10話【赤鬼と青鬼】※挿絵あり
弱った子猫を見つけた。
恐らく捨て猫だろう。
両目は目ヤニで開かないらしく、みゃあみゃあと鳴き声を上げて助けを求めている。
元は綺麗な白い毛並みだったのかもしれないが、泥をかぶってしまったらしくカピカピになってしまっていた。
それでも子猫は生きようと小さな声を上げていて。
「………」
ランドセルを背負った子供がそんな猫を見つめている。
青みがかった黒髪を肩につくかつかないか程度にまで垂らし、つり目がちの瞳は燃える炎のように赤い中性的な幼い子供。
子供は死にかけの猫を見下ろして言った。
「弱い奴は死ぬ。それは人も猫でも同じことなのに」
まるで自分に言い聞かせるようにして小さな子供が呟く。
子供の名前は、雪鬼と言った。
人の世界でひっそりと暮らす鬼の一人。
かつて鬼が覇権を握っていた遠い時代、人との間に子供を作った鬼も少なからず居た。
雪鬼もその一人だったが、物心ついた頃山の中で孤児となったために親の顔は知らない。
衰弱しきった雪鬼を拾い、育て上げてくれた男は雪鬼に、生きるために必要なことを教えてくれた。
それは、弱い者は死に強い者が生きるということ。
悪は倒され、正義が必ず勝つということ。
(…冥鬼は悪だから倒された)
雪鬼が目を細める。
自分と同じ鬼だが、その血は高貴で混じりけのない純血。
生きながらにして伝説となった鬼の王、冥鬼。
いずれは自分も冥鬼に仕えて、彼のために生きるのだと密かに思い描いていた未来予想図は、冥鬼が封印されたために呆気なく白紙となった。
聞けば冥鬼は最近復活を果たし、鬼を2匹も殺したと言う。
同胞である仲間を殺した罪。
鬼として破ってはならない決まり事をあっさり破った王を、もはや王とは認められない。
そうして雪鬼は、冥鬼への憧れを捨てた。
……はずだった。
「なのに何故、あなたが…いや、貴様がここにいるんだっ!」
新聞を読みながら煎餅を食べる王を指して、雪鬼は叫んだ。
時間は少しだけ遡る。
捨てられた猫を見つめて物思いにふける少年、雪鬼に帰宅途中の楓が声をかけた。
「弱いからこそ助け合うのよ、こんなふうに」
諭すように声をかけてきた年上の少女は、躊躇うことなく泥にまみれた子猫を抱き上げる。
雪鬼は、ハッとして顔を上げると楓の腕に抱かれた子猫を見やった。
心なしか、猫は安心したように楓の腕にしがみついている。
「……そんな猫、助けても何のお礼も返しちゃくれませんよ」
雪鬼がふてくされたように言うと、楓はアハハと困ったように笑っておもむろに片手で鞄を突き出した。
「ね、鞄の中にハンカチとペットボトルがあるんだけど出してもらえる?片手じゃ鞄を開けられないの」
お願い、と楓が笑いかける。
屈託なく向けられたその笑顔に、雪鬼は目を丸くしてからしおらしく彼女の鞄からハンカチとミネラルウォーターの入ったペットボトルを取り出した。
何故か彼女に逆らえない、そんな気がしたからだ。
まっすぐに向けられた笑顔が眩しくて、逆らう気が起きなかったというのも理由のひとつだが。
「ありがとね。これで綺麗になればいいけど…」
楓は礼を言ってミネラルウォーターを使って濡らしたハンカチで子猫の目ヤニを拭っていく。
そんな猫、放っておけばいいのに…と雪鬼は思う。
だがその場から動けずに居たのは何故だったのか、雪鬼自身にもわからない。
ただ黙って彼女の行動を見守っていた。
「ほら、見て。目が開いたみたい」
「あ……」
優しく目元を拭っては水でハンカチを濡らすことを繰り返して数分、ようやく猫の瞼が開いた。
綺麗なオッドアイの瞳がゆっくりと開いていく。
思わず嬉しそうな声を上げる楓に、いつしか雪鬼も子猫のことを見守っていた。
目ヤニが取れて目を開くことができた子猫に、雪鬼はホッと安堵の吐息を漏らす。
「かわいいよね、子猫って」
楓が微笑みかける。
雪鬼はその微笑みを直視出来ずに、猫に視線を移して小さな頷きを返した。
恥ずかしそうに顔を赤く染めて、時折楓の表情を窺うように視線を上げる。
「……かわいい、とは…思います。でも僕は、あなたのほうがよっぽどかわい…あ、いや…その…すみません」
ポツポツと喋りだした雪鬼が、言葉を選びすぎてうっかり失言をする。
顔を真っ赤にしてあたふたしている雪鬼を見て、楓は思わず吹き出した。
「あはははっ!ありがと、ありがとね!男の子にかわいいなんて言われたの初めて」
小学生にかわいいと言われたのがツボに入ったのか、楓は楽しげに笑い続ける。
一通り笑い転げた彼女は、ゆっくりと膝を折って雪鬼と同じ目線になった。
「あたしは楓って言うの。君の名前は?」
「僕は、雪お…ユキと言います」
優しく語りかける楓に畏まった雪鬼は、自分の名前を言いかけてすぐに言い直した。
人間に混じって生きているため、彼は自分の名前をユキと名乗る。
時代が移ろうたびに名字も変えて、戸籍も変えて。
ずっとずっと、長い時をそうやって生きてきた。
「ユキくんか…学校の帰り?よろしくね」
だが長い時を生きてきた中で、これほど心を揺さぶる人間に出会ったことは雪鬼には経験が無かった。
胸を締め付けられるほどの痛みと、切ない感情。
雪鬼は顔を赤くしたまま頷くことしかできなかった。
軽く自己紹介を交わした後、楓は子猫を家に連れ帰って何かを食べさせてやりたいと告げた。
楓と別れるのが惜しく感じた雪鬼は、もし邪魔でなければ、自分も手伝いたいと申し出る。
楓はちょっと驚いたように目を丸くしたが、すぐに嬉しそうに頷いた。
そうして彼が鬼道家に招かれ、猫の世話を始めた直後、冥鬼との思いがけない出会いを果たしてしまう。
「何故貴様が楓殿の家に居るんだ、冥鬼!」
驚愕に目を見開いて声を荒らげる雪鬼。
それはまるで親の仇を見るような目だ。
「冥鬼、知り合い?」
「いーや、知らん」
楓の問いかけに、冥鬼が興味すらなさそうにかぶりを振る。
雪鬼はランドセルを下ろすと全身に纏った魔力を解き放った。
人の世で生活する時は、尖った耳も立派なツノも自身の魔力で覆い隠しているため、それを解き放つことで本来の姿に変貌することができる。
「僕は雪鬼。貴様と同じ鬼だ、犯罪者」
つり目がちの赤い瞳が目を冥鬼を睨みつける。
冥鬼は特に驚いた様子もなく煎餅を口にして、チラリとだけ雪鬼を見た。
「え、ええ!?ユキくんって鬼だったの!?」
「騙す形になってすみませんでした、楓殿。しかし僕は戦わなければならない理由ができた」
突然の出来事に狼狽える楓へ、雪鬼は姿勢を正して頭を下げる。
寝転んだまま新聞を広げていた冥鬼は、食べかけの煎餅を噛み砕くと低い声で笑った。
「…面白いことを言う餓鬼だな」
ぺろ、と唇を舐めて雪鬼を見やる。
その目は、売られた喧嘩なら買うぞと言っている。
「表に出ろ、冥鬼。僕が勝ったらその首をいただく」
あどけない子供の凛とした声が冥鬼の耳に届いた。
冥鬼は目だけで雪鬼を見ると、何も言わずにゆっくりと体を起こす。
指をパキ、ポキ、と鳴らしながら縁側に出ようとする冥鬼を、楓は慌てて押しとどめた。
「ちょ…ストップ!ストーップ!相手は小学生よ!?何考えてるのよっ!」
「何だ?鬼に見た目の若さは関係ねえよ。ああ見えて貴様よりずっと年上だぞ、あいつ」
楓に押し返されかけた冥鬼は、楓を払い除けるように手をひらひらと振った。
しかし楓は引き下がることはせずに冥鬼の前に立ちはだかる。
ユキくんに手を上げないで、と冥鬼を見つめるその瞳は強い意志が宿っている。
彼女の強い意志が冥鬼に効果がないことは既に実証済みだが。
冥鬼は、長いため息を吐いて楓から顔を背けた。
わかったよ、やかましい奴だな…と言う言葉が冥鬼の口から聞けることを期待して楓の表情がパッと明るくなる。
しかし、冥鬼は目だけを雪鬼に向けてから鼻で笑った。
「だが相手は殺る気らしいぜ?ちょうど俺様も体が鈍ってたところだ」
ニヤ、と冥鬼が意地の悪い笑みを見せる。
それでも何とか戦いを避けまいと押しとどめようとする楓を呆気なく振り払って、縁側から庭へと降り立った。
「……お覚悟を」
一連の会話が終わるまで大人しく待っていた雪鬼が静かに息を吸い込む。
右足を引いて、戦闘の構えを取った。
冥鬼は腕を組んだまま構えない。
むしろ、それが自分流の構えだと言わんばかりに。
一瞬の静寂の後、雪鬼が深く踏み込んだ。
「はあっ!」
小柄な雪鬼の体が冥鬼の目の前で消える。
正確には、消えたように見せたのだ。
高く跳躍して回り込んだ雪鬼はその小柄な体を活かして、冥鬼の後頭部を狙うように回し蹴りにかかる。
冥鬼は振り向くなりそれを拳で防いだ。
「……驚いたな。独学か?それ」
「言うわけないッ!」
子供らしからぬ戦闘スピードに冥鬼が問いかけるが、雪鬼は続けざまに鋭く尖った爪を大きく振りかぶる。
皮膚を切り裂かれるすんでのところで、冥鬼が距離をとった。
しかし、上体を低くして素早く踏み込んできた雪鬼が、今度は掌底から放たれる衝撃波を冥鬼めがけて展開する。
「喰らえっ!」
まともに喰らうとただでは済まない雪鬼の一撃だが、今度は冥鬼も避けるタイミングを失っている。
というより、避けようがなかったのだ。
いつの間にか、壁を背にするように追いやられていたせいで。
(やりやがったな、この餓鬼…)
冥鬼は思わず舌打ちをした。
壁際に追い詰めた冥鬼を見て勝利を確信する雪鬼だったが、舌打ちの後にゆっくりと笑った彼を見て目を見張る。
瞬間、冥鬼の姿が眼前から消えた。
「がッ…!?」
ドン!と全身に痺れが走る。
内蔵を抉るような一撃が雪鬼の小さな体を貫いた。
冥鬼の掌底が、雪鬼の胸を突く。
あまりにも重い衝撃で、雪鬼は呼吸が出来ずに膝をついてしまった。
「か…は…」
目を見開いたままその場から動けなくなってしまった雪鬼を冥鬼が内心冷や汗をかきながら見下ろす。
慣れない掌底で力加減を誤ったな、と自身の大人げなさを少しだけ恥じた。
(ヒヤヒヤさせてくれる餓鬼だぜ……)
あとすこし判断が遅ければさすがにちょっと危なかったなと思いつつ、冥鬼が縁側に上がろうとすると一部始終を見守っていた楓に思いっきり突き飛ばされかけたものだからすんででで避けた。
その代わりに、楓が盛大に顔から庭に突っ伏す。
「……何転んでんだ、貴様」
「くぁ…この、馬鹿…何で、避けるのよ…」
心底呆れたものを見るような目で冥鬼が楓を見下ろす。
楓はあまりの痛みでしばらく起き上がれずにいた。
人間ってヤツは軟弱だよな、としみじみ呟く冥鬼をどつきたい気持ちを抑えつつ何とか体を起こした楓は、よたつきながら雪鬼の元へ向かう。
しばらく動けずにいた雪鬼だったが、ようやく呼吸することを思い出したのか、激しく咳き込み始めた。
「がはっ…ごほっ、ごほっ…」
「ユキくん…大丈夫?」
掌底を喰らった腹を押さえながら体を起こそうとする雪鬼に、楓が手を伸ばす。
雪鬼はその手を取ろうとしたが、無残にも敗北してしまった手前、素直に楓の手を取れない。
伸ばしかけた手をギュッと拳に変えて、雪鬼は深くうなだれた。
そんな雪鬼に追い討ちをかけるように、冥鬼が告げる。
「デカい口を叩いた割には大したこと無かったな、餓鬼。瞬発力はかなりのものだったが…」
それは冥鬼なりの賛辞のつもりだったが、雪鬼は悔しげに表情を歪ませた。
一度は憧れを抱いていた存在でもあるが、同胞を殺して今や犯罪者となった鬼に褒められては情けなくて仕方ない。
雪鬼は強く打たれた腹を押さえてフラフラと立ち上がると、泣きそうな表情を浮かべて楓に視線を向ける。
そして、すぐにランドセルを掴んで逃げるようにその場から駆け出した。
「ゆ…ユキくんっ!ちょっと待って…!」
「放っておけ、それより今日の夕飯のほうが気になる。カレーライスとかいう料理は甘いのと辛いのがあるらしいな、俺様は両方食いたいぞ」
慌てて雪鬼の後を追いかけようとする楓に、冥鬼が声をかける。
ことごとく食べ物のことしか考えていない冥鬼に、楓が勢いよく振り返る。
「こんの…鬼っ!」
怒鳴るようにして短く叫んだ楓は、すぐさま雪鬼の後を追うように駆け出していく。
冥鬼はキョトンとしてから言った。
「俺様は生まれた時から鬼なんだが」
もちろんその言葉は楓の耳には届いていない。