物語の一貫性について ~シェンカー理論の散文創作への応用を考える~
重ねて申し上げますが、
本文は孫引きや又聞きに基づく
独断と偏見と独自解釈で構成されています。
正確性は全く保証できません。
資料的価値は参考程度にしか
ありませんのであしからずご了承ください。
「冒頭から末尾への音の連なりは
全体の構造に従っている。
我々はいつ作品の終わりを理解するのだろうか。
それは作品の冒頭に末尾がある時である。
つまり、冒頭に約束されたものが
末尾に現れている時である。」
(セルジュ・チェリビダッケ)
私は小説の物語の一貫性というものを
考えるにあたって
クラシック音楽の、特に交響曲に顕著に見られる
建築のような構造、
異なる性格を持つ楽章や小節が
統一をもたらすある感情ある観念に従って調和され
より大きな全体を形作るという構造、
そしてそれらを可能とするための
提示部・展開部・再現部・終結部といった
各部分の機能の捉え方、
複数の旋律を同時に活躍させる対位法という概念
などに注目していたのですが
シェンカー理論というものを知ってからは
ますます小説と音楽に通ずる形式の創造力を
意識するようになりました。
平たく申しますと
私は音楽には物語をきれいにまとめる
ヒントがあると思っており、
シェンカー理論に倣えば
そのヒントを実践できると
予感しているということです。
今回はそのシェンカー理論を
Wikipediaの当該記事その他関連する
web情報を参照しながら
(関連書籍が中々見つからないため。理由は後述)
紹介していきます。
以下の解説は
孫引きや又聞きに基づく
独断と偏見と独自解釈で構成されています。
正確性は全く保証できません。
資料的価値はあくまで参考程度と
見積もっていただきたい。
シェンカー理論とは
オーストリアの音楽学者
ハインリッヒ・シェンカー(1868~1935)が提唱した
調性音楽の構造に関する対位法と和声の理論で
かの20世紀最大の指揮者
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー
(1886~1654)も多大な影響を受けている
独自性の強い音楽理論です。
私はこのシェンカー理論における3つの重要な用語
・基本線
・音度
・遠聴
が小説の創作をも理論づけられる
普遍的な原理であると考えている訳です。
下にその3つの概要を説明していきます。
基本線……
楽曲の大まかな流れ。
小説で言うとあらすじかもしくは
起承転結に当たる(と思う)。
絵だとパースやアタリといったところか。
小説も音楽も絵も
大まかなところから作り始めるという
言ってしまえば
当たり前の話なのですが、
小説や絵だとどうしてもキャラがかわいいとか
台詞が格好いいとかといった
部分に注目しがちになる一方、
音楽は純粋に形式美そのものを
楽しむものなので
構造の仕組み、特に大まかな流れというものは
よりはっきり分かると思います。
音度……
音度は和音(=二つ以上の異なる音の組合せ)
と和声(和音の連なり、いわゆるハーモニー)の
関係の深さを表す概念です。
基本線が変化していく際に基準となるものであり、
基本線に対する和音の具体的な配置、前後や順序を
表す単位のようなものと言えます
(文献の文章の意図からの
推論に基づく独自解釈であることを
改めて申し上げておく)。
故に和声というものの性格を
物語るものとも言えます。
シェンカー理論ではこうした和声の解釈の仕方から
作曲という行為が基本線の変奏や
転調の連続からなるものである
という定義を導きだします。
絵でいうと細部を描き込んでいく
段階の話に似ていると思います(推定ですが)。
このことを小説の創作に応用すると
物語を構成する各要素が
起承転結の変調、バリエーションの
契機となるといった考え方ができると思います。
それは物語の動機と並ぶ
創作上重要な要素です。
遠聴……
作品の諸々の要素同士の関連の内最も大きな関連、
作品全体を支配する統一性、その力、
その必然性を見抜く能力。それが遠聴です。
言い換えれば遠聴とは
作品が示す運命を読み取る能力であると
言えます。
フルトヴェングラーがこの遠聴の概念に
注目していたことこそ
ベートーヴェンやブラームスといった
創造主たちの預言者である彼の預言者たる所以
であります。
「運命が告げられるだけでは
人間は恐怖しない。
社会、国家、日常生活の舞台で
運命が証明される時に
人間の戦慄は完成する」
(アルベール・カミュ 『フランツ・カフカの
作品における希望と不条理』)
小説を構成するごく小さい単位、
つまり登場人物の性格や能力、思想、
持ち物や仕草、一つの判断、一つの行動、
一つの思いつきに
物語の始まりと終わりの暗示を、
あるいは物語の拡大と展開のひな形を
持たせるということ、
そしてそれら影響し合いながらも
本来的には関係のないものが
一つの揺るぎない存在によって
関連づけられているということ、
これを成功させれたなら物語のあらゆる要素が
より深く遠大に、古典的に解釈される存在と
なることでしょう。
シェンカー理論は
ミクロとマクロの相関を割り出す
システマティックな考え方と言えると思います。
シェンカー理論は日本ではほとんど知られておらず
シェンカーの著書の邦訳さえ
満足に揃っていません。
のみならず、シェンカーの故郷ドイツを含む
ヨーロッパではシェンカー理論は
ほとんど忘れ去られている始末だそうです。
しかしフルトヴェングラーやロマン・ロラン、
我が国の誇る大ピアニスト内田光子女史といった
そうそうたる面々が
シェンカー理論を支持しておりますし、
アメリカでは主要な音楽分析法として
広まっているので信用と実績は充分ある訳です。
それにシェンカーは
かのアントン・ブルックナー(1824~1896)
の直弟子であります。
ブルックナーの交響曲を聴いた経験を
創作者を志望した動機の一つとするこの私が
ブルックナーの知的伝統から
創作の何たるかを学ぶのは
これぞまさしく必然と言って
良いものでしょう!
「一切が枯れていなければなりません。
しかし、その中に炎の核があって
全体を隈無く照らしていなければなりません。」
(ヴィルヘルム・フルトヴェングラー)
ちなみに住友は音符すら読めません。
今回のシェンカー理論解釈は
あくまで資料の読解に基づく
小説家の端くれとしての見解となります。
うーんダサいかなやっぱり