light
眩しい光を見ていたかった。光の傍にありたかった。ただ、それだけのことが、難しかった。
離れていく光を追いかけて、追いかけて。疲れ果てて倒れ込んだ。動けなくなって、その光がいつか自分を振り返ってくれることを望んだ。
追いかけることが叶わないから、いつまでも、待っていようと思った。
◇ ◆ ◇
「おはよっ、灯李」
平日の朝、出勤途中のサラリーマンによるラッシュとは逆方面の電車のホームには、制服を着た学生が多く目につく。そんな中、ホームの隅で本を読んでいた灯李は、肩を叩かれて顔を上げた。
そこにいるのは灯李と同じ高校のセーラー服を着た、幼い頃からよく見知った顔だ。同じ制服とはいっても、おしゃれに興味がないわけではないけれど、怒られることを危惧している灯李のスカート丈は膝よりも少し上なくらい。それに対して、イマドキの女子高生である彼女のスカートは、学校の教師に目を付けられないギリギリの長さまであげられていて、一見したところの印象は随分と違う。
毎朝、十分から二十分はかけて丁寧巻いているという、緩くウエーブのかかった長い髪。長い睫毛と、二重なことも相まって、何もしなくてもとても大きく見える目。きれいにグロスが塗られた唇の間からは、歯列矯正の金具が見え隠れしていて、本人としてはそれがとても不本意らしく、これまたことある毎に不満を漏らしている。
「あ、おはよ。って由依、どうしたの? 顔真っ赤だよ」
軽やかにかけられた声とは反対に、由依の息は荒く、顔は赤く上気している。夏休みが終わって、文化祭を始めとして、球技大会や修学旅行など、何かと行事が多い二学期が始まったばかりの今の季節は、まだ残暑が厳しくはあるけれど、真夏のように、何かしていないとしても耐えられない、というほどではなくなっている。
「いや、ちょっと父親に怒鳴られて急いで出てきたからさー」
この季節でも走るとすごい暑いもんだね、と由依はパタパタと手で顔を扇ぎながら、うんざりといった様子で苦笑する。
「お父さんに? 珍しいね」
丁度やってきた電車に乗ると、車内の冷えた空気に、うっすらとかいていた汗が一気に冷やされる。それが心地よいと同時に、一瞬寒気を覚え、灯李は少しだけ体をすくめた。隣では由依が「生き返るー」と自分を仰いでいた手を止めていた。
「そうなの! いつもはとっくに家出てるかぐーすか寝てるかなのに、何でか今日は起きててさ。でも仕事行かないし。で、朝ご飯にゼリー食べてたら、もっとちゃんと食べろとか怒られたのよ。わけわかんないでしょ。そんなことでいちいち怒るなっての」
「あぁ、こう暑いと食欲も失せるもんね。特に朝とか」
軽く同意をすると、由依は我が意を得たりとばかりに頷く。
「そうそう。それに、昨日の夜食べ過ぎちゃったから、今日は食べる量減らさないとね」
「由依は体重なんて気にする必要ないのに」
「あまいっ。そういう気の緩みが太る原因なんだよっ」
そんな話をしているうちに、電車は幾つかの駅を通り過ぎて、途中の駅で乗ってきた、灯李たちと同じ制服を着た女子が何人か、由依の周りに集まっていた。
明るく、誰とでも簡単に打ち解ける由依は、いつでも自然と人の輪の中心になっている。
それは幼い頃から由依とずっと一緒にいた灯李にとって、誇らしいものだった。
その日のホームルームは、一ヶ月後に迫ってきた文化祭のクラスの出し物を決めることだった。
「何か希望がある人は言って下さい」
男子のクラス委員である幸坂のやる気のない声に、クラス内の囁き声が大きくなる。近くの席で話し合うもの、離れているのに、声を大きくして仲のいい友達の意見を聞く者。
遊び半分の提案や、真面目すぎてクラスメイトに受け入れてもらえないもの、できるのなら面白そうだけれど実際にはまず不可能だろうと思われるもの、そういった意見が、教室の中を飛び交う。その中から、実際にできそうなものだけを、女子クラス委員の御森が黒板に丁寧な字で書き出す。
「灯李、何かやりたいのある?」
由依が、灯李を振り返って聞いた。教室での灯李の位置は、廊下側から数えて二列目の一番後ろの席。由依は一番廊下側の後ろから二番目、灯李の右斜め前の席だ。
「んー、定番だと喫茶店、お化け屋敷、縁日とかだよね。由依は?」
灯李がそう言うと、教壇からは離れている上に、そんなに大きな声で言ったわけでもないのに、御森はそれを耳聡く聞きつけたのか、黒板に「喫茶店」「お化け屋敷」「縁日」という文字が追加された。
「あたし? あたしは……お化け屋敷とかやってみたいかな。あー、でもなぁ、なにがいいかな……?」
言って、由依は灯李の意見を促す。
「喫茶店とか、大変そうだけど面白そうじゃない?」
灯李が言うと、楽しそうだよね、と由依が同意した。
「ウエイトレスとか、ちょっとやってみたいよね」
どうしよっか? とそこで由依が周りにも意見を聞いて、由依と灯李の席の周りが一際賑やかになる。
暫くすると、相談するのにも飽きてきたクラスメイトたちが静かになってきたところで、幸坂が話を進める。
「もう案は出きったみたいだから、黒板に書いてあるものの中から決めていいですね?」
その時点で黒板に書かれた案は十個程度。同意する声こそまばらだけれど、クラス委員の二人をはじめとして、クラス全体にそこまでのやる気があるわけでもないので、反対の声が上がるわけもない。
「じゃあ多数決取ります。とりあえず、一人二回ずつ手を上げて下さい」
そう言うと、友達と相談する間も与えず、幸坂は黒板に書かれた提案を右から読み上げていく。
それに教室中から焦った声と不満が飛ぶ。けれど、幸坂と御森はそんな様子は気にも留めず、パラパラまばらにと挙がった手を数えている。
「え、ちょっ……。灯李、どうする? とりあえずは二回だから、お化け屋敷と喫茶店でいいよね?」
由依も焦った様子で灯李に聞いてきた。
「あ、うん。私はいいよ」
と言っている間に、お化け屋敷と喫茶店が読み上げられて、灯李と由依は焦って手を挙げた。
「で、多分一回で決めちゃったりはしないと思うんだけど、実際、どっちにする?」
由依が言った数秒後に、黒板の一番左に書かれていた提案が読まれたが、誰も手を上げずに、御森が約十個あった選択肢を、半分以下の四個に減らした。
「さくらはなにやりたいの?」
灯李の左隣にいる美紗が由依に聞いた。さくらというのは、由依の名字である「桜那」からきたニックネームだ。
ストレートの髪をポニーテールにしている美紗は、クラスの中心的存在だ。例えるなら、美紗はクラスのリーダー。周りの友達の上に立って、自分の中の規律を守らせる。対して、同じクラスの中心でも、由依はクラスのアイドル的存在で、由依自身は自分が周りと同じ位置にいると思っているが、自然と周りが由依に付いていっているのだ。
「え、またあたし? やっぱお化け屋敷かな――でも、喫茶店も楽しそうだしな……」
近くの友達の意見はお化け屋敷と喫茶店で、半々といった具合だ。
「わたしは、喫茶店やりたいかな……」
灯李がそう言うと、悩んでいるようだった由依も「じゃあ、あたしも喫茶店にする」と、あっさり決めてしまった。灯李が本当にいいのか聞くと、由依からの返答は「いいのいいの」と軽いものだった。
どちらにせよ、それによってほかにも何人か、やっぱり喫茶店をやろうという人が出てきた。
由依の人気がすごいのか、それをやりたかった人が実際に多かったのかはわからないけれど、結局、文化祭の出し物は、圧倒的多数の票を集めた喫茶店に決まった。
それと同時に、実行委員も何人か選ばれた。提案者ということで灯李が指名され、それに由依や美紗を含めた四人が加わった、計五人で喫茶店を仕切ることになった。
――ピロロロロッ。
夜、自分の部屋のベッドの上で漫画を読んでいると、携帯電話が鳴った。由依は漫画を脇に置いて、今、携帯に届いたばかりのメールを開いた。
《From 美紗
To 恵里香・雛乃・由依
題名 無題
なんかさー、最近思うんだけどさくらって、いい子ぶってる感じしない?》
(えっ……?)
いつも一斉送信しているメンバーから、由依の名前を抜かすのを忘れたのだろう。由依はそこに書いてある文章の意味を取りあぐねて、由依はその場に固まった。すると、またすぐにメールの受信を知らせる為に、立て続けに携帯が鳴る。
《From 雛乃
To 美紗・恵里香・由依
題名 Re:
わかるかも。クラスでも人気あるけど、八方美人って感じする》
《From 恵里香
To 美紗・雛乃・由依
題名 Re:
そうかな?
あぁ、そうかもしんない!》
急に、息が苦しくなった。続いて届いたメールを読むのが怖かったのに、指は誘惑に負けてメールを開く。
《From 美紗
To 恵里香・雛乃・由依
題名 Re:
ってか、今日のHRでもそうだったけど、さくらって、自分の意見主張しないよね》
そんなことない! 叫びそうになって、思い留まる。返信するべきか、しない方がいいのか。迷っているうちにもメールは届き、由依はそれを読むのに夢中になった。
《From 恵里香
To 美紗・雛乃・由依
題名 Re:
自分の意見言ってもすぐ変えるし、いっつも誰かに意見聞いてるし。「私はみんなの意見を尊重する優等生ですよ」って言いたいのかな?》
心臓が狂ってしまったのではないかと錯覚するほど、鼓動が速くなって、その音が頭の中に鳴り響く。
《From 雛乃
To 美紗・恵里香・由依
題名 Re:
意見聞くのは、特にあかりとかね》
《From 恵里香
To 美紗・雛乃・由依
題名 Re:
だねー。あの二人ってあかりがさくらについていってるように見えるけど、よく見ると逆じゃない?》
――あたしが灯李の下にいる? そんなこと、あるわけない。
それ以前に、自分と灯李の関係をそういうふうに見ている人がいるということが、信じられなかった。
《From 美紗
To 恵里香・雛乃・由依
題名 Re:
あかりが影の支配者みたいな?(笑)おとなしい顔して、あかりもやるねー》
そこまで読んで、由依は携帯を部屋の向こう側に投げつけた。
恐怖とも怒りとも、焦りともつかない感情に混乱して、震える体を縮めて布団に包まった。
最近、由依の態度がおかしい。
出し物が決まった翌日から、文化祭の準備が本格的に始まり、灯李は毎日放課後に残って作業をしていた。勿論、由依や、ほかの実行委員も一緒に。
「そしたら、教室の装飾はこんな感じで、机はこういう形で置くんでいい?」
一緒に机を囲んでいる四人に確認するようにしながら、灯李は由依の様子を窺う。
「いいんじゃない」
そう返してきたのは、頬杖をついて、ぼぉっとしている由依で、その返答は、まるで、自分には関係ない、とでも言いたいように聞こえるほど、素っ気ない。或いは、本当は不満だけれど実行委員長がそうしたいって言うなら仕方がない、というように。
本当に? そう、聞き返してしまいそうになるのを堪えて、灯李は話を進めた。由依の様子がおかしくなり始めた頃、あまりに積極的でない返事に、不安になった灯李が何度も確認していたら、由依が怒って出て行ってしまったことがあるからだ。
(私、由依に何かしちゃった……?)
由依の様子がおかしくなってきたのは、出し物を決めた次の日からだった。
最初は、話していて反応が鈍かったり、どこか上の空といった様子だった。それでも、話かければちゃんと返してくれたので、それほど気にしてもいなかった。
けれど、それは日を追うごとに顕著になった。行きは寝坊したと言って、一緒に登校しなくなったし、帰りは何かと理由をつけては、灯李と一緒に下校するのを避けるようになった。教室でも、由依が灯李に話を振ってくることはなくなって、灯李は、なんとなく自分がグループの中で浮いていると感じるようになった。
由依を慕ってこそいたけれど、灯李は今まで、自分のことをごく普通の女の子だと思っていた。けれど、どうだろう。由依と少し距離があいただけで、こんなにも疎外感を感じる。一緒にいることを拒絶されたわけでもないのに、自分が孤独であるかのように思う。もしかしたら、自覚していなかっただけで、自分は今まで、思っていたよりも遥かに、人間関係において、由依に依存していたのだろうか。
誰かに相談したいと思っても、悩んでいるのは、いつもなら灯李の相談に乗ってくれる由依のことだ。それなのに由依に尋ねることなんて、できるはずがない。そもそも、灯李と距離を置いてしまっている由依が、灯李の話を聞いてくれるとも思えなかった。
由依が、灯李がした何かについて怒っているのなら謝りたい。そう思っても、自分が何をしでかしてしまったのかがわからないのでは、謝りようがなかった。
(どうすればいいの……?)
幼い頃からずっと一緒にいた由依と、距離が開いたままになるのは嫌だった。だからといって、灯李にはその解決策も、どうしてこうなってしまったのかも、全く見当がつかなかった。
ある日の帰り道。由依は灯李を避けるようになってから、由依は美紗たちと登下校するようになった。
「さくら、灯李と何かあったの?」
ずっと気になっていたのだろう。全く関係のない話題の途中で、雛乃が唐突に切り出した。その内容に、何かを言おうとしていた恵里香が口を噤んだ。雛乃が由依に尋ねたことは、一緒に帰っている全員が知りたいと思っていたことだったのだろう。
「……別に。何にもないよ」
灯李の話が出て、由依は急に不機嫌になった。
「何にもないなら、なんで灯李にあんな態度取るのよ」
「あんな態度って? あたしはいつも通りだよ」
雛乃のあとに続いた恵里香の言葉が、自分を攻めているように聞こえて、由依はつっけんどんに言い、恵里香を睨んだ。
「いつも通りじゃないでしょ。絶対なんか変だよ。やけに灯李に冷たいし、目を合わそうともしてないでしょ」
「いつも通りって言ってるでしょ! あたしがいつも通りって言ってるんだから、いつも通りなの! それとも何?いつも通りじゃ悪いっていうの?」
恵里香の言葉が事実だったからこそ、由依はムキになってその事実を否定した。
由依自身、今の状況に戸惑っていた。別に、灯李が嫌いになったわけではない。ただ、この間のメールに書いてあったことに、どう対応すれば良いのか判らなかった。この三人は、きっとあのメールを由依にも送ってしまったことに気が付いていないのだろう。自分の知らないところで、美紗や恵里香、雛乃が、ほかの友達が、「優等生のいい子ぶっている」ように見える自分から離れていってしまうのではないか。そう思うと怖かったし、自分が灯李に従っていると、八方美人だと思われていることに怒りが湧いた。そんなふうに見えると言った美紗たちに対しては勿論、そう見える行動をとっていることに、全く気が付かなかった自分に対しても。
自分の意見を押し通して、灯李に嫌われることが怖かった。けれど、そのために自分が不本意な認識をされるのは耐えられない。そう思った結果が、これだった。灯李に従っていると思わせない為に、灯李と距離を置いた。優等生ぶっているわけではないと示す為に、いろんなことに投げやりになった。自分の意見だって押し通す。気に入らなければ拒絶する。
それ以外、どうすれば良いか判らなかった。けれど、由依はそれが良い方法だとも思えなかった。
とはいえ、こうなった原因である三人は、そのことを知らないのだし、本当は恵里香が自分を避難しているわけではないことは、由依にも解っていた。それでも、自分の出した答えを否定されたようで、怖くなったのだ。
「そ、そんなこと言ってないでしょ」
焦って否定する恵里香を美紗が庇う。
「そうだよ。それじゃ、八つ当たりみたいだよ」
そんなこと解ってる。由依は喉まで出かかった言葉を必死に飲み込んだ。ここで美紗たちに当たったところで、何の解決にもならない。
「ごめん、そういえば、あたし今日は早く帰んなきゃ行けないんだった。先行くね」
それでも、このままこの三人と一緒にいると、耐えられなくなりそうで、由依はそう言って走って三人から離れた。
「さくら、どうしたのかな?」
走り去っていく由依を見て、雛乃が心配そうに呟いた。垂れ目気味で温厚そうな顔立ちをした雛乃は、性格も温厚で心配性だ。
雛乃と同じように、由依の後ろ姿を呆然と眺めていた美紗は、由依の異変の理由がなんとなく見当はついていた。勿論、そのことは誰にも言っていないし、そんな素振りも見せていなかったが。
「何にもないって言ってたけど、やっぱり灯李と何か揉めたんじゃないの」
言って、美紗は心の中で「冗談だけどね」と付け足した。
由依の様子がおかしくなった理由は、恐らく数日前の自分達のメールだろう。いつもの調子で、間違えて由依にもメールを送ってしまっていたことは途中で気付いたが、謝ったり、取り成したりするのは面倒だったので、無視することにしたのだ。
「そうかなぁ」
首を傾げつつも、ほかに理由が思い浮かばなかったのだろう、恵里香は深く考えるのをやめたようだった。運動好きで屋外を駆け回っているために日に焼けている恵里香は、頭でごちゃごちゃ考えることが苦手で、性格もさばさばしている。
「そうだよ。灯李が由依の気に入らないことでも言ったんでしょ。そういえば、前に灯李が愚痴ってるの聞いたことあるし」
「うそぉ!?」
後半の言葉は、勿論全くの嘘だったが、驚きながらも、美紗の言うことを疑う二人ではなかった。由依がどんな考えで、灯李を突き放すことにしたのかはわからない。けれど、本やマンガの中のように、周りの人間や自分達の思い込みから、擦れ違っていく二人がどんな関係に至るのか、美紗は興味があった。
「えっと、ほかに今日決めなきゃいけないことは……」
戸惑ったように、話し合いを進める声。
その声を、由依はテレビやラジオの音声のような感覚で聞いていた。現実は、今の由依には関係のない、画面の向こう側だった。
灯李は提案者として半ば無理矢理、実行委員長を押し付けられていた。自分には無理だと言っていたのに、今のところ、周囲の反応におどおどしながらも、そつなく役目をこなしている。
「――ってすると、教室の装飾は……」
そこで、灯李が困ったようにその場にいる四人を見回す。けれど、そこで灯李に助け舟を出す者はいない。普段なら由依が何か言っていただろうが、今は感情のない目でその様子を眺めているだけだった。
灯李の話は右から左に抜けていくだけで、由依の中では、何の意味も持つことはなかった。その時の由依の頭の中を閉めていたことは、その日の朝に美紗たちが由依に言った一言だった。
『昨日は、ごめん……』
恵里香に八つ当たりしてしまったこと、勝手に一人で帰ってしまったことを謝ると、恵里香も美紗も雛乃も、「気にしてないから」と快く許してくれた。特に、雛乃などは「私こそ、嫌なこと聞いちゃってごめんね」と、逆に謝られてしまい、由依は焦った。とはいえ、そこまではよかったのだ。
それに続いて、軽い口調で美紗が言った言葉が問題だった。
『どうせ灯李と喧嘩でもしたんでしょ? ちょっと前に、灯李も愚痴こぼしてたし』
誰の、又は何の、とは言わなかった。けれど、話の流れからしても、その部分を取り間違えるはずはなかった。灯李がこぼしていた愚痴というのは、自分のことだ。
灯李の口から聞いたわけではないから、絶対に事実かどうかはわからない。けれど、こんなところで美紗が嘘をつく理由が、由依には思い当たらなかった。
「誰か、いい案ない……かな?」
怯えたようなその言い方が、この時は妙に癇に障った。
だからだろうか。
「灯李が喫茶店やりたいって言ったんでしょ。人に聞かないでも、これがいいとかあるんじゃないの?」
どう聞いても、好意的には受け取れない言葉。言ってしまってから後悔した。嫌味を言うつもりは、なかった、はずだ。それでも、不思議と少しだけ気分が晴れた。
それに、先に陰口を言ってきたのは向こうの方だ。由依は、そう自分に言い聞かせて、心の中を埋め尽くしそうになった罪悪感を消そうとした。すると、何故だか無性に泣きたくなった。勿論、こんなところで泣くわけにはいかなかったが。
由依の突然の言葉に、一緒に机を囲んでいた四人は、それぞれ驚いた顔をした。灯李は目を見開いて、明らかに傷ついたような顔をしている。由依は今にも泣きそうな灯李を直視できず、憮然としてそっぽを向いた。
「えと、ま、全くないわけじゃないけど、全部は考えられてるわけじゃないっていうか……」
それでも必死に取り繕おうとする灯李に、その日、由依はもう何も言おうとはしなかった。
「最近、さくらと灯李が一緒にいるとこ見ないよね」
「喧嘩でもしたんじゃないの?」
「あんな仲良かったのにねー」
「灯李がさくらになんか言ったって聞いたけど……?」
由依が灯李を避けるようになって十日もすると、クラスではそんな声が聞こえるようになった。
遠目に二人の様子を窺うクラスメイトを気にする余裕は由依にも灯李にもなかった。由依はクラスでの自分の位置を確保することに必死になり、灯李はひたすら黙って自分の殻にこもっていた。
それを良いことに、美紗はさらにあらぬ噂を流して、由依を揺さぶった。由依が灯李のことを悪く思うように。「昨日、灯李が『由依には呆れた』ってメールしてきたよ」「ね、灯李って暗くない? 話かけても答えないし。前からあんな感じなわけ?」等など。灯李がそれを否定せず、誰もそれを疑わなかったおかげで、美紗の法螺話は調子に乗ってますます酷くなった。「由依最悪だって。灯李酷くない?」「灯李が『いい加減鬱陶しかった』だって、別に言わなくたっていいじゃんね」と。
極自然に美紗が日常会話に混ぜる灯李への非難は、自然とクラスに浸透していった。
灯李は酷い奴。その認識が強まっていき、誰もが灯李から距離を置くようになった。陰ながら、表立って、灯李を攻撃する者も出てくるようになった。
わざわざ灯李に聞こえるように、灯李の悪口を言う。たまたま足が引っかかったと言って、灯李の机を引っくり返す。筆箱を落として中身をぶちまける。『最低』『見損なった、消えちゃえ』といったことが書かれた紙切れを、机の中や上に貼付ける。机の上を液体のノリでベタベタにする。その内容は、一日おきにエスカレートしていった。
その『噂話』を鵜呑みにしたのは由依も同じだった。灯李に対して、自分はそれだけのことをしたと思っていたし、なにより嫌われたくなかった。その想いに捕われた由依は、灯李自身に確かめようともせず、何も考えずに、その噂を受け入れた。心のどこかで罪悪感を感じつつも、灯李を非難する周囲の空気にも同調した。攻撃の中心ではないものの、言葉で、態度で灯李を非難するようになった。
朝、由依が教室に入ると、まず一人で席に着いている灯李に目がいく。顔を上げないから、肩にかかる程度の長さで丁寧に切りそろえられた真っ直ぐな髪が、灯李の表情を隠している。ただでさえ小柄な体を、限界まで小さく見せようとするように身を縮め、周りの音など聞こえていないかのように、ずっと本を読んでいた。事実そうなのか、灯李は、チャイムが鳴ったのに読書をやめず、たびたび怒られていた。
しかし、よく見ると、灯李の手元にある本は、休み時間中、一回もページがめくられることはなかった。読んでいる本も毎日同じで、読んでいる場所はその休み時間ごとに前後している。さっき最初の部分を読んでいるかと思えば、次の休み時間には残り数ページというところを開いている。その次には同じ本の丁度真ん中辺りを焦点の定まらない目で眺めていた。
動かない、喋らない、何もしない。それしか見ていなければ、死んでいるのではないかと疑うほどに、灯李は無感動に生きているように見えた。
そこまでわかるほど灯李を見たところで、由依は自分が灯李なんてどうでもいいといいながらも、暇があれば灯李を見ていることに気が付いた。
――灯李は可哀そう? 自業自得?
気が付いた由依は自分自身に問いかけた。灯李がされているのは、もう避けられているとか、そう言うレベルのことではない。灯李が自分の悪口を言った。そこから始まった非難は今やただのいじめになっていた。
――灯李へのいじめは当然のこと?
どちらにしろ、今の自分がとれる立場は一つしかなかった。自分だって止めなかった。いじめられている灯李を見て、いい気味だと思ったことも、ないとは言えない。周りに交じって、灯李の悪口だって言った。
なにより、自分が無関係だと言ったところで、誰もそれを認めてはくれないだろう。
そんな状態が一変したのは、文化祭が一週間後に迫ったころだった。
席に座って本を広げる。目で文字を追っても、その内容は全く頭に入ってこない。ただの模様、音の羅列に変換されて、意味がなくなっていた。
それでも、灯李は本を開くことを止めなかった。顔をあげることが怖かった。一日中薄暗い教室。クラスの中に充満した、自分を否定する空気、無言の悪意。それが実態を持たない圧力となって、灯李を襲った。水の中にいるのかと思うほど息苦しかった。顔を上げたら、声を聞いたら、その内容が何だとしても、自分の中の何かが押し潰されてしまいそうで、壊れてしまいそうで、動けなかった。
自分の立場にいるのが由依だったら。そう考えて首を振る。由依ならこんな立場にされるわけがないのだ。誰とでも打ち解けて、明るく社交的な由依が、誰もに拒絶されるなんてことには。
本の内容が入ってこないから、周りの音を聞こえなくする為に、どうでもいいことを考えようとした。
昨日の夕飯は何だったっけ? 今日の夕飯はなんだろうか? お母さんは今頃何をしているのだろう?
くだらないこと。答えはすぐに見付かって、自分の周りに張ったバリケードは、簡単に崩れてしまいそうになる。
それなのに、頭の中を占めるのは、由依のことばかりで、何度も同じことばかり考えた。『ホント、灯李って最低だね。今までなんで一緒にいたんだろうって思うよね』何かの拍子で聞こえた言葉が、頭の中でずっと谺している。
――わたしがいったい何をしたと言うの。
クラスに流れる事実無根の噂の数々。誰もが疑わずに受け入れた。自分はクラスメイトに、友達の陰口を叩く奴だと思われていたのだろうか。
『灯李って最低』
――最低? 最低なのはどっち。
掌を返したように自分を非難する周りに、灯李は心の中で悲鳴を上げる。けれど、固く結ばれた口からその悲鳴が漏れることはない。
そして、何よりも辛かったのは、由依が自分の傍にいないことだった。由依さえ一緒であれば、きっとどんな仕打ちにも耐えられるというのに。
何もかもから逃げ出したいとも思った。朝起きて、学校を休もうかと思ったこともあった。けれどその度に、もしかしたら昨日までのことは何かの間違いで、今日からは以前と同じ生活が送れるかもしれない、なんて言う到底あり合えない希望が膨らむ。そして結局、一人で席に着くのだ。
それでも、文化祭の実行委員だけは、しっかりやろうと思った。出来ないなんて今言ったら、今度はどんな噂が流されるのか、わかったものではないし、珍しく由依ではなく自分に任された役目くらい頼りなくともこなせることを見せたかった。
文化祭を一週間後に控えたその日、放課後の教室には、実行委員の五人だけでなく、クラスメイトのほとんどが小道具や衣装作りのために教室に残っていた。
話し合いはしていたものの、ほぼ灯李が一人で決めたことを話しているだけだった。当然、灯李以外の四人は何かを聞かれても答えられずに、面倒そうに灯李に振る。それで、明らかな嫌悪を表情に出しながらも、灯李に答えを求める。灯李の言うことに、面と向かって歯向かったり、そうでなくとも、細かいところで意趣返しをしてくる人もいた。
「なんかさー、全部灯李が仕切ってるよね。なにあれ。私は一番偉いんですー。とかいうつもりかな?」
徐に口を開いたのは美紗だった。
それに、灯李がビクッと震えた。気にしていない風を装って周りを窺うと、さっきまでよりも声を顰めて話している人が増えた気がする。
「そうじゃない? 由依じゃなくって自分が責任者に選ばれたから調子のってんでしょ」
美紗に続いて言ったのは恵里香だ。由依は無視を決め込んだように、焦点の合わない目で窓の外を眺めていて、雛乃が二人の言葉に曖昧に頷いた。
「そ、それは……、美紗たちが話し合いしようとしなかったからでしょ……」
灯李が絞り出すように言うと、美紗は涼しい顔で返してきた。
「は、何言ってんの? うちらはちゃんと話し合いしてたじゃん」
さあ、どうする?
愉快そうな美紗の目はそう灯李に語っていた。精神的に追いつめられている灯李を嘲笑うように、その唇は笑みの形に歪んでいる。
「あんなの、話し合いじゃない。美紗も、恵里香も、雛乃も、由依も適当に返事するだけじゃない」
「灯李の自意識過剰でしょ。ちゃんとやってたって。ねえ、由依?」
由依は話を聞いていなかったのか、ハッと美紗を見ると、慌てたように頷いた。
それに、灯李の中で何かが割れる音が聞こえた気がした。
美紗は、由依ににっこりと笑って、バンッと机を叩いた。
「自分が目立ちたいからって、うちらを悪者にでもしたいの?」
表情をコロリと変えた美紗が、傷ついたような声で灯李に叫ぶ。
机が叩かれた音で美紗に注目していたクラスメイトは、美紗の言葉を聞いて、思い思いの感想を漏らした。「今までさくらといたのも、結局目立ちたいだけだったとか?」「それじゃあ、さくらは今まで利用されてただけってこと?」「うわ、ひっど」
「そ、そんなことっ――」
灯李が言い返そうとすると、とどめとばかりに由依が呟いた。
「無理だよ。今このクラスに灯李が何言ったって、きっと信じてくれない」
その通り。今はただでさえクラスから阻害されている灯李が、何を言おうと周りの反応が良くなるはずはないのだ。むしろ、下手な言い訳をすれば悪くなる。もし、今の自分の立場にいるのが由依だったら。そこまで思ってしまって、考えるのをやめた。由依と自分が比べられるわけがないのだ。
由依の言葉は、事実なだけに灯李の心に深く突き刺さった。
「――っ! それなら、私なら無視して勝手にやってっ」
それだけ声を絞り出して、灯李は教室を飛び出した。
教室から走り去る灯李を見て、心此処に在らずで様子を見ていた由依は、思わず腰を浮かしかけた。けれど、すぐに思い直してその場にとどまった。
どうせ、自分がここで灯李を追いかけたところで、何が変わるということもない。
灯李を追いつめたのは美紗だ。けれど、とどめとなってしまったのは、由依が何の気なしに呟いた独り言だった。その自分が灯李を追いかけるなんて、どう考えてもおかしいだろう。
自分から灯李を突き放したのに、何を今追いかけて、一体何をしようというのだろう。自分が灯李を傷つけておいて、離れてみたら寂しくなった? なんて都合が良い性格をしているんだろう。灯李が自分の愚痴を言っていてムカついた? そんなの当たり前だ。愚痴なんて誰だっていう。自分だって、勿論灯李だって。今更謝ったとしてどうなる。灯李が自分を許してくれるはずがないじゃないか。
それにしても、灯李が言っていたように、自分達は何もわかっていないのに、その灯李がいなくて大丈夫なのだろうか。
由依の心配をよそに、美紗は満足げな表情だった。
それでも、多少ごたごたはあったものの、灯李が出て行ったのが下校時刻に近かったため、大した問題もなくその日は終わった。
さあ、帰ろう。と立ち上がったところで、灯李が席に置いていった鞄が由依の目に留まった。
鞄を置いていったのは、後で取りにくるつもりだったのだろうか、それともそんな余裕がなかったのか。どちらにせよ、もうすぐ完全下校時刻だから、もう教室に戻ってくることはないだろう。
「ん? さくら、どうかした?」
雛乃に声をかけられ、由依は、「大丈夫」と答えながら、灯李の鞄を持って帰るべきか悩んでいた。
由依の家と灯李の家は、二人の家の最寄り駅を挟んで、徒歩十分といった距離だ。少し遠回りになるけれど、帰り道に灯李の家に寄り道できない距離ではない。
「さくら、早くしないと先帰っちゃうよ」
恵里香の声で、由依は自分が思った以上に考え込んでいることに気付いた。教室には、もう恵里香と雛乃しか残っていない。美紗は先に下駄箱ででも待っているのだろう。
電気が消された教室は暗く、夏至より冬至に近付いたこの時期、外はとうに暗くなっていた。
「あ、うん。行く行く」
自分の鞄を持って、灯李の席の横を通り過ぎる。鞄と体で隠すように灯李の鞄をかすめとると、恵里香と雛乃の後についていった。
勢いで教室を飛び出してしまったものの、灯李に行く当てがあるわけでもなかった。
文化祭の準備で遅くなる、と親に言ってしまっている以上、そのまま帰るというわけにもいかず、灯李は家の近くの公園で時間をつぶしていた。
「あ、鞄置いてきちゃった」
子供が遊ぶように考えられて作られているブランコ。当たり前のように灯李が座るには低い位置にあるそれに座って、暇を弄んでいる時にそのことに気が付いた。それまではそんなことを考える余裕さえなかった。
かといって、今からとりに帰る時間もないし、そんなことをするだけの気力もなかったので、灯李は呟いただけで何をする気配も見せない。
椅子にするには低すぎるブランコに座り、地面に足をついたまま、灯李は膝を曲げては伸ばすを繰り返す。
何も考えずに。
何も考えたくなかった。
平日の午後、住宅街から少し離れたところにある公園には、遊び回る子供の姿は見えない。それは時間が遅かったからか、それとも皆家の中での遊びに満足しているからか。
「灯李っ」
少し遠くから聞こえた思わぬ声に、灯李は地面に向けていた視線をあげた。
公園に入ってきたときはまだ青かったはずの空は、すっかり暗くなり、数えられるほどの星が、消えそうになりながら輝いていた。公園の中の電灯が、ブランコの隣にある滑り台を照らしている。
そろそろ帰らなきゃいけない時間かな。
思ったより早い時間の流れに、そんなことを考えた。
「……何? わたしになんか用?」
自分で思ったよりも、ずいぶんとキツい声が出た。彼女を見据えた視線も鋭くなっているのかもしれない。とはいえ、気にすることでもない。どうせ、彼女がそんなことで傷つくわけがないのだから。
そう思ったのに、灯李の名前を読んだ彼女は、灯李の声を聞いて、ピタッと足を止めた。その表情は周りが暗くてよく見えない。
「なんか用?」
返事がなかったので、灯李はもう一度言った。
彼女は一呼吸して、強ばった声で返してきた。
「灯李のお母さんが、まだ帰ってこないって心配してたよ。あとこれ、鞄、置いてったでしょ」
誰もいない夜の公園は、異様なほどに音が通るわりに、何の余韻もなく、無感動に消えていく。
灯李はもうそんなに遅い時間なのかと驚いて、携帯で時間を確認した。せいぜい六時半くらいだろうと思っていたのに、そこに表示されている時間は七時半。成る程、これは心配しているだろうな、と他人事のように思う。
それから、由依が差し出してくる鞄と、由依を交互に見やる。
「今度は何の嫌がらせ?」
皮肉を言う灯李に、由依は無言で、自分が立ち止まったせいで空いていた、灯李と由依の距離を、今度は歩いて詰めた。
そしてまた、灯李に鞄を突き出す。
それを、灯李は由依の手からひったくるように奪うと、自分の足の横に置く。
由依が自分の鞄を持ってきたのには、何か裏があるのだろうか。そう考えるなら、今すぐ鞄の中身を確かめるべきなのかもしれないが、今の灯李は何もする気が起きなかった。
そして、由依が来る前と同じように、無心でブランコを漕いだ。
「いーちっ、にーいっ、さーんっ……」
漕ぎながら小声で数を数えてみる。何も意味はないけれど、気を紛らわせるために。
「十七っ、十八っ――」
「……ごめんね」
急に隣から聞こえた声に驚いて、灯李は足を滑らせた。横を見ると、由依がブランコに座って俯いていた。
自分に鞄を渡して、もう帰ったものだと思っていたのだ。
「何が」
思い当たることは沢山あった。といっても、大雑把に括ってしまえばたった一つだ。聞かなくてもわかっているようなものなのに、それでもそう言ってしまったのは、ほかに言う言葉が思いつかなかったからだ。そして、由依を無視する気にもなれなかったから。
「全部。……ここ三週間くらいのこと」
下手をすれば、風に掻き消されてしまいそうな小さい声。学校で皆の中心になっている由依からは、想像もできない程で。
けれど、灯李はそれには驚かなかった。意外にすら思わない。今まで十年以上一緒にいて、このように弱気な由依を、灯李はもう何度も見ている。
「怖かったんだ。私のまわりから、誰もいなくなっちゃうんじゃないかって――」
今度は何も言っていないのに、由依が自分から話しだした。
ポツポツと。自分に言い聞かせるように、一言一言を、噛み締めるように。理由と言う名目の言い訳を。
それを、灯李は黙って聞いていた。思ったことを思った順に話す由依の告白は、支離滅裂で、理解するのに精一杯で、口を挟む余裕がなかったというのが大きな原因でもある。
「多分あたし、灯李なら、じゃないな、灯李だけは、ずっと一緒にいてくれると思ってた、ううん、信じてたんだよね」
たとえ、あたしが灯李を突き放したって。
確かめるように由依が問う。それは灯李に向けたものであって、それ以上に自分に尋ねている言葉だった。
「気付かないくらい、当たり前で。大切なものは失って初めて気付くって、今までバカにしてたのにな」
独り言のように呟かれる言葉。それらは、確実に灯李に向けられている。
「って、バカじゃん、あたし。灯李がずっと一緒にいてくれるなら、あたしの周りに誰もいなくなるはずなんてないのに」
だんだんと泣きそうになりながらも、由依は乾いた笑い声を弱々しくあげる。
それでも、灯李は何も言わずに黙って由依の話を聞いていた。
「最初、灯李があたしの愚痴言ってたって聞いて、ムカついた。人のことなんて言えないのに」
灯李はブランコを一回、強く漕いだ。ザッと、土を蹴る音が通って消える。
「でも、みんながあたしから離れていかないように、灯李から離れたはずなのに、余計一人になった気がした」
地面に近くなったところで、足を放り出していたら、足が土に当たってブランコが止まる。
「ごめん。灯李、ごめんなさい。だから、あたしのこと嫌いにならないで」
縋り付くような声。
――あたしと一緒にいて。
幼い頃から何十回と聞いた台詞。
そして、それを言うのはいつだって由依だった。いつだって灯李は由依を追いかける側なのに。それに対する灯李の答えも、いつだって決まっていて。
灯李はもう一度ブランコを強く漕いで、勢いよく降りた。
急に乗る人がいなくなったブランコが、カラカラと音をたてて揺れる。その音に由依が顔を上げた。
「明日は、一緒に学校行こうね」
暗くて由依には見えないかもしれないと思いながら、灯李は由依に向かってめいっぱい笑った。
明るくて、皆に好かれる由依が好きで、誇らしかった。自分には到底できないことを、易々とやってのける由依が羨ましかった。だから妬ましく思うことだってあった。
それなのに、何かあって離れていくのはいつも由依だった。灯李はいつだって追いかけて、追いつけなくなって、離れていく由依が戻ってくるのを待つしかない。
けれど、由依を待つことをやめたことは、一度もないのだ。
「ほら、早く帰んなきゃ」
灯李が自分の鞄を持って、由依に手を差し出すと、由依は少し間を置いてからその手を取った。
灯李が家に着いたのは八時半過ぎで、家に入るなり、心配していた母親に三十分のお説教を食らうはめになった。
その翌日。三週間ぶりに一緒に教室に入ってきた由依と灯李に、クラスはちょっとした騒ぎになった。
(は? なんで?)
昨日灯李がクラスを飛び出していったのを見て、意気揚々と登校してきた美紗は、その光景に混乱した。
それはほかのクラスメイトも同様で、何があったのかと遠巻きに話している者や、直接問いただしている者もいる。
「あ、美紗おはよー」
美紗が教室に入ってきたのを見て、由依がひょこひょこと近付いてきた。その後に灯李も付いてくる。
「おはよう……二人とも、何かあったの?」
何もないはずがない、と思いながら美紗は聞いた。その様子は完全に数週間前の二人に戻ったようだった。
「へ? 別になんにもないけど」
とぼけているのか、それが素なのか、由依は小さく首を傾げた。その後ろでは、美紗に話しかけられた灯李が、ビクッと反応して由依の後ろに隠れる位置に移動した
(少しいじめすぎちゃった……かな?)
由依という味方が帰ってきたためか、灯李の美紗に対しての反応は、昨日までと比べてずっと臆病になったように見えた。
「おはよ、灯李」
由依の横から覗き込むようにして灯李に言うと、灯李は逃げ場を求めるように視線を彷徨わせた。
「お、おはよう」
結局、逃げ場があるはずもなく、灯李は固い声で言った。
それにしても、灯李がここまで自分を警戒するようになってしまったのは、計算外だった。美紗は灯李と由依がお互いに拒絶したらどうなるのか、純粋に興味があっただけだったのだ。それが灯李だけを追いつめることになってしまったのは、自分が灯李より由依の近くにいたからで、個人的に灯李が嫌いだからということは全く関係なかった。
むしろ、全体の中心に近い位置にいるのに、基本的に由依しか見ていない灯李を、美紗はどちらかと言えば気に入っていると言えた。
(さて、どうしたものかな)
特に由依と話すこともなかったので、美紗がそのまま席に着くと、由依はすぐにほかのクラスメイトに捕まって、何で灯李と一緒にいるのかと、問いつめられている。
灯李が陰口を言っていたというデマの内容は、灯李と由依を離すという目的で流されたため、ほとんどが由依を非難するものだった。その相手が人気のある由依だったからこそ、灯李に対する反感が余計に強くなり、いじめといえるまでに発展した。その動機が由依のためだったところが多い分、逆に由依が灯李を許せば、ほかの人が灯李を拒絶する必要がなくなるのも早かった。
灯李も、自分は陰口を言ってはいない、ということを主張していて、今は誰がそんなデマを流したのか、という話になってきていた。
「あの噂、誰から聞いた?」
教室のここそこでそんな質問が聞こえてきて、美紗は冷や汗をかいた。保健室にでも逃げていようかとも思った。
「別に探さなくてもいいんじゃない?」
唐突にそんなことを言った由依に、周りから不満の声が上がる。
「あ、いや、やるなとは言わないけどさー。灯李が陰口言ってたわけじゃない、って皆が認識すればいいわけで」
「誰が流したかは、別にわざわざ探さなくても良いんじゃないかな」
由依のあとに続いて、灯李が控えめに言うと、犯人探しに精をあげようとしていたクラスメイトの大半が、由依と灯李がそう言うなら、と納得の様子を見せた。
それに、美紗が安堵していると、また由依が美紗に近付いてきた。
「へっ? な、何?」
「文化祭、頑張ろうね!」
由依に笑顔で言われて、美紗は気圧されるように頷いた。
「てことで早速、灯李に現状を説明してもらおう」
気が付くと、恵里香と雛乃も近くにいた。
由依に肩をつかまれて、ずいっと四人の中心に押し出される。
「えっ、えぇっ?」
困ったように由依を振り向いた灯李に、由依が親指を立てる。
灯李はさりげなく一歩下がって、五人の輪を作って、少しだけ嬉しそうに口を開いた。
◇ ◆ ◇
気付かなかった。月のない夜の暗闇の中でも、あたしを照らしてくれる灯があったことを。忘れていた。
月を見たいと灯から逃げ出して、怖くなって思い出した。優しく、あたしを照らしてくれる光に。
あたしはまた、灯があることを忘れてしまうかもしれない。でも、きっとまた思い出すから、待っててね。




