吉野真知は逃げ出したい
「潤ちゃん、こわい」
小さな肩が眼前で震える。それをさも、俺は当然のように見下ろしている。
場面が切り替わった。
「お前はおかしいよ」
距離を置くべきだ。そう忠告する親友から視線を外し、背後にちらりと目をやる。彼女は俺の親友の陰に隠れて蒼白な顔色になっていた。目も合わせたくないらしい。
もう無理なのか。ひんやりとその言葉だけが胸に落ちた。
*
「……ってことが中学時代あったんだけど。吉野さんはどう思う?」
「はあ…………。重いなって」
それくらい。
普段の無表情を少々引き攣らせながら、(強制的に)弁当を一緒に食べる少女は答えた。
少女の名を吉野真知という。
青白いといえるほど白い肌、肩甲骨あたりにまで伸ばされた黒髪はさらさらとした手触りで、加持はよく気に入っている。
無表情(加持から言わせれば、よくよく観察すればむしろ彼女は表情豊かだ)で物静かゆえに一年生の頃から友達は少ないことを加持はまた知っていた。
その数少ない友人が、加持の不躾な眼差しに、なにも言わず真知を加持から見えないように身体の位置を移動させた。
「真知のこと、舐めるように見るのやめてもらえますー?」
冷めた視線をひたりと加持の上で固定したのは紫藤梓。
脱色して薄い髪色は肩につかないところで切り揃えられていて、化粧っけゼロの真知とは違いメイクもちゃんとしてきているまさに今時の女子高生だ。
今は座っているから分からないが、中学時代はバレー部主将を務めていただけあって立ち上がると170は軽くあるはずだった。小柄な真知と並ぶとその背の高さは顕著になる。
このナリで実は小物作りや手芸が大好きで、手芸部で真知と出会ったという。
「別にそんなことはないよ。気を悪くさせたならごめんね?」
「あ……いや、その、私は大丈夫だから……ありがとう、あずちゃん」
「真知がいいならいいけど」
気遣うように見上げる真知の頭を、梓は髪がぐちゃぐちゃになるのも構わずぐりぐりと撫で回した。真知はその勢いになすがままになっている。
犬みたい。小型犬?コンビニおにぎりを咀嚼しながら加持は内心つぶやく。
この面子で教室の机を三つくっつけて食べる光景は初めはクラスメイトには奇異に映ったようだったが、梅雨も明けた今となっては見慣れたように無関心だ。
その時、がらりと教室の扉が開いた。
「マチ!電子辞書貸してくれ」
平和な昼休み、突如現れたその人物に教室の視線は集中した。
彼は恐らくこの高校で最も有名な男である。
そして加持の最も苦手な男でもあった。
大股でこちらに歩いてくる男の登場にやや呆然としていた真知だったが、すぐそばまで来た時には慌ててロッカーからスクールバッグを取り出して漁り始めていた。
「倫さんこんにちはー」
手を振る梓に倫は爽やかに手を振り返す。
そして隣にいる加持にもやはり同じ噎せ返るほどの爽やかな笑みを向ける。
「やあ加持。まだマチにご執心のようだね?いつになったら離れてくれるかな」
後半の棘に気づかなかったふりをして、「ども」と最低限の挨拶を交わす。
「ミチ、ちょっと待ってね」
「ん。いーよ」
加持に向けられていた爽やかすぎて偽物くさい笑みとは打って変わって甘い返事である。
ところが焦っている時ほど探し物は見つからないものらしい。
見兼ねて加持は机の中を指差した。
「四限英語だったからその時使ったんじゃないかな」
「あっ」
加持の言葉通り、机の中に手を突っ込んだ真知はお目当ての電子辞書を発見したらしい。
「はいミチ。……加持くん、ありがとう」
控えめに言添えられた感謝の言葉に、加持は背筋がぞくぞくするのを感じる。
それを察したわけではあるまいが、倫はつまらなさそうに電子辞書を片手に真知の髪をするりと掬う。
「マチ」
真知の注意を引くかのように甘く蠱惑的な声音。他の女子生徒がやられたなら腰砕けになりそうだ。実際聞き耳を立てていたクラスメイトの女子の何人かが「ひゃー!」「私もあんな風に甘く誘われたい……っ!」と奇声を上げている。
加持はといえば、このねだるような声音が大嫌いだった。なぜかといえば真知はこの声が耳に入った途端、他の一切を捨てて倫に心を傾けてしまうから。
唯一の救いは真知がこの声に心とろけることがないということ。その一点だった。
「暑苦しいから早く行って。……生徒会の集まり、抜けてきたんでしょう?」
「ああ、そういえばそうだった」
ああ、もなにもこの頭脳明晰な男が忘れるわけもない。加持は肩肘をついて半眼になったが、真知はそうは思わなかったらしく「もう、すぐ忘れちゃうんだから」と細い眉を困ったように寄せていた。
「それじゃあ行くとするかな。マチ、電子辞書ありがとな。紫藤さん、せっかくのお昼休みを邪魔してしまってすまない」
綺麗に加持を無視したまま、来た時と同様嵐のような慌ただしさで倫は教室を出て行った。ファンの女子生徒の叫びを背後に浴びながら。
△
「倫さんと真知って双子なのに全然似てないよねえ」
「まあ私たち二卵性だからね」
地味で目立たない真知と比べ、昔から率先して学級委員を引き受け、教師からの信頼も厚かった。高校入学からは一年生で生徒会副会長を務め、二年生の現在では生徒会長の座に就ている。
明るく誰隔てなく接し、いつも周りに誰かいる。生徒会業務と塾通いが忙しく部活には所属していないものの、文武両道で顔も整っているときた。
真知にとって自慢の兄であり、自分にないものをたくさん手にしている兄は劣等感という形で心に深く刺さる杭のような存在でもあった。
数少ない似ている点といえば、幸い真知も勉強はできたということ。
だから倫と同じ県下でも名高いこの進学校に入学できた。
同じ年代の男の子と比べて、目は大きめかもしれないと加持の切れ長の目を見ながら真知は考える。
癖毛なのかパーマなのか真知には判別つかないものの、加持は緩く波打った髪は亜麻色をしている。長すぎず、かといって短すぎない髪は触ったら柔らかそうだった。
女の子に人気があるだけあって端整なつくりの顔は、あまり他人に興味のない真知でさえお世辞でなく整っていると思う。
一年生の頃からその嘘か本当か華やかな性生活は他クラスの真知の耳にも入っていて、進級して同じクラスになった時驚いた。
しかし、まさかこの派手なクラスメイトが地味な自分に目をつけてちょっかいを出してくるとは予想もしていなかった。
最近は手芸部の部室にまで出没したりする。
初めは物珍しいのだろうと放っておいたが、一向に飽きる気配がない。真知は無表情ながらほとほと困り果てていたが、なんのかんの彼のペースに乗せられているような気もする。流されやすい自覚はある。
それにしても、とデザートなのだという二個目のプリンを口に運ぶ加持を盗み見る。
先ほどの元カノの話を聞くに、どうも自分は大層厄介な物件に好かれてしまったらしい。
それをこそこそと梓に相談すれば、「アレ、今頃?」とあっけらかんとした返答があった。
そんなものなんだろうか。
柔和な顔立ちをもう一度じっと見た。綺麗ではあるものの、決して女性的ではない。
「そんなに見られると食べづらいなあ。なんかついてる?」
スプーンを置いて顔をぺたぺた触る加持に、真知は慌ててぶるぶると首を振った。
他人に依存されることほど怖いことはないと思う。裏を返せば、自分が一人でなにも出来なくなるほど溺れるように他人に依存するのが怖いのだ。
早く飽きてくれないかな。心の中でため息をついた。
翌日、早めに登校する真知とは対照的にチャイムぎりぎりに教室に駆け込んで来た加持を見て真知は目をぱちくりさせた。
緩く軟派でいい加減に見える加持であるが、時間はきっちり守るタイプなのだ。
いつもより遅い登校に加持の席の隣の女の子も驚いたらしい。「珍しいねー」などと話しかけている。
曖昧な笑みではぐらかす加持を見て、改めて女の子の扱いに慣れているななどと真知はぼんやり考える。あしらいが上手い。
つれない加持の態度にも、ケバいと言ってしまえそうなほど化粧の濃い佐藤さんはめげない。普段はなんの気まぐれか真知にべったりな加持と話せる数少ない機会なのだ。
「あれぇ〜?そんなぬいぐるみ、昨日つけてたっけ?」
彼女の指差す先を見ればなるほど、加持の少々くたびれたスクールバッグに可愛らしい黒いトイプードルのキーホルダーが下がっている。嵌められた赤い首輪がどうしてか真知は目についた。
男子高校生がつけるにしては、キャラものでもないので相当乙女チックである。
それを許される加持の顔面偏差値の高さに、純粋に真知は感嘆した。
「これ?あ〜昨日の帰り、なんとなく目について買っちゃってさー。可愛い?」
「可愛い可愛い!」
いつもはどこか近寄り難ささえ感じる涼やかな目元とかけ離れた、にやりと悪戯っ子のような笑みを向けられて、佐藤さんはすっかり舞い上がってしまって大きな声で同意していた。
その赤く染まった頬を見て、人の会話を盗み聞きしている罪悪感に駆られ、視線を力づくでも逸らそうとした時だった。
ぱちりと目が合う。
佐藤さんの背中越しに交わったこの視線に、冷たい手でぎゅっと心臓を掴まれた気がした。
決して加持が特別怖い顔をしていたとか、そんなわけではない。それなのに真知の背に一筋冷や汗が伝った。
真知と目を合わせたまま加持はくすりと笑んだ。
「でもあげないよ。誰にもあげない」
トイプードルの赤い首輪が目に眩しい。
真知はこのまま失神してしまいたいと思った。