後編
目の前に運ばれて来たプリンサンデーは、どこにでもあるような平凡な出来だった。でもまあ、こういうお店のケーキには期待しない方がいい事は分かっているので、そうなると必然的にパフェかサンデーという選択肢しか残らなくなるのだ。もっとも、わたしはファミレスのパフェもサンデーも美味しいと感じるたちなので、これでも十分満足なのだけれど。
「それで? 改まって話というのは?」
スプーンにすくった生クリームを食べるために大きく口を開いたところに、面白そうに口角を上げながら恩人さんが声をかけて来た。
一応花も恥じらう女子高生。乙女の恥じらいなんてものがないわけでもないわたしは、少しだけ恥ずかしくなって、口を閉じた。もちろんスプーンはきちんとくわえこんでいる。
「あなたに、確認しておきたい事があるんですけど」
「だから、それは何かと聞いているんだが」
どうやら意外とせっかちらしい。
「どうして、わたしに連絡して来たんですか」
件の携帯電話が父の忘れ物だという事は、一緒に商談をしていたこの人には最初から分かっていたはずだ。それが証拠に、父の勤務先に電話で連絡を入れていた。そこまでは、いい。そこからの行動が理解できないのだ。
父の話では、父が会社に戻った時、なぜかデスクにはこの人からの電話メモがなかったらしい。父は帰社してすぐにはまだ携帯電話を紛失した事に気付いておらず、わたしからの電話メモを見て、慌ててわたしの携帯電話に連絡を入れて来たのだ。
勤務先に伝言を頼んで、父からこの人に直接連絡させれば話は簡単だったというかむしろそれで終わっていたはずなのに、なぜこの人がわざわざわたしの携帯電話に連絡して来たのかが分からない。
「会ってみたかったから、だな」
「は?」
「親父さんの待ち受け画面のあんたに、興味を持った。待ち受けにするくらいなんだから、娘だろうと推測して履歴を調べてみたら、ビンゴだった」
父の携帯の待ち受けのわたしって、学校の夏服姿だったはず。それを見て興味を持ったとなると、なんだかいろいろな意味で危ない人なのだろうか。そして何よりも、他人の携帯電話の履歴やデータを見るなんて。
「それって、犯罪じゃないんですか」
「そうかもしれんが、それはあんたと親父さんの気持ち次第だな」
つまり、わたしがこの人を警察に突き出す気になればその場で軽犯罪法違反になるのだろうし、見逃せば何事もなかった事になると、そういうわけなのだろう。
恩人さんが薄ピンクのネクタイの結び目に指をかけ、襟元まで絞めていたそれを緩めた。そんな仕草なんて父で見慣れているはずなのに、なぜか目を離す事ができない。きっちりと止めているシャツの釦を二つ外すと、喉仏が覗いた。
「それで、どうする? 交番なら、駅前にあるが」
ここから歩いてほどない距離に交番があるのは、待ち合わせ場所に来た時にわたしも気付いていたけれど。
感情のこもらないその言葉に、慌てて視線を下に落とす。男の人の喉仏に見とれていたなんて、当の本人に知られたら恥ずかしすぎるではないか。
「今回だけなら、許します」
焦ったせいで落ち着きがなくなった鼓動を必死になだめながら、カスタードプリンをつつく。これはきっとお店で作った物ではなくカップに入っている出来合いの物を使っているんだろうなと、関係のない事を考えてみる。視線の片隅には、未だ恩人さんの喉仏を捉えたままで。
恩人さんは器用に片眉を上げ、少し分かりにくいながらもどうやら驚きの表情を作っているようだ。
「あなたは、父の取引先の人だし。あなたに何かあると、父の仕事にも多少は影響があるだろうし」
「親父さん思いなんだな」
少しだけからかいを含んではいるけれど大部分は感心しているような響きが宿っている言葉に、顔を上げずに視線だけで相手の表情を確かめようとした。
「そりゃあ、親子ですから」
何を当たり前の事を、と顔を上げながら言いかけて、恩人さんの顔を見て思わず言葉を飲み込んだ。
「な、なんなんです、か」
思い掛けない優しげな表情に、無意識にうろたえる。
「今時珍しい、いい子だなと」
子供扱いされてむっとしたものの、一応褒められているんだから喜んでお礼を言うべきなのかもしれないなと考えた。
「ありがとう、ございます?」
逡巡が、語尾の疑問符に集約されている。
「面白い子だな」
面白いと言うのは、褒め言葉なのか? いや、普通は違うはず。目の前のこの人は、それはそれは愉快そうに目許と口元を緩めていて、明らかに面白がっているように見えるし。
「煙草、いいか」
「え。ああ、はい、どうぞ」
そういえば、待ち合わせていた時にも、ほんのりと煙草の臭いがしていた。てっきり父の物だと思っていたのだけれど、取り出した小さな箱を見て納得する。父が吸っているのと同じ、水色のパッケージだっだ。
普通のどこにでも売っている使い捨てライターで火をつけ、ふーっと煙を吐く姿は、父とはまた違う大人の男を感じさせられる。少なくとも、粋がって煙草を吸っているそこら辺の高校生じゃ敵わない、大人の色気というのだろうか。そんな物が、紫煙と一緒に漂っている気がした。
「俺と付き合わないか」
まだ半分ほども残っている煙草を灰皿に押し付ける手元をじーっと見ていたら、突然そんな言葉が耳に飛び込んで来た。父は四分の三は吸ってしまうから、それもまた新鮮だ。なんて事を考えていたから、反応が遅れた。
「はい?」
さっきまでのにやにや笑いをやめ、無表情に近い顔になっている。たった今付き合おうとか言ったとは思えないほどに、何を考えているのか分からない顔だ。
「あんたといると、退屈しなくてすみそうだ」
おい。人に交際を申し込む理由がそれかい。と、心の中で突っ込みを入れる。何気に失礼じゃないだろうか。
「退屈なんですか?」
「退屈はしていないが、あんたを見ていると面白そうだから」
面白そうって、人をなんだと思っているんだ、この人は。
「わたし、高校生なんですが」
「そうだろうな」
「ちなみにあなたは?」
「あんたより九つ上」
げっ、と喉が変な音を立てた。オヤジじゃん、ロリコンじゃん、と思わず引いてしまう。
「失礼な奴だな」
どうやら顔に出ていしまっていたらしい。
「えー。や、だって、ねえ」
ああ、正直な自分が恨めしい。
「まあ、俺も自分で驚いているがな」
「へ?」
「まさかこんな小娘に、とは、思ってもみなかった」
小娘という言葉にむっとしたが、わたしもさっきオヤジだと思ったのだからおあいこだ、と思いなおした。
「本気?」
「らしいな」
自嘲気味に口元を歪める男の顔を眺めながら、考える。
甚だ疑わしいけれど、相手はどうやら本気らしい。仕事で繋がりのある父の娘だと分かっていてあえて交際を申し込んで来るという事は、それなりに真剣なのだろうか。
そうだと仮定して、じゃあわたしはどう思っているのだろう。
相手は九つも年が離れたオヤジだ。社会人だし仕事があるから、高校生カップルのように毎日会うというわけにはいかないだろうし、週末だって怪しいものだ。特に若いうちなんて、やれ他の人の応援だ代わりだと言っては、休日に駆り出される事も少なくないと聞いている。
そこまで考えて、既におつきあいする事を前提の思考だという事に気づいて愕然とした。
すっかり氷が溶けてしまい、表面に汗をかいているガラスのコップに手を伸ばした。少しぬるくなった水をのどに流し込む時に、ごくりと大きな音が鳴る。
「仕方ないから、つきあってあげる」
水色の箱に手を伸ばして二本目の煙草を摘もうとしていた彼の動きが止まり、怪訝そうに寄せられていた眉根が一瞬緩んだ。
「仕方がないから?」
「そう。仕方がないから」
彼の口元が、苦々しげに歪んだ。