苓崎村の海妖
『苓崎村の海妖』
序章
十一月の終わりが近づくと、東京の空気にも冬の気配が混じり始める。
その日の朝も、一葉館の窓硝子は薄く曇っていた。
一葉館は神田の裏通りに建つ洋館風の下宿である。
駆け出し小説家の私、折口恒一と物集院秋津は、
その二階で向かい合うように部屋を借りていた。
中央の応接間を挟み、片側が秋津の居室、反対側が私の居室である。
もっとも、自室に籠っている時間より応接間で顔を合わせている時間の方が長いので、ほとんど同居人のようなものだった。
その日も私は応接間で原稿用紙と睨み合っていたのだが、当然ながら勝てる見込みはなく、早々に万年筆を置いた。
机の上には書きかけの原稿。
火鉢の炭は心細いほど赤い。
静かな午前だった。
階段を上ってくる足音が聞こえたのは、その時だった。
「秋津さん」
大家の桐野トメさんである。
トメさんは手に一通の封書を持っていた。
「お手紙ですよ」
応接間の向かい、窓辺の長椅子に座っていた秋津は顔を上げた。
彼は朝から古い民俗学雑誌を読んでいたらしい。
「ありがとうございます」
封筒を受け取ると、差出人を見てわずかに眉を動かした。
私はその変化を見逃さなかった。
「知り合いですか」
「いいえ」
そう言いながら封を切る。
知らない相手からの手紙にしては、妙に真剣な雰囲気をだしている。
しばらく読み進めていたが、不意に秋津が小さく息を吐いた。
嫌な予感がした。
こういう時の彼は、大抵ろくでもないものを見つけている。
「折口君」
「何です」
「天草へ行きましょう」
「断ります」
反射的に答えた。
秋津は少しだけ首を傾げる。
「まだ理由を説明していませんが」
「説明を聞いたら行く羽目になるからです」
「鋭いですね」
全く褒められた気がしない。
秋津は椅子に背を預けた。
「熊本県天草郡 苓崎村。小学校教員の黒瀬史郎さんという方からです」
「その方が何か」
「面白いものを見つけたようです」
その言葉が出た時点で嫌な予感は確信へ変わった。
秋津が言う「面白い」は世間一般の意味ではない。
古文書だったり妖怪だったり因習だったりする。
大抵の場合、平穏とは無縁だ。
「何を見つけたんです」
すると秋津は手紙を差し出した。
読みやすい筆跡でこう書かれていた。
物集院秋津 先生
突然のお手紙を差し上げる非礼をお許しください。
私は熊本県天草郡苓崎村にて教員を務めております黒瀬史郎と申します。
村史編纂の手伝いをしているうち、海神神社に保管されていた古文書の調査を行う機会を得ました。
その中に『磯女縁起』『御海異聞録』『海神神社大祭覚書』と題された記録があり、私は強い興味を抱きました。
それらには、村に伝わる磯女伝承だけではなく、約二十年前の海難事故を思わせる記述が含まれております。
しかし不可解なことに、村史に残る記録と古文書の内容が一致いたしません。
調査を進めるうち、誰かが意図的に過去を隠そうとした形跡があるのではないかと思うようになりました。
私は民俗学の専門家ではありません。
ですが、この資料には単なる怪談や伝説では済まされない何かが含まれているように感じております。
もしご興味をお持ちいただけるのであれば、一度苓崎村へお越しいただけないでしょうか。
幸い原本は海神神社に現存しております。
先生であれば、この記録の価値を正しく判断していただけるものと思います。
敬具
黒瀬史郎
そこで私は顔を上げた。
「海難事故?」
「ええ」
秋津は珍しく楽しそうだった。
「磯女ですよ」
「いそおんな?」
「海の妖怪です」
そう言って彼は懐中時計を弄びながら続けた。
「九州西岸を中心に伝わる水妖の一種ですね。長い黒髪を持つ女の姿で現れる」
「また妖怪ですか」
「また妖怪です」
実に嬉しそうである。
私は深く溜息を吐いた。
鬼。
河童。
天狗。
これまで付き合わされてきた怪異を思い返すと、今さら海の妖怪が増えたところで驚くべきではないのかもしれない。
だが、できれば平穏に原稿を書いて暮らしたい。
「それで、その黒瀬さんは何を頼みたいんです」
「私にも分かりません」
「分からない?」
「ええ」
秋津は再び手紙へ目を落とした。
「ただ、この三冊の名前だけで十分です」
私は思わず額を押さえた。
出た。
収集癖である。
「つまり行くんですね」
「原本が現存しているそうです」
「行くんですね」
「行かなければ後悔するでしょう」
「でしょうね」
こうなると止まらない。
珍しい古文書を前にした秋津は、空腹も睡眠も時には常識すら忘れる。
長い付き合いではないが、それくらいは分かる。
やがて彼は静かに言った。
「折口君」
「何です」
「海の妖怪というのは興味深いものですよ」
「そうですか」
「山には天狗がいます。川には河童がいます」
窓の外では、枯れ葉が風に転がっていた。
秋津は遠くを見るような目で続けた。
「ならば海にも何かがいると、人は考える」
「海妖ですか」
「ええ」
彼はかすかに笑った。
「人は恐れる場所に、必ず物語を作るのです」
第一章 海妖
天草へ渡る船の甲板に立つと、風は思った以上に冷たかった。
冬と呼ぶにはまだ早い。
だが秋も終わりに近く、海の色には夏の名残など欠片も見当たらなかった。
鉛色の波が船腹を叩き、白い飛沫が砕け散る。
私は外套の襟を立てながら隣を見た。
秋津は船縁に寄り、波の向こうを眺めている。
「寒くありませんか」
「寒いですね」
そう言いながら、まるで動く気配がない。
私は諦めて海を見た。
しばらく沈黙が続いた後、ふと思い出したように口を開く。
「そういえば、磯女でしたか」
「ええ」
「海の妖怪だと言っていましたね」
秋津は頷いた。
「有名なのですか」
「河童や天狗ほどではありません。しかし海の怪異としては代表的な存在でしょう」
「海の怪異というと、他にもいるんですか」
秋津は少し楽しそうな顔になった。
この人が嬉しそうな時は、民俗学者物集院秋津の授業が始まる。
「いますとも。むしろ海は怪異の宝庫ですよ」
「また始まりましたね」
「始まっています」
秋津は平然としていた。
「例えば船幽霊」
「ああ、それは聞いたことがあります」
「海で死んだ者の亡霊が船に現れるという伝承です。柄杓を貸せと言ってくる」
「貸したらどうなるんです」
「海水を船へ汲み込み、沈めるそうです」
「貸さない方が良さそうですね」
「だから底の抜けた柄杓を渡すのです」
「ちゃんと対策があるんですね」
「伝承というものは案外実用的です」
秋津は淡々と言った。
「他にも海坊主があります」
「大きな坊主頭の妖怪でしたか」
「地方によって違いますが、概ねそうですね。突然海上に現れ、船を転覆させる」
「迷惑ですね」
「海は昔から理不尽な場所ですから」
波の向こうを見ながら、秋津は続けた。
「海坊主は嵐の擬人化かもしれません」
「河童みたいなものですか」
「近いでしょう。理解できない災害に名前を与えたのです」
風が強くなる。
秋津は帽子を押さえた。
「天草周辺にも色々な怪異が残っています」
「例えば?」
「海女房、海姫、濡女、濡女子」
「随分似ていますね」
「同じ系統ですから」
秋津は頷いた。
「海辺に現れる女の怪異です。土地が変われば名前も変わる」
「今回の磯女もその仲間ですか」
「そう考えられています」
私は遠くの島影を見た。
「皆、海へ引き込むんですか」
「必ずしもそうでもありません」
秋津は少し考える。
「魚をねだるだけのものもいる」
「怖くないですね」
「笑い返すと一生憑いてくるものもいる」
「やっぱり怖いですね」
「近付いた船に乗り込むものもいる」
そこで秋津は小さく笑った。
「海辺の人々は、どうやら見知らぬ女に警戒心を持っていたようです」
「それは健全な判断では」
「かもしれません」
私は苦笑した。
だが、ふと疑問を覚えた。
「なぜ女なんでしょう」
秋津は少し黙った。
そして海の方へ目を向ける。
「海で死んだ者の多くは男です」
「漁師ですね」
「ええ」
「なら、帰りを待つのは」
「妻や母や娘です」
秋津の声は静かだった。
「海辺の怪異には、残された者の感情が強く反映される傾向があります」
私は何となく黙った。
「帰らない者」
秋津が続ける。
「帰りを待つ者」
「忘れられない者」
波が船腹を叩いた。
「だから海の怪異は、山の怪異より少し悲しいのかもしれません」
その言葉は妙に印象に残った。
鬼や天狗の話をする時、秋津はこういう言い方をしない。
海には何か違うものを感じているようだった。
「では磯女も」
「あるいはそうかもしれません」
秋津は遠くを見つめた。
「長崎のある土地では、磯女の正体は水死者だとも言われています」
「水死者」
「帰れなくなった者ですね」
少しして、彼は付け加えた。
「もっとも」
「何です」
「それが本当に死者だったかどうかは分かりません」
「また始まりましたね」
「民俗学ですから」
私は溜息を吐いた。
すると秋津は珍しく真面目な声で言った。
「ですが、一つだけ確かなことがあります」
「何でしょう」
「記録と伝承が食い違う時です」
波音の向こうで彼の声が響く。
「そこには大抵、人間の事情がある」
手紙に書かれていた文面が頭をよぎった。
二十年前の海難事故。
村史と一致しない古文書。
消された何か。
「黒瀬さんは、それを見つけたんでしょうか」
「おそらく」
秋津は静かに答えた。
「だから私は天草へ向かっているのです」
その時、前方に港が見え始めた。
灰色の空の下、小さな漁村が海へ寄り添うように広がっている。
苓崎村だった。
第二章 御海の村
船が天草の港へ着いたのは昼を少し過ぎた頃だった。
十一月も末になると、南国と呼ばれる土地であっても空気は冷たい。
風は潮の匂いを運び、空は低く曇っていた。
私と秋津は小さな乗合自動車を乗り継ぎ、さらに村の荷車に揺られながら目的地へ向かった。
苓崎村。
黒瀬史郎の手紙に記されていた村である。
海沿いの道を進むにつれ、人家はまばらになっていった。
右手には天草灘。
左手には低い山々。
海と山に挟まれた細長い土地に村が張り付くように広がっている。
波の音は絶えず聞こえていた。
まるで村そのものが海と共に息をしているようだった。
「なるほど」
秋津が呟いた。
「いかにも海の村ですね」
「その感想は適当すぎませんか」
「民俗学者の感想としては真面目です」
そう言いながら、彼は港に並ぶ漁船を眺めている。
私はそれ以上問い詰めるのをやめた。
どうせ説明されても難しい。
やがて村の中心部へ着いた。
漁師小屋が並び、網が干されている。
乾物の匂いが風に混じる。
決して大きな村ではない。
しかし活気はあった。
海によって生きる人々の気配があちこちに感じられる。
その日の村は少し静かだった。
私には理由が分からなかったが、すれ違う人々の表情にどこか沈んだものがある。
秋津も同じことを感じたらしい。
「妙ですね」
「何がです」
「村の空気です」
「空気まで分かるんですか」
「分かりません」
秋津は即答した。
「ですが、何かあったばかりの村の顔をしています」
その言葉は後になって思い出すことになる。
宿へ着いたのは夕方近くだった。
海望館。
海に面した小さな旅館だった。
木造二階建てで、元は漁師宿だったらしい。
軒先には潮風で色褪せた看板が掛けられている。
玄関をくぐると、女将らしい老婦人が出迎えてくれた。
「遠いところをようこそ」
部屋へ案内され、荷物を置く。
窓からは湾が見えた。
曇り空の下、海は鈍い銀色に光っている。
旅館というより、海を眺めるための建物だった。
私は長旅の疲れで腰を下ろした。
一方、秋津は既に立ち上がっている。
「では海神神社へ」
「待ってください」
「何です」
「今着いたばかりですよ」
「黒瀬さんに挨拶を」
そこで私は首を傾げた。
「教師の黒瀬さんですよね」
「ええ」
秋津は当然のように答えた。
「今回の依頼人ですから」
だが、その時だった。
荷物を運んでいた仲居の女性が不思議そうな顔になった。
「黒瀬先生に?」
「はい」
秋津が振り向く。
女性は少し困ったような顔をした。
「あの……ご存知なかったんですか」
嫌な予感がした。
理屈ではない。
そういう時の気配だった。
「何をでしょう」
秋津が尋ねる。
女性は小さな声で言った。
「黒瀬先生なら、もう亡くなられました」
部屋が静かになった。
外から波の音だけが聞こえる。
私は思わず聞き返した。
「亡くなった?」
「はい。四日前に」
女性は声を落とした。
「黒潮岬で足を滑らせたそうです」
私は秋津を見た。
彼は無言だった。
女性は続ける。
「村じゃ事故だと言われています」
「言われている?」
秋津が初めて口を開いた。
「事故なのではなく?」
「え……」
女性は言葉に詰まった。
「いえ、その……」
それ以上は言わなかった。
だが十分だった。
秋津は礼を言って女性を見送った。
襖が閉まる。
再び部屋に静寂が戻った。
私は窓の外を見た。
海は相変わらず静かだった。
「偶然でしょうか」
私が言う。
秋津はしばらく答えなかった。
机の上に黒瀬の手紙を置き、その文字を見つめている。
やがて静かに言った。
「分かりません」
その声は冷静だった。
だが、私は知っている。
彼が本当に興味を持った時ほど静かなことを。
「しかし」
秋津は手紙の一節を指でなぞった。
二十年前の海難事故に関して、不自然な点があります。
そして視線を上げた。
「村史と古文書の齟齬を発見した人間が、その直後に死んだ」
私は黙った。
「しかも手紙を送った直後です」
窓の外では夕暮れが始まっていた。
湾の向こうで一隻の漁船が港へ戻ってくる。
その姿を見つめながら、秋津は低く呟いた。
「少なくとも、調べる価値はありそうですね」
私も偶然だとは思えなかった。
黒瀬史郎の死は何を意味しているのだろうか。
第三章 海神神社
翌朝、私たちは海神神社へ向かうことになった。
宿を出ると、空は相変わらず曇っていた。
潮の匂いを含んだ風が頬を撫でる。
村の中心から少し離れた丘の上に神社はあるらしい。
坂道を登りながら私は秋津に尋ねた。
「海神神社という名前は、よくあるものなんですか」
「沿岸部では珍しくありません」
秋津は杖代わりの洋傘を肩に担ぎながら答えた。
「海神と書いてわたつみと読む場合、多くは海神信仰に由来します」
「海神ですか」
「海そのものを神格化した存在ですね」
道の向こうに鳥居が見え始めていた。
「漁村では海は生活の糧です」
秋津は続ける。
「しかし同時に、人を呑み込む場所でもある」
「御海でしたか」
「ええ」
私は村人たちが海をそう呼んでいたことを思い出した。
まるで人名のような呼び方だった。
秋津は頷く。
「昔の人は自然を単なる景色とは考えませんでした」
「神だった」
「あるいは隣人です」
私は首を傾げる。
「隣人?」
「恵みを与えることもあるが、機嫌を損ねれば命を奪う」
秋津は淡々と言った。
「だから祀る」
なるほど、と私は思った。
「この神社も漁師たちの信仰なんですか」
「おそらく」
「おそらく?」
「見てみなければ分かりません」
秋津らしい答えだった。
学者というのは案外断言しない。
十分ほど歩いたところで石段が見えてきた。
秋津は鳥居を見上げる。
「もっとも」
「何です」
「私が気になっているのは神様ではありません」
「古文書ですね」
「その通りです」
秋津は即答した。
「『磯女縁起』、『御海異聞録』、『海神神社大祭覚書』」
その名を口にする時だけ、彼の目が少し輝く。
「海神神社は神社であると同時に、苓崎村の記憶を保管している場所でしょう」
「記憶」
「神社というものは案外、土地の歴史の倉庫なのですよ」
そう言って石段を登り始める。
私は後に続いた。
「黒瀬さんも、それを調べていた」
「ええ」
秋津は振り返らなかった。
「そして死んだ」
風が吹いた。
石段脇の木々が揺れる。
「事故でしょうか」
私が訊ねる。
しばらく秋津は答えなかった。
やがて鳥居の前で立ち止まり、静かに言う。
「それを確かめるために、ここへ来たのです」
石段を登り切ると、そこには思っていたより大きな社があった。
海神神社。
古びた鳥居の向こうに拝殿が建ち、その背後には深い社叢が広がっている。
海沿いの村にある神社らしく、境内には潮風に削られたような石灯籠が並び、狛犬の足元には白い塩の跡が残っていた。
私は思わず辺りを見回した。
「立派ですね」
「ええ」
秋津も珍しく素直に頷く。
「少なくとも数百年は続いているでしょう」
「分かるんですか」
「分かりません」
いつもの返答だった。
「ただ、こういう神社は地域の歴史と密接です。村そのものと同じだけの時間を抱えていることも珍しくありません」
そう言って拝殿へ視線を向ける。
だが神様より先に興味を引かれているものがあるらしい。
古文書である。
私は知っている。
鳥居よりも神様よりも古文書の方が好きなのだ、この人は。
拝殿の前へ進むと、一人の老人がこちらへ近づいてきた。
白髪交じりの髪。
六十代半ばほど。
神職の装束を身に着けている。
「ようこそおいでくださいました」
柔らかな口調だった。
「海崎宗玄です」
この海神神社の宮司である。
秋津は帽子を取り、一礼した。
「物集院秋津と申します」
「黒瀬先生からお話は伺っておりました」
その名前が出た瞬間、海崎の表情がわずかに曇った。
秋津もそれを見逃さない。
「黒瀬さんとは長い付き合いだったのですか」
海崎は静かに頷いた。
「ええ。十年以上になります」
私たちは社務所へ案内された。
古い木造建築だった。
部屋の壁には古い絵馬や巻物が掛けられている。
茶が出された後、海崎はぽつりと呟いた。
「惜しい人を亡くしました」
その声には本心が滲んでいた。
「熱心な方でした」
海崎は続ける。
「教師としても真面目でしたし、村の歴史にもよく尽くしておられました」
「最近はこちらへ頻繁に?」
秋津が尋ねる。
「ええ」
海崎は苦笑した。
「週に何度も来られました」
「何を調べていたのでしょう」
「主に古文書です」
やはり、と私は思った。
「この神社には昔の記録が多く残っています。黒瀬先生は村史編纂のため、それらを調べておられました」
「事故についても?」
海崎は少し迷った後、
「そうです」
と答えた。
「二十年前の海難事故のことです」
部屋が一瞬静かになった。
「何か分かったのでしょうか」
秋津が尋ねる。
だが海崎は首を横に振った。
「そこまでは存じません」
そう言いながらも、どこか言葉を選んでいるようだった。
「ただ……」
「ただ?」
「亡くなる少し前から、何かを気にしている様子はありました」
その一言を秋津は黙って記憶したようだった。
やがて海崎が立ち上がる。
「今日はそのために来られたのでしょう」
そう言って奥の蔵へ案内してくれた。
中はひんやりとしていた。
木箱や書架が並び、古文書特有の紙と墨の匂いが漂っている。
秋津の目が少しだけ輝いた。
まず間違いなく、今この人は幸せである。
「こちらです」
海崎が一冊の和綴じ本を取り出した。
表紙には墨で題が書かれている。
『磯女縁起』
秋津は丁寧に頁を開いた。
私はその横から覗き込む。
中には古い筆文字で様々な話が記されていた。
泣女磯に現れた女。
夜の海を歩く影。
船へ忍び込む黒髪の女。
土地に伝わる磯女伝承の集積であるらしい。
秋津は黙って読み進める。
頁をめくる音だけが静かに響く。
やがて一冊を半分ほど読み終えたところで、不意に手が止まった。
「なるほど」
呟く。
「何かありましたか」
私が尋ねると、秋津は開いた頁を指差した。
「ここです」
私は目を凝らした。
達筆すぎて半分も読めない。
秋津は簡単に内容を説明してくれる。
「古い記録では磯女は死者として語られている」
「死者?」
「海で亡くなった者です」
さらに頁をめくった。
「しかしこちらでは違う」
そこには、
磯女は夜の海に立ち、人を誘い、血を吸い、海へ引きずり込む
という内容が記されていた。
「別物ですね」
「ええ」
秋津は頷く。
「伝承が変質しています」
「変質」
「元は死者の嘆きだったものが、後には人を害する妖怪になっている」
彼は指先で文字をなぞった。
「非常に興味深い」
嫌な予感がした。
この人が興味深いと言い出した時、ろくなことにならない。
「何がです」
「伝承は勝手に変わりません」
秋津は静かに言った。
「変える人間がいるのです」
私は思わず顔を上げた。
その時だった。
蔵の外から声が聞こえた。
「あれは磯女ですよ」
誰かがそう言っている。
「昨夜も黒潮岬に出たそうだ」
秋津と私は顔を見合わせた。
海崎も困ったように苦笑する。
「最近また噂が増えましてね」
「黒潮岬ですか」
秋津の目が細くなる。
宮司は頷いた。
「黒髪の女を見たという者が何人もおります」
潮風が吹いた。
蔵の戸がかすかに鳴る。
その黒髪の女が、やがて村中の噂となり、私たちの調査を思わぬ方向へ導くことになることを。
第四章 黒瀬の足跡
海神神社を辞した翌日、私たちは苓崎小学校を訪ねた。
村の中心から少し離れた場所にある、木造二階建ての校舎である。
運動場の向こうには御海が見えた。
曇り空の下、海は静かだった。
だが、その静けさがどこか不気味にも思える。
校長に事情を説明すると、黒瀬史郎が使っていた机や資料を見せてもらえることになった。
「先生は熱心な方でした」
校長はそう語った。
「授業も真面目でしたし、村史の編纂にも力を入れておられました」
「最近、何か変わった様子はありませんでしたか」
秋津が尋ねる。
校長は少し考えた。
「亡くなる少し前から落ち着きがありませんでしたな」
「落ち着きがなかった?」
「何かを掴んだような顔をしていました」
それだけ言うと校長は口を閉ざした。
やがて私たちは黒瀬の机へ案内された。
窓際に置かれた古い机だった。
机上はきれいに整理されている。
几帳面な性格だったのだろう。
秋津は無言で引き出しを調べ始めた。
私は積まれた書類へ目を通す。
大半は授業の記録だった。
しかし奥から村史編纂関係の資料が見つかった。
「こちらですね」
秋津が取り出したのは一冊の手帳だった。
黒い革表紙。
何度も持ち歩いたらしく角が擦り切れている。
私たちは手帳を開いた。
中には細かな文字で調査記録が書き込まれていた。
十月十二日
海神神社
『御海異聞録』再確認
十月十九日
白瀬家
事故当時の漁獲記録
閲覧許可得られず
十月二十五日
隠れ浦
再調査必要
そんな記述が延々と続いている。
「海神神社、白瀬家、隠れ浦……」
私は呟いた。
「随分偏っていますね」
「ええ」
秋津は頷いた。
「黒瀬さんは何かを追っていたのでしょう」
さらに頁をめくる。
すると記述の内容が少しずつ変化していった。
事故記録に不整合あり
神社資料と村史が一致しない
白瀬家は何かを知っている
文字が次第に乱れている。
黒瀬自身が興奮していたのかもしれない。
そして最後の方の頁に、短い走り書きが残されていた。
秋津の指がそこで止まる。
私も覗き込んだ。
分かった
事故ではない
真相を知った
それだけだった。
書きかけのように途切れている。
私の背筋に薄い寒気が走った。
「これは……」
秋津は何も言わない。
無言で次の頁を開く。
しかしそこは白紙だった。
その後も何も書かれていない。
手帳はそこで終わっていた。
「亡くなる直前ですね」
私が言う。
秋津は静かに頷いた。
「おそらく」
窓の外では子供たちの声が聞こえていた。
平和な学校の風景である。
だが、黒瀬史郎はその真っただ中で何かを見つけていた。
そして、その直後に死んだ。
事故としては出来過ぎている。
私がそう考えていると、秋津が机の奥から一枚の紙片を取り出した。
どうやら手帳に挟まっていたらしい。
そこには地図が描かれていた。
苓崎村の簡単な見取り図である。
そして三か所に丸印が付けられていた。
海神神社
白瀬家
隠れ浦
手帳に何度も出てきた場所だった。
「やはりこの三つですか」
秋津は呟く。
「何かあるんですね」
「あるのでしょう」
彼は地図を畳んだ。
「少なくとも黒瀬さんはそう考えていました」
そして少し考えるように窓の外を見る。
遠くには御海が広がっている。
「事故の真相を知った」
秋津は手帳の最後の言葉を口にした。
「実に率直ですね」
「笑い事ではありませんよ」
「ええ」
そう言いながらも、その目は鋭かった。
「真相を知った人間が死んでいますから」
私は黙った。
秋津は革手帳を閉じる。
その表情は静かだったが、確実に何かを掴み始めている顔だった。
「まずは白瀬家でしょう」
「網元ですか」
「ええ」
秋津は立ち上がった。
「黒瀬さんが最も頻繁に訪れていた場所の一つです」
そう言って校舎の窓から見える海へ目を向ける。
「事故も村の伝承も、そこへ繋がっている気がします」
その時だった。
廊下の向こうから足音が聞こえた。
校長と共に、一人の男が職員室へ入ってくる。
四十代半ばほど。
日に焼けた顔。
実直そうな目。
制服姿から見て警察官らしい。
「ちょうど良かった」
校長が言った。
「野間君、こちらが東京から来られた先生方です」
男は帽子を取って一礼した。
「苓崎駐在所の野間正治です」
私は頭を下げる。
秋津も軽く会釈した。
「物集院です」
「折口です」
野間は私たちを見比べた後、少し苦笑した。
「黒瀬先生の件ですか」
「ええ」
秋津が答える。
「何かお話を伺えればと」
野間はしばらく黙った。
そして率直に言った。
「先に申し上げておきますが、私は事故だと思っています」
私は思わず顔を上げた。
「事故ですか」
「現場は黒潮岬でした」
野間は頷く。
「足場が悪い。昔から転落事故もあります」
「他殺の可能性は?」
秋津が尋ねる。
野間は首を横に振った。
「証拠がありません」
淡々とした口調だった。
「争った跡もない。財布もそのまま。現時点では事故死と判断するしかありません」
どうやら現実主義者らしい。
噂話や怪異に流されるタイプではなさそうだった。
「磯女の噂も聞いておりますが」
秋津が言う。
野間は少し呆れたような顔をした。
「馬鹿馬鹿しい」
即答だった。
「妖怪が人を殺す時代じゃありません」
それを聞いて秋津がわずかに笑う。
「奇遇ですね」
「何がですか」
「私もそう思っています」
野間は意外そうな顔をした。
民俗学者と聞いて、もっと怪異好きな人間を想像していたのだろう。
だが秋津は平然と言った。
「私が興味を持っているのは妖怪ではなく、人間です」
野間は黙っていた。
そして少しだけ表情を和らげる。
「なら話が早い」
そう言って窓の外の海へ視線を向けた。
「黒瀬先生は何かを見つけたらしい」
私は反応する。
「ご存知なんですか」
「本人から聞いたわけじゃありません」
野間は首を振った。
「ただ、亡くなる一週間ほど前でしたか」
少し考える。
「まるで宝物でも見つけたような顔をしていた」
私は先ほどの校長の言葉を思い出した。
同じことを言っている。
「しかし、その後は妙でした」
野間は続ける。
「何かに追われているようでもあった」
職員室が静かになる。
秋津は手帳へ目を落としていた。
「もし事故じゃなかったとしても」
野間が言う。
「犯人は妖怪ではなく人間です」
その言葉に秋津は頷いた。
「それについては同意します」
初対面にしては珍しく意見が一致した。
だが私はその時感じていた。
この駐在巡査は協力者になるかもしれない。
そして同時に、事件の見方については秋津と衝突することになるだろうと。
第五章 網元の家
白瀬家は村の中心から少し離れた高台にあった。
漁港を見下ろす位置に建つ大きな屋敷である。
黒い瓦屋根。
広い庭。
歳月の重みを感じさせる長い塀。
村へ来て以来目にしたどの家よりも立派だった。
「さすが網元ですね」
私が言うと、秋津は門の向こうを見ながら頷いた。
「この村そのものと言ってもいいかもしれません」
案内に応じた使用人に通され、私たちは客間へ通された。
やがて襖が開き、一人の老人が姿を現した。
白瀬蔵之助。
六十代半ば。
日に焼けた顔。
漁師らしい体格は年齢を感じさせない。
村の実力者という評判そのままの人物だった。
「物集院先生でしたかな」
「はい」
秋津は一礼した。
「突然の訪問にもかかわらず、お時間をいただきありがとうございます」
「黒瀬先生の件でしょう」
蔵之助は最初からそう切り出した。
どうやら村では、私たちが黒瀬の死を調べていることが既に知られているらしい。
「ええ」
秋津は率直に答える。
「黒瀬さんが生前調べていたことを確認しております」
蔵之助は黙った。
しかし表情に変化はない。
何を考えているのか分からない男だった。
「先生は熱心でした」
やがてそう言った。
「村の歴史を残したいと考えとられた」
「こちらへも頻繁に?」
「何度も来られた」
蔵之助は苦笑した。
「古い帳面だの漁の記録だの、色々見せてほしいと言われましてな」
「見せたのですか」
「見せられるものは」
秋津はその返答を記憶したらしい。
さりげない一言だったが、
見せられないものもあった、
とも受け取れる。
「二十年前の事故についても?」
その瞬間だった。
蔵之助の目が僅かに動いた。
ほんの一瞬。
だが私は見逃さなかった。
「あれは事故です」
短い返答だった。
「それ以上でもそれ以下でもありません」
「村ではそう伝えられているようですね」
秋津は穏やかに言う。
すると蔵之助は無言になった。
沈黙が部屋を満たす。
どう見ても話したがっている空気ではない。
私は話題を変えようとした。
その時だった。
廊下の向こうで足音がした。
襖が開き、若い女性がお茶を運んでくる。
思わず目を奪われた。
二十代半ばほどだろうか。
長い黒髪。
色白の顔立ち。
海辺の村には似つかわしくないほど整った美貌だった。
「娘の澪です」
蔵之助が言った。
「白瀬澪と申します」
澪は静かに一礼した。
柔らかな物腰だった。
だがどこか近寄り難い雰囲気がある。
彼女はお茶を置こうとしたが、その時秋津が声を掛けた。
「少しだけお話を伺ってもよろしいですか」
澪は父親を見た。
蔵之助は黙って頷く。
「構いません」
澪は静かに席の端へ腰を下ろした。
「黒瀬先生とも面識がおありでしたか」
「ええ」
澪は頷く。
「父に会いに来られることが多かったので」
「どのような方でした」
「真面目な方でした」
一瞬考え、
「少し頑固でもありました」
と続けた。
「何かを調べ始めると止まらない方でしたから」
秋津が小さく笑う。
「それはよく分かります」
私は横目で秋津を見た。
自覚はあるらしい。
その時だった。
秋津が何気ない調子で言う。
「村では澪さんの噂も聞きました」
蔵之助が露骨に顔をしかめた。
一方、澪本人は平然としている。
「磯女ですか」
私が思わず口を挟く。
澪は小さく笑った。
「そうです」
まるで他人事のようだった。
「お気にならないんですか」
私が尋ねると、
「慣れました」
と澪は答えた。
「子供の頃から色々言われていますから」
「夜に海へ行かれるそうですね」
秋津が言う。
「よく行きます」
「危なくありませんか」
「危ないですよ」
澪はあっさり認めた。
「でも海を見るのが好きなんです」
そう言って窓の外へ目を向ける。
ちょうど遠くに御海が見えた。
「特に夜は好きです」
「なぜです」
秋津が尋ねる。
澪は少し考えた。
「静かだからでしょうか」
そして小さく続ける。
「夜の海は嘘をつきませんから」
その言葉が妙に印象に残った。
私には意味がよく分からない。
だが蔵之助は一瞬だけ娘を見た。
何かを気にするような目だった。
やがて澪は立ち上がる。
「失礼します」
そう言って部屋を出て行った。」
一瞬、私は言葉を失った。
蔵之助は苦い顔になる。
「馬鹿馬鹿しい話ですが」
「理由は」
「夜によく海辺へ行くのです」
私は思わず秋津を見た。
秋津も黙っている。
「黒潮岬にも現れる」
蔵之助は続ける。
「それを見た者が噂を始めましてな」
長い黒髪。
夜の海。
黒潮岬。
確かに条件だけ聞けば磯女の伝承そのものだった。
「ご本人は否定を?」
「気にもしておりません」
蔵之助は小さく溜息を吐いた。
「昔からあの子は海が好きなのです」
帰り際。
屋敷を出た私は思わず振り返った。
二階の窓際に人影が見えた。
澪だった。
こちらを見ているのか、海を見ているのか分からない。
長い黒髪だけが風に揺れていた。
その姿は奇妙なほど印象的だった。
屋敷を離れてから、私は言った。
「不気味な人ですね」
「澪さんですか」
「ええ」
「分かります」
秋津は珍しく否定しなかった。
「村人が噂するのも無理はありません」
私は少し安心した。
自分だけではなかったらしい。
「磯女ですか」
「そう考える人は多いでしょう」
秋津は歩きながら答える。
「もっとも」
「何です」
「人は見たいものを見るものです」
その言い方が気になった。
「信じていないんですか」
「まだ何とも」
秋津は海の方へ視線を向けた。
「ただ一つ言えるのは」
「はい」
「蔵之助さんは何かを隠しています」
私は思わず立ち止まった。
「やっぱり」
「ええ」
秋津は振り返らない。
「二十年前の事故の話になった途端、態度が変わりました」
「黒瀬さんが調べていたことと関係が?」
「あるでしょう」
冷たい風が吹いた。
遠くで波が砕ける音が聞こえる。
「事故を知っている」
秋津は静かに言った。
「そして話したくない理由も持っている」
私たちはそのまま港への坂道を下った。
背後では白瀬家の屋根が夕暮れの空に黒く浮かんでいる。
二階の窓際に人影が見えた。
澪だった。
長い黒髪が風に揺れている。
夕暮れの薄明かりの中で、その姿はどこか現実感に乏しかった。
もし村人があれを夜の海辺で見たなら。
磯女と噂するのも無理はないかもしれない。
その時の私はまだ、
白瀬蔵之助こそが事件の中心人物ではないかと考えていた。
第六章 御海異聞録
翌日の昼過ぎ、私たちは再び海神神社を訪れていた。
目的は『御海異聞録』である。
海崎宮司によれば、苓崎村で起きた海難事故や遭難、漂流などの出来事を記録した古文書らしい。
海神神社の蔵は相変わらず薄暗く、古い紙と墨の匂いが漂っていた。
海崎は慎重な手つきで一冊の和綴じ本を取り出す。
表紙には、
『御海異聞録』
と墨書されていた。
「こちらです」
海崎が机の上へ置く。
秋津は礼を言うと、早速頁を開いた。
私は横から覗き込む。
そこには年代ごとに村の海に関する出来事が記録されていた。
○年三月。
漁船一艘帰らず。
乗組員二名行方知れず。
○年七月。
暴風により小舟転覆。
死者一名。
○年九月。
漂着船確認。
乗員なし。
そんな記録が延々と続いている。
私は思わず顔をしかめた。
「ひたすら事故ばかりですね」
「海の記録ですから」
秋津は頁をめくりながら答えた。
「人は豊漁より災厄を記録に残したがるものです」
海崎が苦笑する。
「確かにそうかもしれません」
秋津は無言のまま読み進めていた。
その速さからすると内容をきちんと把握しているらしい。
私には信じられない芸当だった。
やがてその手が止まった。
「……なるほど」
小さな声だった。
私は顔を上げる。
「何かありましたか」
秋津は答えず、一点を見つめている。
私は視線を追った。
そこには不自然な空白があった。
「破れていますね」
頁の中央部分だけが無くなっている。
虫食いではない。
破損とも違う。
鋭利な刃物で切り取ったような跡だった。
秋津は前後の記述を確認した。
十一月十六日。
海穏やかなり。
(欠損)
十一月二十日。
鎮魂祭執行。
私は眉をひそめた。
「おかしいですね」
「ええ」
秋津は静かに頷く。
「非常におかしい」
さらに前後の頁を調べる。
すると欠損している部分だけが、ちょうど二十年前の冬に当たることが分かった。
私は思わず身を乗り出した。
「二十年前の事故の年ですか」
「そのようですね」
秋津は欠損箇所を指先でなぞる。
「偶然には見えません」
海崎も驚いた顔をしていた。
「私は存じませんでした」
「宮司さんの責任ではありません」
秋津は首を振った。
「かなり昔に切り取られています」
そして少し間を置いてから言った。
「誰かが消したのでしょう」
蔵の中が静まり返る。
遠くで風の音だけが聞こえていた。
私は欠けた部分を見つめた。
そこに何が書かれていたのか。
事故の詳細なのか。
名前なのか。
あるいは真相なのか。
分からない。
だが一つだけ分かることがあった。
消されたのだ。
誰かの意思で。
「黒瀬さんも、これを見たのでしょうか」
私が尋ねる。
秋津は少し考えた。
そして頁の余白を示した。
小さな鉛筆の書き込みが残っていた。
注意しなければ見落とすほどの文字である。
欠損以前の問題ではないか
別資料と照合要
その文字を見た瞬間、私は息を呑んだ。
「黒瀬さん?」
「おそらく」
秋津は頷く。
「筆跡から見て本人でしょう」
「ということは」
「彼も、この欠損に気付いた」
秋津は本を閉じた。
そして少しの間、考え込む。
「しかし面白いですね」
「面白くありませんよ」
「ええ。ですから興味深い」
私は嫌な予感しかしなかった。
秋津は続ける。
「誰かが記録を消した」
「はい」
「黒瀬さんはそれを発見した」
「はい」
「その後で死亡した」
蔵の中の空気が重くなる。
海難事故。
欠けた頁。
死んだ教師。
そして二十年前の出来事。
それまで別々に見えていたものが、少しずつ繋がり始めていた。
秋津は静かに立ち上がった。
「まだ足りません」
「何がです」
「記録です」
そう言って蔵の出口へ向かう。
「黒瀬さんは、この先まで辿り着いていたのでしょう」
「どこへ」
私が尋ねると、秋津は振り返った。
「事故の真相です」
そして小さく付け加えた。
「私たちも、もうすぐそこへ辿り着きます」
私も思い始めていた、欠けた頁の向こうに隠されていたものが、村人たちが二十年間守ろうとしてきた秘密ではないかと。
第七章 泣女磯
泣女磯は村の外れにあった。
黒潮岬へ続く海岸線の途中、波に削られた岩場が続く場所である。
空は曇っていた。
冬を迎えようとする海は鉛色に沈み、寄せては返す波だけが白く砕けている。
村人によれば、この岩場こそ磯女伝承の発祥の地らしい。
昔、海女が命を落とした。
それ以来、黒髪の女が現れる。
そう伝えられている。
もっとも、秋津はその話そのものよりも、伝承の成立過程に興味があるようだった。
「悲劇の起きた場所には話が残ります」
岩場を見下ろしながら言う。
「死者を忘れたくないからですか」
「それもあります」
秋津は足元の岩を確かめながら歩く。
「ですが、人は理由の分からない死にも物語を与えたがる」
波が岩に当たり、水飛沫が舞った。
「ただ死んだ、では終われないのです」
私は何となく御海を見た。
広い海だった。
帰らない者がいても不思議ではない。
だからこそ怪異が生まれるのかもしれなかった。
「真鍋さんという方は」
私が話題を変える。
「本当に話してくれるんでしょうか」
「分かりません」
「最近その答えばかりですね」
「分からないことを分かったとは言えませんから」
もっともな話だった。
やがて岩場の先に小さな人影が見えた。
老人だった。
古びた合羽を羽織り、波を眺めている。
真鍋源蔵。
二十年前の事故を知る最後の生き証人。
海崎宮司からそう聞いていた。
私たちが近づくと、老人は振り返った。
深い皺の刻まれた顔。
潮風と陽射しに晒され続けた漁師だった。
「真鍋さんですね」
秋津が声をかける。
老人は黙っている。
「物集院と申します」
返事はなかった。
「少しお話を伺いたいのですが」
なおも沈黙。
私は気まずくなった。
だが秋津は構わなかった。
こういう人に慣れている。
「二十年前の海難事故について調べています」
その瞬間だった。
老人の目がわずかに動いた。
しかしそれだけである。
「黒瀬史郎さんについても」
秋津は続ける。
「先生は亡くなった」
老人が初めて口を開いた。
低く、掠れた声だった。
「ええ」
「気の毒な人じゃ」
再び沈黙。
風の音だけが響く。
私は諦めかけた。
だが秋津はじっと老人を見ていた。
「黒瀬さんは事故の真相を調べていました」
老人は何も言わない。
「何かご存知ではありませんか」
長い沈黙が続く。
やがて老人は御海へ目を向けた。
その目は遥か昔の何かを見ているようだった。
「先生は掘り返しすぎた」
老人が呟く。
私と秋津は顔を見合わせる。
老人は続けた。
「埋めたもんを、また掘り返した」
「何をです」
秋津が尋ねる。
しかし返事はない。
代わりに老人は首を横へ振った。
「帰りなさい」
それだけだった。
「真鍋さん」
「帰りなさい」
頑なだった。
これ以上は無理だろう。
私がそう思った時だった。
老人がぽつりと呟く。
「皆、海のせいにした」
秋津の目が鋭くなる。
「海のせい?」
老人は御海を見ていた。
まるで誰に言うでもなく語る。
「海は何も奪っちゃおらん」
私は息を呑んだ。
秋津も黙ったまま老人を見る。
「真鍋さん、それはどういう――」
私が言いかけた時、老人は立ち上がった。
「もう話すことはない」
それだけ言って歩き去ってしまう。
呼び止めても振り返らなかった。
残されたのは私と秋津だけだった。
波の音が聞こえる。
冷たい風が吹いている。
しばらくして私は言った。
「意味が分かりませんね」
「ええ」
秋津は珍しく即座に答えた。
「ですが、とても興味深い」
やはりその言葉だった。
「海は何も奪っちゃおらん、ですよ」
「ええ」
秋津は岩場に視線を落とす。
「普通なら海難事故の生存者が言う言葉ではありません」
「何か違うんですか」
「海が奪ったならそうは言わない」
秋津は静かに続ける。
「むしろ海を庇っているようです」
私は思わず御海を見た。
相変わらず静かな海だった。
「つまり」
「少なくとも真鍋さんは」
秋津はゆっくりと言った。
「二十年前の事故を、単なる海難事故だと思っていない」
風が吹く。
遠くで鴎が鳴いた。
「海が奪わなかったのなら」
私は呟く。
「何が奪ったんでしょう」
秋津は答えなかった。
ただ御海の向こうを見つめている。
そして小さく言った。
「黒瀬さんは、そこへ辿り着いたのでしょう」
私は不意に背筋が寒くなった。
欠損した記録。
事故の真相。
老人の言葉。
それらが少しずつ繋がり始めている気がした。
だがまだ全体は見えない。
ただ一つ分かることがある。
二十年前、苓崎村で起きたのは、村人たちが語るような単純な海難事故ではなかった。
そして、その事実を知った者が二人いる。
黒瀬史郎と、目の前の老人である。
泣女磯を離れ、私たちは村へ戻ることにした。
日暮れが近い。
海はさらに暗い色へ変わり始めていた。
空はゆっくりと暮色に染まり始め、御海も昼間とは別の顔を見せていた。
波音だけが岩場に響いている。
ふと私は足を止めた。
少し先の岩場に誰か立っている。
細い人影だった。
長い黒髪が風に流れている。
暗くなりかけた海を背に、その姿だけがぼんやり浮かんで見えた。
私は思わず息を呑む。
一瞬。
本当に磯女を見たのではないかと思った。
「どうしました」
秋津が振り返る。
私は黙って人影を指差した。
秋津もそちらを見た。
その人影は微動だにせず海を見つめている。
寄せては返す波。
鉛色の空。
黒髪の女。
まるで『磯女縁起』の一節を見ているようだった。
やがて。
その人影がこちらへ顔を向けた。
「あら」
聞き覚えのある声だった。
白瀬澪である。
私は肩から力が抜けた。
「驚かせないでください」
思わずそう言ってしまう。
澪は少しだけ笑った。
「よく言われます」
「こんな時間に、こんな場所で何をしているんです」
「海を見ていました」
当然のような答えだった。
秋津が尋ねる。
「毎日ですか」
「毎日ではありません」
澪は御海へ目を向けた。
「でも時々来ます」
「好きなのですね」
「ええ」
短く答える。
しばらく沈黙が続いた。
やがて澪は静かに言った。
「海は怖いですけど」
風が髪を揺らした。
「嘘はつきませんから」
私は思わず真鍋の言葉を思い出した。
海は何も奪っちゃおらん。
なぜか同じ匂いのする言葉に感じた。
「村では磯女だと噂されているそうですね」
秋津が言う。
澪は苦笑した。
「聞きましたか」
「ええ」
「好きに言わせておけばいいんです」
その口調に怒りはなかった。
諦めとも違う。
まるで他人事だった。
「本当に磯女かもしれませんし」
私は思わず顔を上げた。
だが澪は冗談めかして笑っただけだった。
「そうしたら面白いでしょう?」
そう言い残し、彼女は岩場を離れていく。
夕暮れの中へ消えていく後ろ姿を見ながら、私は言った。
「やっぱり不気味な人ですね」
秋津は答えなかった。
ただ澪の消えた方向を見つめている。
「どう思います」
私が尋ねると、
「分かりません」
とだけ答えた。
「ですが」
「ですが?」
「村人が磯女を見たと言う理由は理解できました」
澪と別れ海望館への帰り道。
「そういえば」
「何です」
「宮崎商店はどちらでしょう 黒瀬先生の手帳に名前があります」
「乾物ですか」
「旅館の夕食まで少し時間がありますから」
理由になっているような、なっていないような説明だった。
私たちは港近くの宮崎商店という雑貨屋に入った。
店にいたのは四十過ぎくらいの女性だった。
派手さはない。
だが柔らかな物腰と落ち着いた雰囲気が印象に残る。
「いらっしゃいませ」
静かな声だった。
「東京からですか」
「ええ」
秋津が答える。
「物集院と申します。こちらは折口君です」
「ああ、やはり」
女性は小さく頷いた。
「黒瀬先生のことを調べていらっしゃるのでしょう」
村では既に噂になっているらしい。
「あの、申し遅れました」
女性は会釈した。
「この店をやっております宮崎文江と申します」
「宮崎さん」
「はい」
文江は穏やかに微笑んだ。
「黒瀬先生には村史のことで何度かお世話になりました」
「親しかったのですか」
「それほどではありません。でもよくここへ買い物にいらっしゃっていました」
文江は小さく笑う。
「良い先生でした」
私は何気なく尋ねた。
「ご家族は?」
一瞬。
ほんの一瞬だけ。
文江の笑みが消えた。
「主人はもうおりません」
「失礼しました」
「いいえ」
文江は静かに首を振る。
「昔、海で亡くなりましたので」
第八章 海妖鎮め
翌朝、私たちは再び海神神社を訪れていた。
目的は最後の一冊、
『海神神社大祭覚書』
である。
海崎宮司はすでに私たちの調査に協力的になっていた。
「こちらになります」
蔵の奥から運ばれてきたのは、分厚い帳面だった。
過去の祭礼運営を記録した神職の日誌である。
見た目は地味だった。
少なくとも『磯女縁起』のような怪異譚もなければ、『御海異聞録』のような事故記録でもない。
私は正直なところ、
「祭りの帳面ですよね」
と思った。
すると秋津が頷く。
「その通りです」
「それが重要なんですか」
「重要です」
即答だった。
「祭りというものは、その土地の人間が何を恐れ、何を願ったかを残します」
そう言って帳面を開く。
海崎も横から覗き込んでいた。
記録は淡々としていた。
明治二十六年。
豊漁祈願執行。
明治二十七年。
奉納船三艘。
明治二十八年。
雨天のため神事縮小。
そんな内容ばかりである。
私は次第に眠くなってきた。
しかし秋津は違った。
頁をめくる速さが徐々に遅くなっていく。
何かを探している。
そして不意に手が止まった。
「ここです」
私は身を乗り出した。
秋津の指先が示しているのは、二十年前の記録だった。
十一月二十日。
溺死三名。
鎮魂祭執行。
白瀬家より奉納あり。
「事故の後ですね」
私が言うと、
「ええ」
秋津は頁をめくった。
翌年。
海妖鎮めの神事を新たに加う。
さらに翌年。
例年通り海妖鎮め執行。
その翌年も。
海妖鎮め継続。
その後も毎年続いていた。
私は首を傾げる。
「何かおかしいですか」
「おかしいですね」
秋津は静かに答えた。
「非常に」
海崎も帳面を見る。
「どういうことでしょう」
秋津は前後の頁を比較した。
「それ以前に海妖鎮めという神事はありません」
私は記録を遡って確認した。
確かに存在しない。
一度も書かれていない。
突然現れ、以後二十年間続いている。
「事故の後に始まっている」
「その通りです」
秋津は言った。
「そして、これは偶然ではない」
蔵の中が静かになる。
秋津は帳面を閉じた。
「『磯女縁起』では磯女が変化していました」
「死者の嘆きから、人を襲う妖怪へ」
私が答える。
「ええ」
「『御海異聞録』では」
「事故の記録が消されていた」
「その通りです」
秋津は頷いた。
そして目の前の帳面を軽く叩く。
「ここでは事故の翌年から、新たな神事が始まっている」
私は少しずつ理解し始めていた。
「全部同じ出来事に繋がっている」
「そう考えるべきでしょう」
秋津は立ち上がる。
窓の外では海風が木々を揺らしていた。
しばらく黙っていた彼は、やがて静かに言った。
「何かが起きた」
その声は独り言のようだった。
「二十年前、この村で」
そして続ける。
「それを境に伝承が変わった」
私は『磯女縁起』を思い出した。
海で死んだ者。
帰らなかった者。
それがいつしか人を襲う怪異になった。
「つまり」
「村が怪異を必要としたのです」
秋津はそう断言した。
「怪異を必要とした?」
私は思わず聞き返した。
彼は窓の向こうの御海を見つめる。
「事故を説明するためかもしれない」
「隠すためかもしれない」
「忘れるためかもしれない」
そして振り返った。
「ですが、人は必要のない怪異を二十年間も語り継ぎません」
その時だった。
蔵の戸が開く音がした。
海崎宮司が振り返る。
「おや」
入ってきたのは野間正治だった。
駐在所の巡査は私たちを見ると小さく会釈する。
「また神社ですか」
「ええ」
秋津が答える。
「こちらは仕事ですので」
野間は少し苦笑した。
「妖怪調べですか」
「村の歴史調べです」
秋津は平然としている。
「似たようなものでしょう」
「私としては全く違います」
二人のやり取りを見ていると、どうも相性は悪くないらしい。
ただし考え方は違う。
野間は机上の『海神神社大祭覚書』へ目を落とした。
「何か分かりましたか」
「興味深いことが一つ」
秋津は帳面を開く。
「事故の翌年から海妖鎮めの神事が始まっています」
野間は記録を眺めた。
「それで?」
「それ以前には存在しません」
「だから?」
秋津は少し笑う。
「つまり事故が海妖伝承を変えた可能性があります」
野間は腕を組んだ。
「私はそうは思いませんね」
私と秋津は顔を向ける。
「なぜです」
「逆でしょう」
野間は即答した。
「事故があった」
「はい」
「だから村人が理由を探した」
「ええ」
「そして海妖という噂が広まった」
それだけだ、と言いたげだった。
「人は死を説明したがる」
野間は続ける。
「そこまでは分かります」
「ですが」
野間は秋津を見る。
「それで誰かが殺された理由にはなりません」
秋津の目が細くなる。
「黒瀬さんですか」
「ええ」
野間は頷いた。
「私は最初から人間を疑っています」
静かな口調だった。
「事故の記録が消された」
「村人が何かを隠している」
「そこまでは私も同意します」
そして一拍置く。
「ですが妖怪や伝承を追いかけても犯人は出てこない」
「そうでしょうか」
秋津も譲らない。
「では先生はどう考えるんです」
野間が訊く。
秋津は窓の外の御海へ目を向けた。
「人は理由もなく伝承を書き換えません」
「書き換えた?」
「『磯女縁起』です」
秋津は静かに言う。
「死者の嘆きだった磯女が、人を襲う怪異へ変わっている」
「だから?」
「その変化には意図があります」
蔵の中が静かになる。
秋津は続けた。
「誰かが怪異を必要とした」
「私は逆だと思います」
野間が言う。
「誰かが罪を犯した」
「そして怪異を利用した」
今度は秋津が黙った。
しばらくして、小さく笑う。
「なるほど」
「何です」
「結論は同じかもしれません」
野間が眉を上げた。
「同じ?」
「ええ」
秋津は帳面を閉じる。
「違う道を歩いているだけです」
野間も少し考え、
「それはあるかもしれませんね」
と言った。
私は二人を見比べた。
野間は最初から人間を追っている。
秋津は怪異の変化を追っている。
だが、向かっている先は同じなのかもしれない。
黒瀬史郎を死なせた人間。
そして二十年前の事故の真相。
海妖。
磯女。
海妖鎮め。
今まで別々だったものが一つの形になり始めている。
そしてその中心には、二十年前の事故があった。
秋津は帽子を取り上げた。
「次は隠れ浦へ行きましょう」
「黒瀬さんが調べていた場所ですね」
「ええ」
彼は淡々と答える。
「おそらく、そこに残りの欠片があります」
私は帳面へ目を落とした。
事故の翌年。
突然始まった海妖鎮め。
それは鎮魂だったのか。
償いだったのか。
あるいは罪の隠蔽だったのか。
まだ分からない。
だが確かなことが一つだけあった。
黒瀬史郎はここまで辿り着いていた。
そしてその先にある何かを見つけたのである。
野間と別れた後、私たちは神社の石段を下り始めた。
境内は妙に賑やかだった。
村人たちが縄を張り、提灯を運び、何やら祭りの準備をしている。
「海妖鎮めでしょうか」
私が呟くと、海崎宮司が頷いた。
「明後日ですからな」
二十年前に始まり、今も続いている祭り。
その光景を見ながら私は複雑な気分になった。
本当に海妖を鎮めるためなのか。
それとも別の何かのためなのか。
その時だった。
「あら、先生方」
聞き覚えのある声がした。
振り向くと、宮崎文江だった。
先日訪れた宮崎商店の女主人である。
文江は村人たちに交じり、祭具らしい箱を運んでいた。
「宮崎さんも準備を?」
私が尋ねる。
「ええ」
文江は穏やかに笑った。
「毎年やっておりますので」
そう言って境内を見回す。
「もう二十年になります」
私は思わず秋津を見た。
二十年。
ちょうど例の事故から続いている年月だった。
秋津もそれに気付いたらしい。
「それほど大切な祭りなのですか」
文江は少しだけ考えた。
「ええ」
そして静かに答える。
「これがないと落ち着かない人もおりますから」
その言葉が妙に心に残った。
理由は分からない。
ただ、文江の声には単なる祭り好きの村人とは違う響きがあった。
まるで自分自身に言い聞かせているような。
そんな声だった。
「海妖を信じておられるのですか」
秋津が尋ねる。
文江は困ったように笑った。
「さあ」
そして御海の見える方へ目を向ける。
「でも、人は信じたいものを信じて生きておりますから」
風が吹いた。
提灯が小さく揺れる。
文江は一礼すると、再び祭りの準備へ戻っていった。
その後ろ姿を見送りながら、私は何となく言った。
「熱心な方ですね」
「ええ」
秋津は短く答えた。
だが、その視線は文江の背中を追っていた。
「どうしました」
私が尋ねると、
「いえ」
秋津は首を振る。
「少し気になっただけです」
そして石段の先に広がる御海を見つめた。
「二十年、ですか」
第九章 隠れ浦
隠れ浦は苓崎村の北端にあった。
地図にも小さく記されているだけの入り江である。
陸側は切り立った崖に囲まれ、海側からでなければ存在が分かりにくい。
なるほど、と私は思った。
隠れ浦という名は伊達ではないらしい。
「船を隠すには都合が良さそうですね」
私が言うと、秋津は周囲を見回した。
「黒瀬さんも同じことを考えたのでしょう」
足元には古い船着場の跡が残っていた。
今は使われていない。
しかし、かつては小舟が出入りしていたことを思わせる痕跡がある。
崖下には朽ちた杭も見えた。
秋津はしゃがみ込み、地面を調べている。
「何かありますか」
「少なくとも漁師の休憩所ではなさそうです」
「それは分かります」
「人目を避けたい者には都合が良い場所です」
私は何となく二十年前の事故を思い出した。
そして黒瀬の手帳にあった文字を。
隠れ浦。
再調査必要。
彼は何を見つけたのだろう。
その時だった。
「先生!」
背後から声がした。
振り返ると野間正治だった。
駐在巡査は息を切らせながら近付いてくる。
「やはりここでしたか」
「私たちを探していたのですか」
秋津が尋ねる。
「ええ」
野間は頷いた。
「海崎宮司から聞きました」
そう言って周囲を見回す。
「どうしてこんな場所へ?」
「黒瀬さんの手帳です」
秋津は黒い革手帳を取り出した。
「この場所を何度も調べていた」
野間は手帳を見つめた。
「なるほど」
だが表情は浮かない。
「私は先生方とは違う考えです」
「事故説ですか」
「いいえ」
野間は首を横に振った。
「それはもう半分捨てています」
私は思わず顔を見た。
「では」
「最初から人間がやったと考えるべきです」
野間は真顔だった。
「事故も黒瀬先生の死も」
秋津は黙っている。
野間は続けた。
「記録が消されている」
「はい」
「村人が口を閉ざしている」
「ええ」
「なら誰かが隠しているんです」
それが野間の考えだった。
「怪異ではなく人間です」
「それについては私も異論はありません」
秋津は静かに答えた。
野間は眉をひそめる。
「ならなぜ妖怪を追うんです」
その言葉には少し苛立ちが混じっていた。
秋津は笑う。
「追っているのは妖怪ではありません」
「なら何です」
「妖怪が必要になった理由です」
野間は溜息を吐いた。
「遠回りですよ」
「そうかもしれません」
「犯人を見つけるなら人を調べるべきです」
野間は断言した。
「伝承は人を殺しません」
秋津は少し考えた。
そして答える。
「ですが伝承を作るのは人です」
二人はしばらく見つめ合った。
私は慌てて口を挟む。
「結局どちらなんです」
「どちらもでしょう」
秋津が答えた。
「人間の罪があり、その上に怪異が作られた」
野間は黙る。
だが否定もしなかった。
その時だった。
崖の陰で秋津が何かを見つけた。
「折口君」
私は呼ばれて駆け寄った。
岩の隙間に古びた木箱が挟まっている。
半ば朽ちているが、人為的に隠されたものに見えた。
野間も眉をひそめる。
「開けますか」
「ええ」
中には紙束が入っていた。
潮風で痛んでいたが、文字は読める。
秋津が慎重に広げる。
「これは……」
黒瀬の筆跡だった。
私は思わず息を呑んだ。
そこには調査結果らしい内容が走り書きされている。
隠れ浦使用の証拠あり
事故当日出港記録なし
漁獲記録も存在せず
そして最後に、強く書き殴られた一文があった。
海難事故ではない
密漁だった
沈黙が落ちた。
波音だけが聞こえる。
私の頭の中で何かが繋がった。
二十年前の事故。
消された記録。
口を閉ざす村人。
突然始まった海妖鎮め。
全てが一つの方向を向き始めている。
「密漁……」
私が呟く。
野間が低い声で言った。
「なるほど」
その顔から余裕が消えていた。
「そういうことか」
秋津は黙って紙を見つめている。
「事故ではなく」
私は続ける。
「密漁船が転覆したんですか」
「おそらく」
秋津が答えた。
「そして、その事実が隠された」
野間は険しい表情で海を見た。
「密漁が発覚すれば村全体の問題になる」
警察官らしい視点だった。
「だから事故にした」
「あるいは海妖にした」
秋津が静かに言う。
野間は反論しなかった。
私は御海へ目を向けた。
冷たい風が吹いている。
二十年前の嵐の夜。
ここから船が出たのだろうか。
そして、その事実を黒瀬史郎は掘り当てた。
私は不意に、真鍋源蔵の言葉を思い出した。
海は何も奪っちゃおらん
あの言葉の意味が、ようやく見え始めていた。
海ではなかった。
少なくとも全てではなかった。
人間が関わっていたのだ。
秋津は黒瀬のメモを丁寧に畳んだ。
そして静かに言った。
「事件が動きましたね」
その声に高揚はなかった。
ただ確信だけがあった。
二十年間埋められていた秘密は、もう隠し切れなくなっていたのである。
第十章 最後の証言
隠れ浦から戻った翌日。
私たちは再び真鍋源蔵を訪ねていた。
前回と同じ岩場だった。
空は重く曇っている。
御海は静かだった。
だが、その静けさは嵐の前触れにも見えた。
真鍋は私たちを見ると深い溜息を吐いた。
「また来たか」
「ええ」
秋津は頷いた。
「今度は少し話が違います」
そして黒瀬のメモを差し出した。
海難事故ではない
密漁だった
真鍋の顔色が変わった。
長い沈黙が流れる。
やがて老人は観念したように海へ目を向けた。
「見つけてしもうたか」
掠れた声だった。
「黒瀬先生は正しかったのですね」
秋津が言う。
真鍋はゆっくり頷いた。
「先生はあと少しだった」
私は思わず身を乗り出した。
「何があったんです」
真鍋はしばらく答えなかった。
やがて遠い昔を見るような目になる。
「二十年前じゃ」
静かな声だった。
「若い漁師が何人かおった」
波が岩を叩く。
「魚が獲れん年でな」
老人は続けた。
「皆、生活に困っておった」
「その者たちが密漁を?」
秋津が尋ねる。
真鍋は頷いた。
「そうじゃ」
その言葉は重かった。
「網元の許しもない」
「漁協の許可もない」
「勝手な密漁じゃった」
私は黙って聞いていた。
「隠れ浦から夜中に船を出した」
真鍋は続ける。
「それが何度も続いた」
「事故の日も」
「そうじゃ」
老人の目が伏せられる。
「その晩は天気が崩れる兆しがあった」
遠くで波が砕けた。
「わしは止めた」
「だが誰も聞かんかった」
しばらく沈黙が続く。
そして。
「嵐になった」
その一言だけだった。
私は目を閉じた。
真っ暗な海。
小さな船。
荒れる波。
容易に想像できた。
「船は転覆した」
真鍋は静かに言う。
「数人が死んだ」
「その中に」
老人は苦しそうに息を吐いた。
「宮崎文江の亭主もおった」
私は息を呑んだ。
脳裏に宮崎商店の穏やかな女主人の顔が浮かぶ。
『昔、海で亡くなりましたので』
あの言葉が蘇った。
秋津も何も言わない。
真鍋は続けた。
「文江はまだ若かった」
「子もおらんかった」
「それでも泣きもせず……ただ海ばかり見ておった」
風が吹いた。
老人の声が少し震えていた。
「白瀬さんは?」
秋津が尋ねる。
真鍋はゆっくり頷く。
「知っとった」
その言葉に私は顔を上げた。
「密漁を」
「うむ」
「止められなかった」
真鍋はそう言った。
「網元として責任を感じとった」
遠い海を見つめる。
「だが全部明るみに出れば村は終わる」
「漁師も遺族も路頭に迷う」
「だから黙った」
私は唇を噛んだ。
「事故にしたんですか」
「そうじゃ」
老人は頷く。
「皆でな」
事故。
嵐。
不運な海難。
そういうことにした。
「そして時が経った」
真鍋は呟く。
「誰も口にせんようになった」
「海が連れて行ったことになった」
秋津が静かに言う。
真鍋は苦々しく笑った。
「そうじゃ」
「いつの間にかな」
老人は御海を見る。
「海妖に連れて行かれた」
「磯女にさらわれた」
「そんな話になっていった」
私は『磯女縁起』を思い出した。
死者の嘆きだった怪異。
事故の後、人を襲う妖怪へ変わった怪異。
全て繋がっていた。
「誰かが作ったのではない」
秋津が呟く。
「皆でそう信じるようになった」
「その方が楽だったからじゃ」
真鍋は答えた。
そして苦しそうな顔をする。
「本当は海のせいではなかった」
私は静かに聞いていた。
「欲じゃ」
老人は言った。
「人間の欲が船を沈めた」
風が吹く。
御海は相変わらず静かだった。
「だからわしは言ったんじゃ」
真鍋は私たちを見る。
「海は何も奪っちゃおらん」
その瞬間。
あの日の言葉の意味がはっきり理解できた。
海ではなかった。
密漁だった。
人間の判断だった。
人間の罪だった。
そして村はその罪を怪異へ押し付けたのである。
長い沈黙の後、秋津が口を開いた。
「黒瀬さんは、ここまで辿り着いたのですね」
真鍋はゆっくり頷いた。
「ああ」
「だから死んだ」
その言葉に私と秋津は顔を見合わせた。
事故の真相は見えた。
だが、黒瀬史郎の死はまだ説明できない。
真鍋は最後に小さく言った。
「先生は最後にこう言っとった」
老人の目が遠くを見る。
「これで終わりじゃない、と」
私は背筋に冷たいものを感じた。
終わりではない。
つまり黒瀬は、密漁事故の先にある何かへ気付いていたのだ。
そしてそれこそが、彼を死へ導いた真実だったのである。
第十一章 磯女
海妖鎮めの祭りの夜だった。
海神神社の境内には提灯が灯され、人々が静かに集まっている。
だが、その場に漂っていたのは祭りの賑わいではなかった。
長く隠されてきた何かが暴かれる直前の、重苦しい沈黙である。
海崎宮司。
白瀬蔵之助。
野間正治。
宮崎文江。
真鍋源蔵。
そして私たち。
関係者は皆、拝殿の前に集まっていた。
風が吹く。
遠くで御海の波音が聞こえた。
秋津は一歩前へ出る。
「ようやく繋がりました」
静かな声だった。
「二十年前から続いていた、一つの物語が」
誰も口を開かなかった。
秋津は続ける。
「最初に違和感を覚えたのは『磯女縁起』です」
その名に数人が顔を上げる。
「古い記録では磯女は死者でした」
「海で帰らなくなった者」
「海で命を落とした者」
「その嘆きや未練を語る存在です」
そして一拍おく。
「ところが二十年前以降の記録では違う」
静かな声が境内へ響く。
「磯女は人を襲う怪異になっていた」
野間が腕を組む。
文江は俯いたままだった。
「次に『御海異聞録』です」
秋津は続ける。
「事故の年だけ記録が切り取られていた」
「誰かが消した」
「意図的に」
白瀬蔵之助が目を閉じる。
「さらに『海神神社大祭覚書』」
「事故の翌年から海妖鎮めが始まる」
静かに周囲を見渡す。
「つまり事故を境に」
「伝承も」
「記録も」
「祭りも」
「すべてが変化している」
私は息を呑んだ。
何度も聞いてきた話だ。
だが今は違う。
全てが一つになっている。
「そして隠れ浦」
秋津が言う。
「黒瀬さんは真実へ辿り着いた」
誰も動かない。
「事故ではなかった」
「密漁だった」
重い沈黙が落ちた。
「密漁船が嵐で沈んだ」
「数人が死亡した」
「その中には宮崎さんのご主人もいた」
文江の肩が小さく震えた。
「白瀬さんは事実を知っていた」
秋津は蔵之助を見る。
「ですが村を守るため沈黙した」
蔵之助はゆっくり頷く。
「その通りです」
掠れた声だった。
「わしは黙った」
誰も責めなかった。
「そして村は真実を忘れた」
「代わりに怪異が生まれた」
「海妖に連れて行かれた」
「磯女にさらわれた」
「そう語るようになった」
秋津は静かに言う。
「怪異は嘘ではありません」
「人々が必要とした物語です」
境内が静まり返る。
その時だった。
秋津がゆっくりと振り返る。
「ですが黒瀬さんは、それを掘り返した」
文江の肩がさらに震えた。
「記録を調べ」
「隠れ浦を調べ」
「事故の真相を知った」
風が吹いた。
「そして、もう一つ気付いた」
私は秋津を見た。
犯人が誰なのか。
彼は既に知っている。
「黒瀬さんを殺した人間です」
長い沈黙。
そして秋津は静かに言った。
「宮崎文江さん」
文江が顔を上げた。
誰も声を出さない。
だが否定する者もいなかった。
「黒瀬さんは真相を公表しようとしていた」
秋津は続ける。
「それは密漁の事実だけではない」
「あなたのご主人が、事故ではなく密漁によって命を落としたという真実です」
文江の唇が震える。
「違う……」
小さな声だった。
「先生は、それを知らせようとした」
秋津は静かだった。
「そうすれば二十年間支えてきた物語が壊れる」
文江が首を振る。
「違う……」
「だから岬で突き落とした」
その瞬間だった。
文江が崩れるように膝をついた。
嗚咽が漏れる。
誰も動けなかった。
「違う……」
同じ言葉を繰り返している。
やがて顔を覆ったまま泣き始めた。
「違うんです……」
その声は悲鳴のようだった。
「私は……」
嗚咽が続く。
「私は……」
長い沈黙の後。
文江はようやく顔を上げた。
涙で濡れた顔だった。
「あの人は海に連れて行かれたんです」
誰も何も言わない。
「そう思わなければ……」
声が震える。
「そう思わなければ生きてこられなかったんです」
私は目を伏せた。
二十年。
長すぎる時間だった。
「密漁だったなんて」
「欲に負けただなんて」
「そんなこと認めたら」
文江の声が途切れる。
「何のために待っていたのか分からなくなるじゃないですか……」
涙が地面へ落ちる。
「私はずっと」
「海に連れて行かれたんだと」
「磯女に連れて行かれたんだと」
「そう思ってきたんです……」
秋津は黙って聞いていた。
責めようとはしない。
「黒瀬先生は良い人でした」
文江が言う。
「だから何度もやめてくださいと言いました」
声が掠れる。
「でも先生は調べるのをやめなかった」
そして顔を覆う。
「だから……」
その先は言葉にならなかった。
境内には波音だけが響いている。
秋津が静かに帽子を取り、目を閉じた。
「物語は人を救います」
誰に向けた言葉なのか分からなかった。
「ですが時に、人を縛ることもある」
文江は泣き続けている。
その姿を見ながら私は思った。
磯女は最初から存在していたのかもしれない。
海に潜む妖怪としてではない。
帰らない者を待ち続ける人々の悲しみとして。
忘れられない記憶として。
手放せなくなった物語として。
御海の彼方から吹く風が、静かに境内を通り過ぎていった。
終章 海妖
海妖鎮めの祭りは静かに行われた。
派手な囃子もない。
賑やかな屋台もない。
村人たちはただ海辺へ集まり、一つひとつ灯を流していく。
小さな灯は波間に揺れながら沖へ流れていった。
やがて幾つもの光が御海の上に散らばる。
まるで星空が海へ降りたようだった。
私はその光景を黙って見つめていた。
少し離れた場所では宮崎文江が海を見ている。
昨日までとは違う姿だった。
肩を落とし、ただ立ち尽くしている。
もう磯女を信じているようには見えなかった。
だが、だからといって救われたようにも見えない。
二十年という歳月はあまりにも長い。
人はそんな簡単に過去を手放せない。
秋津は隣で海を見つめていた。
「磯女はいたのでしょうか」
私は訊ねた。
秋津はすぐには答えなかった。
灯が一つ、沖へ流れていく。
しばらくしてから静かに口を開いた。
「いたのでしょう」
私は顔を向ける。
「本当に?」
「ええ」
秋津は頷いた。
「ただし妖怪ではありません」
波の音が聞こえる。
「帰らなかった者がいた」
「待ち続けた者がいた」
「忘れられなかった者がいた」
秋津は遠くの灯を見つめた。
「その悲しみが形になったものです」
風が吹く。
「人は説明のつかない喪失に耐えられません」
「だから物語を作る」
「だから怪異を生む」
そして小さく続ける。
「磯女とは、そういうものだったのでしょう」
私は文江の姿を思い出した。
夫を失った若い妻。
二十年間。
海に連れて行かれたと信じ続けた人。
真実は彼女を救わなかった。
だが嘘もまた彼女を幸せにはしなかった。
それでも人は生きるために物語を必要とする。
そのことだけは理解できる気がした。
翌朝。
私たちは帰路についた。
港には冷たい風が吹いていた。
冬の海はどこまでも静かだった。
船が岸を離れる。
港が少しずつ遠ざかっていく。
私は何気なく秋津を見る。
すると彼は珍しく上機嫌だった。
「何か良いことでもありましたか」
「あります」
即答だった。
膝の上には大きな風呂敷包みが乗っている。
嫌な予感しかしない。
「まさか」
「海崎さんから頂きました」
秋津は実に嬉しそうに風呂敷包みを撫でた。
「『磯女縁起』の写しです」
やはりだった。
「それだけではありません」
まだあるらしい。
「『御海異聞録』の関連資料」
「『海神神社大祭覚書』の筆写」
「それから黒瀬さんの調査記録の写しも」
私は思わず頭を抱えた。
「荷物が増えているじゃないですか」
「大変貴重な資料です」
「その顔を見る限り、事件解決より嬉しそうですよ」
「そうかもしれません」
否定しなかった。
私は思わず苦笑した。
一葉館へ帰ったら、きっと大家の桐野トメさんが呆れた顔をするだろう。
玄関先で風呂敷を見つけるなり、
「また増えたんですか」
と眉をひそめるに違いない。
そして秋津は真顔のまま、
「貴重な資料です」
と答えるのだ。
するとトメさんは決まって、
「前もそう仰ってましたよ」
と返す。
そんなやり取りが容易に想像できた。
私は少し笑みを浮かべた。
人が一人死に、一つの村の秘密が明らかになった。
その帰り道に古文書を抱えて満足そうにしている。
いかにも秋津らしかった。
船が沖へ出る。
私は万年筆を取り出した。
手帳を開く。
波の向こうには天草の島影が霞んでいる。
今回の出来事を書き留めておこうと思った。
最初の一行を書きながら、私はふと文江の泣き顔を思い出した。
そして静かに文字を綴る。
妖怪は罪を犯さない。
罪を犯すのは、いつも人間だ。
冬の海風が頁を揺らした。
御海は何も語らない。
ただ静かに広がっていた。
秋津と折口の事件簿をお読みいただきありがとうございました!感想を簡単でももらえるとうれしいです。




