加持潤一は奪われる
加持にとって、恋というのは執着と常にセットであった。
中学時代付き合ったたった一人の加持の元カノは、その執着と独占欲の強さを最後には拒絶した。
加持自身も己の執着気質と嫉妬深さを自覚している。それでもなお加持の前で項垂れる元カノを見て当然だと思えるほどに凶暴さを伴うこの感情を、加持なりにコントロールしようと努力してきた。
そうして、進学を決めたこの地元から片道二時間かかる高校では恋などしないと決めた。
凶暴な心を抑える方法はついぞ見つけられなかったが、大前提としてそもそも誰かを好きにならねばよいのだ。
一年目はそれで事足りた。幸いにして加持は容姿は両親に感謝したいほどには整っている。甘い言葉と態度を取れば、すぐに女は心奪われた。
適当に相手をすれば一方的に盛り上がる女にこれまた適当に合わせて、帰宅にかかる時間を考慮して早めにさよなら。盛りに盛られる噂に反して笑えるほど清い付き合いをしてきた。
けれどもどんな美しい女とひとときを過ごしたとしても、加持の心踊るような瞬間はなかった。
まさかその凍りついた心を溶かしたのが、嫌いな生徒会長の双子の妹とは思いもよらなかったけれど。
*
クラス替えから三日。
テストも終え、浮き足立った教室に構わず学校は通常授業へとシフトチェンジしていた。
春の柔らかな日差しが教室内を満たす中、ただチョークが黒板に擦れる音ばかりが響く。
すらすらと淀みなく丁寧に書かれた数式。綺麗な字を書く子だな、と頬杖をつきつつ眺めた。
今思えば、この時からもう加持の心は囚われ始めていたのかもしれない。
「完璧ですね」
彼女の書き終えた数式を確認し、満足げに頷く数学教師に、安心したようにいつもの無表情が少しだけ和らぐ。
生徒会長の双子の妹なのだという吉野真知は見た目も性格もちっとも兄とは似ていない。
胡散臭い笑みを振りまく生徒会長を脳裏に思い浮かべ、……似てくれなくてよかったと心底加持は思った。
「真知、さすがだね!」
席につこうとする真知に、授業中だということを慮ってか小声で声がかかった。
「ありがとう。あずちゃんが予習一緒にやってくれたおかげ」
柔らかな微笑みを口元に湛えて、真知は梓に小さく手を振った。
春の麗らかな風が、桜の花びらを教室にひとひら、連れてきた。
それが図ったように窓際の真知の手の中へと届く。
その日、加持の心の片隅に吉野真知への好奇心が芽生えた。
「三本電車早めると、やっぱ早く着きすぎるな……」
なぜだか特に用もないのに早起きしてしまってそのまま登校を果たした加持は、教室に続く廊下で頭を掻いた。
朝もまだ早い時間の校内はグラウンドからの運動部の朝練の掛け声以外なにも聞こえず、静まり返っている。
暇だし古文の予習でもしておくか、と教室の扉を前にして中から漏れ聞こえてきた声に足を止めた。
「おはようございます。今日も美しいですね~可愛いですね~美味しそうですね~」
ひんやりとした無感動な声と対照的な内容。そして聞き覚えのある声。
まさかと扉の隙間から中を覗いてみれば、そこにはジョウロを手にした女生徒がこちらに背を向け立っていた。
日差しが当たる位置にと担任の手で置かれた苺の植木鉢がそこにあるのだと気づくのに、先ほど耳にした台詞の衝撃もあいまって数拍必要だった。
「吉野さん……?」
思わず震える声で呼んでしまえば、弾かれるように真知は振り返った。
「うぁっ、い、今の聞いて……!?いいいや、おはようございます加持くん……」
いつもの無表情はどこへやら、赤くなったり白くなったり目まぐるしい表情の変化を見せる真知に、加持はとうとう耐えきれず吹き出した。
「ふ……っ。苺に対して真面目くさって『おはようございます』ってなに!?それに美しいはともかく、美味しそうって……!しかも声音だけはいつも通りだし。なにこの上げて落とす感じ。吉野さん面白過ぎでしょ!腹痛い……っ」
突如その場に座り込むほど笑い出した加持に、吉野は憤慨と羞恥のためか赤い顔で反論する。
「植物に話しかけると元気になるって聞いたから!もうそんなに笑わないでください……」
「ってことは吉野さんにとっちゃ『美味しそう』って褒め言葉なんだ!?あーもうだめ……」
最終的に笑い過ぎて噎せ始めた加持に呆れと困惑を浮かべながらも、真知は持っていた水筒からお茶を注いで加持に差し出した。
ありがたくそれを受け取って麦茶を嚥下する加持を横目に、真知はぽつりとつぶやいた。
「加持くんも、そんなに笑うこともあるんですね」
「そりゃあ面白いことがあれば誰だって笑うよ。いや、それにしてもさっきのは傑作だった。アレ毎日やってるの?」
再び笑いの発作に襲われる加持をじとりと睨めつけながら「誰にも言わないでくださいよ」と真知は脅しをかけた。どうやら毎日やっているらしい。
こんな面白いものが見れたのだから、この早起きにも感謝しなくては。
「……私の名前、知ってるんですね」
さっき吉野さんって。とぼそぼそ言う真知に、加持はなにを言っているんだとばかり目をぱちぱちさせた。
「クラスメイトの名前だし。それに俺、吉野さんと話してみたかったんだ」
今度は真知が驚いたようにゆっくりと瞬きをした。
無防備な表情のまま加持を見上げる。
それに気づかず、加持はあの数学の授業の日を目前に思い描くように虚空を眺めた。
「すごくキレーな字書く人だなーって」
驚愕の色濃い声音にようやく気付いた加持が真知を見れば、真知は大きな目をこれ以上なく丸くしていた。
「それだけ?」
「充分じゃない?」
「そっか……」と床に座り込む加持に合わせ、隣で体育座りをしていた真知がもっと小さくなるようにきゅっと身体を縮こませた。
「『ミチの妹』じゃないんだね……」
空気に溶けていきそうな囁きに、踏み込んではいけないと肌で察した加持はそっと真知の頭を撫でた。
思いっきり顔を歪めて、俺の前でだけ泣いてしまえばいいのに。そんな凶暴な感情が頭をもたげたときだった。手遅れだと知ったのは。
「欲しいなあ」
未だ青い苺をぶちりと毟り取ると、真知は咎めるような視線を送ってきた。
「加持く……」
目の前でぐちゃりと潰された苺を見て、真知は呆然と加持を見上げた。
「汚いから手洗ってくるね」
にこりと真知の兄を意識して爽やかな笑顔を向ければ、真知が一瞬動きを止めた。
真知の恐怖の表情はぞくぞくするほど快いけれど、その時だけはつまらないと加持は自分勝手にも思うのだった。