4 萩センパイ
2話から数年後
また、あのおばさんだ。
いつも思うんだけど、どこかで見たことのある顔(うー、思い出せない。中学受験が終わったら、劣等生になった自分)。お母さんより年上だと思うから40代後半?
帰りにキョウ君の家の前を通ると、たまに見かけるおばさん。インターフォン越しに何かを言って、郵便受けに大きな封筒を入れて帰っていく。
電柱の陰からその様子を見ている私の方がよっぽど怪しいのかも、だけど。キョウくんは、最近、放課後はサッカースクールのバスに乗って、遠くの強豪クラブユースチームの練習に参加している。スカウトの話も出ているらしく、そこに関西方面のクラブからも偵察に来てるらしい、って学校の噂になっていた。
そう、キョウ君は、我が中学の星なのだ。祝U-15サッカー日本代表、とか垂れ幕でキョウ君の名前を毎日見られて私は鼻高々。
だけど、遠征とかで、会えない日々が続いて、しかも、私のクラスだけ、離れたプレハブ校舎とは。移動教室で、向こうの校舎から理科棟に友達とジャレながら行くキョウ君の姿を双眼鏡で見る位。
中学では私は学校中が認めるキョウ君のストーカー(迷惑はかけない主義)だから、小学校の頃のいじめが嘘みたいに、周りに引かれてる位でとくに危害を加えられることはなくなった。
私は知ってるんだ、風の噂で、キョウくんが言ってくれたらしいことを。
「あいつ、遠い親戚。面白い奴ってことで、頼むわ」
小学生のころ、塾でいじめがひどかった時、転校生のキョウ君があちこちでそう言ってくれたおかげで、今では尾ひれがついて、キョウ君のハトコということになっている。実際は親戚でもなんでもないただのご近所さんだけどさ。
噂に敏感なお母さんは、
「あんた、勝手にあのサッカー少年の親戚名乗ってるんだって?よく一人で応援に行ってるとは思ってたけど、引っ込み事案のくせに、意外に恋愛はラテン系なのね」
さすが私の娘って喜んでいたけどね。ホント、うちのお母さんは勉強しろとも言わないし。そう言えば、もうすぐテストだな、テストと言えばどこかで・・・
「あっ、どっかの塾のおばさん」
と私は声に出していた。
おばさんは、クルッと振り向いて言った。
「お嬢さん、今、何ておっしゃった?」
知らない人には近づいてはいけません、っておじいちゃんからも学校からも口を酸っぱくするほど言われているのに、私はつい返していた。
「すいません、知らない人には答えられないんで」
「おばさん、って呼んだでしょ?」
「は、はい、すみません」
「もうおばさん年代なのは諦めてるけど、「おばさん」って一括りにされると、悲しくなるのよね。花火大会的名前があるのに」
私は思わずブッと吹き出していた。
「?」
「墨田珠乃、ま、親が風物詩としてつけた名前だから、珠やんって呼ばれるのは引き受けるけどね」
「?」
「花火の掛け声あるでしょ?「たーまやー」から来てるのよ」
隅田川花火大会のこと、って言われても・・・。なんかこの人、リアクションに困る。
「塾の先生?」
と私は本題に入った。そう、全国模試の後とかで、校門の近くで塾案内のチラシを配っている人で、一人でやってるからなんか覚えていた。私も周りの子たちも大手予備校系列に入っていて、その人の個人塾に行ってる人は誰もいなかった。
「うちの塾知ってる?隣町の。あなた、そこの中学の生徒さん?」
はい、と私は答えた。
「じゃぁ、うちの生徒いないかー。そうだ、萩・・・じゃなくて、室町キョウ君知ってるかしら?」
キョウ君の名前を聞くと、私はいつだってドキドキしてしまう。はい、と私は目を輝かせた。そこのお家の!私も近所で同級生、中2です!!と胸を熱くしていた。
「私が最後にお会いしたのは、まだ赤ちゃんの頃だから、もうきっと青年へと成長してるんでしょうね」
「うん!身長が180cm位あって、やせ形だけど筋肉質で、高速FWで技術もすごくって、いつかワールドカップとかオリンピックに出る位の選手なんですよ」
サッカーで超忙しいのに頭も良くって学年で5番以内にいつも入ってて、外国語も習ってるし、イケメンでクールで格好良くて、ファンクラブがネット上に4つもあるんですから、と私はキョウ君自慢をダラダラと続けた。
「そう、きっとお母さん似なのね」
そう言うと、墨田さんは眩しいような一瞬悲しいような顔をした。
「私を、珠乃って、ちゃんと呼んでくれたのはセンパイだけだったわ」
・・・・・*
「チョコちょうだい」
と、上がりの時間だからレジで勘定をしようと数えていたら、上から高い声がした。今日は客が少ないから定時に上がって、早めに宿題できそうかなと思っていたのに。
私は大学生が嫌いだ。馬鹿みたいに親の金で人生を探す振りをして、現実から目を背けて楽園に数年生きているお気楽な連中ばっかり。特に、学生の多くが上流階級かよってこの学校の恵まれた嬢ちゃん坊ちゃんを見ると吐き気がする。高卒の資格が、のどから手が出るほど欲しくて、夜学に行ってる私から見たら、こいつら皆クタバレって思いながら、家の近所の大学の学食のとなりの売店でバイトしてるのが間違いだったのかな。
たまに、この後暇?って声かけてくる学生がいて、拒否がわりに顔を振っていたら、後でゴミ捨てに裏に行くとき耳にした笑い声。
「デブないし。負けてラッキー」
賭けとかあるんだな。軽い男ばっかで、もともとアル中の母親と二人暮らしでうんざりしていたのにさらに人間嫌いになった。
睨みながら上を向くと、「怖いよ、珠乃」と苦笑しながら財布を持っていた長身のソバージュカットが目に入る。
「あ、ごめんなさい、センパイとは気づかずに」
「先生に向かって失礼、って嘘うそ。はい、286円」
暗算でも、一円の誤差がないのはさすがだ。クールに向こうに行く姿は、女同士でも頬を染めてしまうくらいに格好いい。
センパイは、政経学部に主席で入り、某歴史マンガのキャラクターに似てるとかで、男装の麗人(もしくはオスカル様)、と影で呼ばれていた。いつもジーンズ姿でさっそうとキャンパスを歩く姿は、カリスマだけど意外と気さくで、教授方にも、学食のおばちゃん達にも好かれる、人気者だ。
サークルをいくつも作って、まさかその一つに私も誘われるとは思わなかったけど。
「静かに」
と呼ばれている名のないそのサークルは、教員試験や公認会計士など目指して勉強したい人たちが、黙々と自習する、という不思議な集まりだった。学食の片隅で、毎日2時間程度、集中して勉強している人たちの中に、リーダーのように皆に教えている人がいることに気づいた。異次元の人、それがセンパイの第一印象。
ゼミかな、とバイト帰りに横目で見ながら、学内の図書館に寄り(一般人でも利用できたのだ)、疲れて眠い目をこすりながら、夜学の時間までウトウトしながら勉強していた私は、ある日、トントンと肩をたたかれた。
「二次関数?」
数学が特に苦手で、グラフが頭に浮かばない私は、一年生で早くも高校数学に挫折しそうになっていた。ノートによだれを垂らしながら寝ていた私は、は、はいっ、と言いながら飛び起きた。
ここ図書館だよ、と周りを気にしながらささやいたその人は、あの学食の人だった。確か、
「萩センパイ?」
ってみんなが呼んでいたな、って思い出した私は寝ぼけながら口にしていた。
時間じゃないの?って言われて、あわててトートバックに荷物を詰めて、図書館を出ようとした時、
「売店のバイトの後、寄りなよ、学食。あたし、空間系の数学好きなんだ」
そう涼やかな高い声が後ろからした。
『教えることは自分で学ぶよりも勉強になる』
ということを最初に教えてくれたのは萩センパイだった。そうして、場違いな苦学生の面倒を、無事に高卒資格を取るまで見てくれた。
「センパイはどうして、私に声をかけてくれたんですか?」
って、大学の卒業式の打ち上げに行くセンパイに皆で花束を渡すとき、聞いたことが、私の一生を決めた。
あたし、丸いもの好きなんだー、円グラフも、ぽっちゃりしてる子も、コアラみたいで可愛いいじゃん。と冗談まじりに。
「あんた、同級生たちが女子高生してる時に、大人にこき使われても、歯を食いしばって、チョコも、他のもいっぱい品出ししてるの見てるからね」
だって、あたしも苦学生だったからさ。親お金ないし、奨学金出してもらってありがたいけど、これから自分で返していくんだよ、ってセンパイはウインクした。
「苦労にね、降参して、諦めたら勿体ないよ。だって、苦労はね、あんたを磨き上げる材料になる。真ん丸のキレイな宝石みたいに。きっと、人の気持ちを推し測れる、数少ない大人になれるよ」
あたし、あんたの先生で楽しかったー、あんたみたいにさ、一生懸命働くよ。世のため人のため、お返しできるように、立派な公務員になるからね。
そう言って意外と似合わない袴姿で先輩は、飄々と会場に向かって行った。
・・・・・・*
今はもう、遠い昔の話。
でも、私に言ったじゃないですか。だから、センパイ、私も諦めませんからね。
あなたは、あなたにふさわしい場所で、颯爽と輝くべき人なんですから。