1話【鬼王の巫女】
いつからだったか、彼女には【それ】が見えた。
【それ】が見えるのは決まって夜、彼女が湯船で火照った体のまま寝床に入って、心地よい眠気に身を預けうとうとし始める頃。
古めかしい和服姿で彼女の枕元に立つ幽霊(根拠はないが幽霊だと彼女は信じていた)は物心ついた彼女の前に現れて「何かお話して」と舌足らずな声でねだるのだ。
恐怖はない。
半ば夢の中に入りつつあった彼女にとって、【それ】が幽霊かどうかなどは小さな問題であった。
そっと布団を開けてやると、【それ】はごく自然な動作で彼女の寝床に潜り込む。
「今日はなんのお話をしてくれるの?」
耳元で幼い声が囁く。
彼女にしか聞こえないくらいの、かすかな声だ。
まるで、それは彼女がいつか経験した幼稚園のお泊まり会の夜のように。
先生に気づかれないようにと声を最大限に小さくしてこそこそと友達同士で内緒の話をするように。
【それ】は彼女と内緒の話がしたいのだ。
声の中に、今日はどんな話が聞けるのかという大きな期待を含ませて。
「今日は……」
彼女は天井の暗がりを見つめながら口を開いた。
部屋の明かりを全て消しても泣かずに眠れるようになったのはいつからだったか、室内は明かりひとつない文字通りの闇だ。
彼女は墨を流し込んだような天井の暗闇をぼんやりと見つめる。
「今日は、学校で将来の夢についてのプリントを書かされたっけ」
「ぷりん、と…?それってこの前話してくれた、きゅうしょくのでざーと?」
彼女の傍で、幽霊が首を傾げる。
給食のことまで話していたっけ、と彼女は少しだけ笑って寝返りを打つ。
すぐそばに幽霊の顔が見えた。
「そうじゃないわよ、紙に書いたの。大きくなったら、何になりたいかをね」
彼女が寝返りを打つと、幽霊は同じように体を横に向けて律儀に彼女と向き合う。
漆黒の世界にぼんやりと浮かび上がる幽霊の姿は不明瞭なものだったが、暗がりの中に溶け込む漆黒の髪を肩につくかつかないか程度まで伸ばし、前髪を眉毛のすぐ上でまっすぐに切り揃えた4.5歳ほどの幼い容姿をした子供であることがわかる。
何故いつもこの幽霊は自分の前に現れるのか、そんな考えは既に彼女にはない。
何せ、物心がついた頃から毎日のように幽霊と会話をしている。
いつも決まって寝る前、彼女が眠りに落ちる間近に幽霊は現れる。
怖いだとか不気味だという感情は全くなかった。
「おねえちゃんは、大きくなったら何になるって書いたの?」
幽霊の静かな問いかけに、手放しかけていた意識を取り戻した彼女はほとんど半開きになった目を幽霊へと合わせる。
少しだけ考えて、プリントに書いたこととは真逆の願望を口にした。
「都会に行って、料理の専門学校に通いたい…かな」
「ほよ…」
彼女の答えを聞いて、分かっているのか分かっていないのか幽霊は小さな声を上げる。
昔から彼女は【都会】という場所に行きたがっていたことを幽霊は知っていた。
都会には何でもあって、美味しいものもたくさんあるのだと目をキラキラさせながら話してくれる彼女の話を聞いて、イマイチ実感は湧かないものの「すごいところなんだね」と返事をしたことを覚えている。
ゆえに、彼女の回答は幽霊にとって十分納得のいくものだった。
だが、彼女はちょっとだけ寂しそうに笑う。
「うそ、ごめん。紙に書いたのは全然違うこと。…神社の巫女になるって書いたの」
目をぱちぱちとさせる幽霊のそばで、彼女はまっすぐに天井を見つめていた。
まるで決意を新たにするように、迷いを振り切るように。
「あたしはこの家に残らないといけないから。ご先祖さまが先祖代々守ってきたものをあたしも守り継がないと。それこそ都会になんて行けない」
行けっこない、と言いかけて言葉を飲み込む。
都会への憧れは小さな頃からあった。
しかし自分を育ててくれた大好きな祖母や父親を置いて家を離れることは絶対にできない。
そもそも、鬼道という家が許さないだろう。
だから憧れは憧れのまま、胸の内に仕舞うのだ。
「…ごめん、変な話ししちゃって。もう寝よっか」
傍らの幽霊ににこりと笑いかけようとした彼女の目が小さく見開かれる。
既に幽霊は居なかった。
元々彼女の部屋には、彼女1人しか居ないのだから当然だ。
「ふう……」
長い長いため息をついて彼女は寝返りを打つ。
将来への不安と、期待と、叶わない夢。
既に進路を決めて、都会への進学を考えている友達も居た。
そんな友達を遠巻きに眺めながら、彼女は白紙の進路希望にペンを走らせたことを思い出す。
目を瞑ると浮かんでくる、あるはずのない未来。
都会で料理の勉強をして、自分の店を開く未来。
あるいは、都会でバリバリのキャリアウーマンになって上司の好青年と恋に落ち、幸せな家庭に恵まれる欲張りな未来。
様々な未来予想が彼女を楽しませ、その内に深い夢へと誘っていた。