前編
制服のスカートのポケットに入れてある携帯電話が、着信を知らせるためにその体を震わせている。ちょうど学校が終わる時間を見越した母が
「帰りにスーパーに寄って、買って来てー」
とか言って来るのだろうか。そんな事を考えつつ、一緒にいる友人にひと言断ってから画面を確認すると、意外や意外、父の携帯電話からの着信だと分かった。メールならともかく、まだ勤務中のこんな時間にかけて来るなんて珍しい。
「もしもし」
電話越しに聞こえて来た声は、けれど父の物ではなかった。もっと若いけれど、覇気というかやる気がちょっと欠けているっぽい、なんとなくだるそうな声。少なくともわたしには、聞き覚えのない声だ。
その声の主が告げるのには、どうやら父がどこかに忘れて来た携帯電話を拾ってくれたのだとか。警察に届ける道すがら、悪いと思いつつなにか手がかりがないかと送信履歴と着信履歴を見たら、わたしの名前と番号が出て来たらしい。
今いる場所を聞くと、電車で三つほど向こうの駅のそばだという。電車に乗りさえすれば、ものの十分もかからない距離だ。
この時間当然ながら父は仕事中だけれど、たぶん携帯電話を落として困っているだろう。折り返し父の電話にかけ直す事を約束して、わたしはいったん電話を切った。
そして三十分後。拾い主が待つ駅前に、父と待ち合わせて到着した。わたし一人で受け取りに行こうかと言ったのだけれど、相手が男と聞いて父が心配したのだ。もちろん携帯電話がなくて不便だという事と、アドレス帳のデータの不正使用が心配だった事も大きな要因なのだろうとは思う。
普段営業で外回りをしている分、こういう時に融通がきいてよかった、と父が言った。けれどそもそも外回りをしていなければ、携帯電話を落とす事もなかったのではなかろうかとも思うわけだけれど。
こちらから電話をかけ直した時に拾い主の服装の特徴を尋ねてみたものの、よく考えなくても相手は仕事中だからスーツ姿。つまりは日中のビジネス街なら掃いて捨てるほど見かけるそれは、相手を特定する要素としてはかなり大雑把すぎる物だった。
仕方なく制服姿のわたしの特徴を伝えたのだけれど、たぶん聞かなくても分かる、などという答えが返って来て驚いた。
「お父さん、携帯の待ち受けにわたしの写真を貼りつけるのはやめてって、言ったでしょう」
改札を出て拾い主との待ち合わせ場所に向かいながら、少しだけ責めるような口調で訴えると、父が驚いたような顔をして不都合があったのかと聞いて来る。
「相手の人、待ち受けがあるから、わたしの顔が分かるって」
たとえ恩人とはいえ見知らぬ男に顔を見られる、しかもある程度身元が確定されてしまうというのは、決して気持ちいい物ではない。ただでさえ個人情報の取扱いが取り沙汰されている昨今、油断は禁物なのだ。
「あの写真のお前が、あまりに可愛かったからな」
悪びれもせずむしろ嬉しそうに頬を緩める父は、昔から自他共に認める親ばか子煩悩。しかも生後一週間だったわたしのファーストキスの相手だというのだから、年季も筋金も入りまくりという物だ。そんな父の事が決して嫌いではないわたしは、怒る気も失せてがっくりと肩を落とした。
日光を受けた噴水の水がきらめく中、きょろきょろと周囲を見渡すと、こちらに向かって片手を上げている人が目に入った。
茄子紺色のスーツに、白地に紺のピンストライプ入りのワイシャツと薄ピンクのネクタイ。電話で聞いていた特徴そのままの服装のその人は、予想していたほどくたびれた感じはない。
「おや。拾い主というのは、君だったのか」
父の言葉に、わたしの足が止まる。
「すみません、わざわざご足労いただきまして」
なんだ、知り合いなのか。そう思って眺めていたら、父が説明してくれた。
父の携帯電話を拾ってくれたのは、どうやら会社の取引先の人らしい。外で打ち合わせをして別れてから、父が携帯電話を忘れて行った事に気がつき、慌てて追いかけたけれど間に合わなかったのだとか。
父の勤務先に連絡を入れたもののまだ戻っておらず、当然本人にも連絡がつかない。そこで父の携帯電話にグループ登録されている中から、同じ名字で登録してあったわたしの携帯電話に連絡をくれたのだそうだ。その時に、待ち受け画面でわたしの顔を見られたという事だった。
会社に戻った父は、わたしからのメッセージを受け取って、携帯電話に連絡して来た。そして間にわたしが入ってこの待ち合わせが実現したのだけれど、ちょっとばかり引っ掛かる点がある。
渡された名刺をしげしげと眺めて、恩人さんの名前を確認した。仕事用だろうけれど、携帯電話の番号とメールアドレスも書いてある。こんな物を女子高生に渡してもいいのだろうか。
まあ、悪用する気はさらさらないけれど、と思いながら財布の中に入れておく。
「いやあ、本当に助かったよ。ゆっくりお礼を言いたいんだが、時間がなくて申し訳ない。後で、改めて連絡させてもらうよ」
簡単にお礼を言うだけ言って、父はそそくさと会社に戻って行った。どうやらこの後、来客の予定があるらしいのだ。勤務中なのだから、予定が入っていて当然なのだろう。
「もう、落とさないでよー」
駅に向かう背中に声をかけると、困ったような、お茶目な父の笑顔が返って来た。
父の姿が視界から消えても、隣に立つ父の携帯電話の拾い主である意味恩人でもある人が動く気配はなかった。わたしとしてもまだ少しだけ用があったから、くるりと体の向きを変える。
なぜだか知らないけれど、恩人さん兼父の取引先(父の勤務先の方が若干立場が上らしい)の担当者が、こちらをじっと見つめていた。あまりにじろじろ見るものだから、なんとも居心地が悪くて困る。
「ちょっと、お聞きしておきたいって言うか、確認しておきたい事があるんですけど。お時間、いただけませんか」
とはいえこのくらいで怯んでいては、いまどきの女子高生の名が廃るというものだ。
「移動するか」
彼が指し示したのは、すぐそばにあるファミリーレストラン。今の時間は、家族連れよりもカップルよりも、学生の友人同士らしき姿が目立つ。
こじんまりとした喫茶店などだったら躊躇したのかもしれないが、ファミレスならば、この人と二人でも気が楽だ。そう考えたわたしは、こっくりと頷いた。
作中の携帯電話は執筆当時の世情により、スマートフォンではなくガラケーと呼ばれる二つ折りのものです。