて…」
「掴まってくださいって言ったのユキくんでしょ…!」
「そ、それはそうですが…!」
小動物のようにぷるぷると震えながら楓を間近で見ないように顔を背ける雪鬼だったが、もたついているうちに鬼たちの1人が距離を詰めて雪鬼の背中に飛びついた。
「シャーッ!」
「ぐ…!」
ガッ、と鈍い音がして雪鬼の肩に噛み付く。
痛みに顔を歪めた雪鬼は、急遽楓を下ろすと背中に張り付いた悪鬼を振り払った。
遅れて、雪鬼の肩が赤く染まっていく。
肘を伝って流れ落ちる鮮血は人間のそれと変わらない。
悪鬼たちが嬉しそうに湧き上がった。
「ほら、美味そうな血だ!人間の血だ!」
「誇り高き鬼だとか言ってるくせに血は人間だぞお!」
沸き立つ悪鬼たちの声に、次第に雪鬼の眉間がヒクヒクと震え始める。
その怒り方は狗神響子に似ているな、と楓は思った。
同時に、雪鬼の全身から青い衝撃風が走る。
「いい加減やかましいぞ、お前達…」
赤い雪鬼の瞳が燃えるように一際輝く。
ぽたぽたと零れる血を求めるように、鬼が1人2人と飛びかかっていった。
それぞれ、雪鬼の右肩と左足に飛びつく。
雪鬼は悪鬼を引きはがすように衝撃風を強めていく。
「おおおおおっ!!」
咆哮と共に強くなる雪鬼の力。
たまらず鬼たちが吹き飛ばされた。
雪鬼のそばにいる楓は必死にスカートを押さえながら凄まじい豪風に耐えている。
雪鬼は、人が変わったように目尻をつりあげて鬼たちを睨みつけた。
「…これでもまだ僕が半端者だって言うなら、少し痛い目を見てもらいますよ」
そう言った雪鬼は冥鬼と戦った時よりも深く腰を落として構える。
理性が飛びかけているとはいえ、雪鬼の頭の中は冷静だった。
プッツンしかけている自分にどの程度手加減ができるか、楓を安全に逃がすにはどうしたらいいか。
小さな頭をフル回転させながら、雪鬼は考える。
「半端者が、舐めるなよォッ!」
雪鬼の気迫に怖気付いた鬼たちを鼓舞するように、悪鬼の1人が飛び出す。
すると、残りの鬼たちも後に続くようにして飛びかかってきた。
策もなしに飛びかかってきた鬼を回し蹴りで払い、続けざまに頭を狙って飛びかかる悪鬼の顔面に掌底を撃ち込む。
まるで演舞のような華麗な闘いに、楓は思わず見とれてしまっていた。
10歳ほどの年端も行かない子供ではあるが自分よりもずっと多くの時を生きた鬼、雪鬼。
人と鬼のハーフということで苦労が多かったであろうことは先程の狼狽えた反応からも良くわかる。
(あたしもユキくんを助けないと…)
握ったままの鬼符をギュッと握りしめて、楓が震える足に力を込めながら立ち上がる。
先程は切れてしまった集中を再開するように、眉間に力を込めていく。
心の中に浮かんだ強い力を鬼符に流し込むようなイメージで、楓は雪鬼のサポートをするように鬼符を数枚まとめて前方へ投げつけた。
「ギャッ!」
鬼火が膨れ上がって悪鬼に飛び火する。
上手く悪鬼に鬼符が当たったことで楓は思わずガッツポーズをした。
しかし鬼たちも学習をしたのか、今度は火を避けるようにして楓に襲いかかってくる。
「楓殿っ!」
飛びかかってきた鬼の首根っこを掴んで、地面に突き飛ばす雪鬼。
すぐにも楓を助けようとするが、死角から手を伸ばした鬼が楓の体を羽交い締めにした。
「きゃあっ!何すんのっ…!」
鬼に羽交い締めにされた楓は咄嗟に鬼符をポケットから取り出そうとするが、腕を掴まれてしまっているために身動きが取れずにいる。
そんな楓を助けようと駆け寄る雪鬼に、楓を羽交い締めにしている鬼が制止をかけた。
「おっと、動くんじゃねーぞ!こいつは人質だ」
「やめろっ!楓殿は関係ないっ!」
牙を剥き出しにして怒る雪鬼にも全く動じず、鬼は距離を取って膝をつくようにと雪鬼に命じる。
言うことを聞けなければ楓の体を傷つける、と脅して。
雪鬼は今にも噛みつきそうなほどに目尻をつりあげて鬼を睨みつけていたが、ゆっくりと後退してからその場に膝をついた。
「へへへ、いい眺めだな!散々俺たちのことをコケにしやがってよ」
鬼たちに膝をついた姿勢となった雪鬼を嘲笑って、鬼たちが下卑た笑みを浮かべる。
拘束されたままの楓は身動きも取れずに事の成り行きを見守っていた。
「楓殿を解放してください。さもないと僕は、お前たちを…」
「さもないと、なんだぁ?俺たちを殺すつもりか?半端者が」
つとめて丁寧な口調で楓の解放を望む雪鬼に、鬼たちはいい気になって雪鬼の周りを囲むように距離を詰めていく。
鬼の1人が、雪鬼の前髪をグッと引っ張った。
その鬼は雪鬼が人と鬼のハーフだと告げた、鬼たちの中でも親分のような存在の鬼だ。
「お前が人間を見限っていればこんな目に遭わなくて済んだのになあ?人間への情が捨てきれてない辺り、やっぱりお前は半端者だ。鬼のくせに人間の世界で生きて、人間に尻尾を振ってやがる」
鬼は、浴びせられる言葉を聞いて表情を歪めている雪鬼へ畳み掛けるように罵倒を続ける。
人間に媚びを売っている半端者が鬼を名乗るなと告げて、無抵抗な雪鬼の顔を殴る。
つうっと雪鬼の赤い唇から鮮血が滴った。
「あんた、ユキくんになんて事するのよ!」
鬼に拘束されたままの楓が怒りに震えた声で叫ぶ。
しかし、鬼は聞く耳も持たずといった調子で掴んだままの前髪を強く引き寄せると雪鬼の腹に膝蹴りをめり込ませる。
「あ、ぐ…っ…」
冥鬼に掌底を喰らった後できちんと完治していないままだった雪鬼の体は、鬼の暴行によって再び悲鳴を上げた。
その場にうずくまるようにして激痛をこらえる雪鬼の様子がおかしいのか、周りの鬼たちも一緒になって雪鬼の背中や頭、腹を好き勝手に叩いたり蹴って遊んでいる。
「抵抗すんなよ!お前が抵抗したらこの女を食うからな!」
そう言いながら、無抵抗な雪鬼の頭を踏みつける鬼。
激痛に喘ぎながら、雪鬼はうっすらと目を開けて自分の名前を叫ぶ人間の少女を見つめる。
その泣きそうな少女の姿が、雪鬼の遠い記憶を呼び覚ましていった。