第4話 雪解けの誓い
「アリアッ!! アリア、どこだ!! 頼む、返事をしてくれ!!」
吹き荒れる猛吹雪の中、王者の絶叫が真っ白な闇に吸い込まれていく。
アレクシスは、防寒着すら羽織らぬスーツ姿のまま、膝まで埋まる深い雪をラッセルするようにして狂ったように走り続けていた。
顔を打ち据える氷の粒が皮膚を切り裂き、手足の感覚はとうに失われている。
だが、そんな肉体的な苦痛など、今の彼にとってはひどくちっぽけなものだった。
『あなたより、裕福な方を選ぶわ。さようなら、貧しい騎士様』
『――そうでも言わなければ、誇り高いあなたが、彼女の犠牲を受け入れるはずがなかったからです!!』
老弁護士の悲痛な叫びが、呪いのように脳内で木霊し続けている。
(ああ……あああっ!!)
アレクシスは雪に足を取られ、無様に転倒した。
顔が冷たい雪に埋まる。かつて氷雪の公爵と恐れられ、誰に対しても冷酷に振る舞ってきた男の威厳など、そこには微塵もなかった。
五年前。彼女は、借金取りに追われ、後ろ指を指されながら、たった一人でどんな地獄を生きてきたというのか。
自分の命と人生をすべて売り払い、俺の命を買い戻した。そして、俺が卑屈にならないように、あえて悪女の汚名を被り、俺の憎しみを一身に受け止めていた。
それなのに、俺は。
立派な公爵の座にふんぞり返り、暖炉の効いた暖かい部屋で酒を飲みながら、ボロボロになった彼女をあざ笑った。
あかぎれで血を流す彼女の手を見下ろし、「俺の足元で雑巾がけをするのがお似合いだ」と吐き捨てたのだ。
「う、あ……ぁぁぁぁッ!!」
アレクシスは、凍りついた雪の上に四つん這いになり、獣のような慟哭を上げた。
己の心臓を、自らの手で抉り出したいほどの激しい自己嫌悪と絶望。
彼女の愛の深さと、己のあまりにも残酷な愚かさが、彼を狂気の発作へと追い込んでいた。
❇❇❇
「アリア! 俺が間違っていた! 俺が愚かだった!! 頼む、どこにいるんだ!!」
立ち上がり、再び吹雪の中をよろめきながら進む。
視界は最悪だった。高熱を出していた彼女の足取りで、そう遠くへは行けないはずだ。屋敷から続く使用人用の裏道の先、鬱蒼と茂る針葉樹林の入り口付近。
不意に、真っ白な雪の絨毯の中に、微かに黒い染みのようなものが見えた。
「――っ!!」
アレクシスの心臓が、大きく跳ねた。
嘘だろ。嘘だと言ってくれ。
彼は弾かれたように駆け出し、その黒い染みの前へ倒れ込むようにして膝をついた。
それは、薄い粗末なメイド服の布地だった。
雪に半ば埋もれるようにして、アリアが丸く縮こまって倒れていたのだ。
「アリア!!」
アレクシスは震える両手で雪を掻き分け、彼女の体を抱き起こした。
その軽さに、戦慄が走る。
五年前はあんなにも柔らかく、花のようだった彼女の体は、枯れ枝のように痩せ細っていた。
「アリア、目を開けてくれ! 俺だ、アレクシスだ!!」
彼女の頬を叩くが、反応はない。
その顔は雪のように蒼白で、唇は完全に血の気を失っている。アレクシスは素手で彼女の冷え切った頬を包み込み、自らの体温を与えようと必死に擦った。
ふと、彼女の胸元に組まれていた両手が、アレクシスの視界に入った。
それは、ひび割れ、あかぎれで傷だらけになり、凍傷で変色しきった、痛ましいほどに無惨な手。
かつて、彼が「春の風のようだ」と愛した、ピアノを弾くための美しい手は、彼自身の身勝手な復讐と過酷な労働によって、完全に破壊されていたのだ。
「ああ……っ、俺が、俺が君の手を……」
アレクシスは、彼女の傷だらけの指先を自らの頬に押し当て、声を上げて泣き崩れた。
「すまない、すまないアリア……!! 俺を殴ってくれ、俺を罵ってくれ!! 君をあんなにも傷つけた、この愚かな俺を殺してくれ!!」
公爵としての矜持も、男としてのプライドも、すべて雪の中に投げ捨てた。
彼は、ただ愛する女を失う恐怖に支配された一人の哀れな男として、泥と雪にまみれながら懺悔の言葉を叫び続けた。
❇❇❇
「……ん……」
その時。
アリアの青ざめた唇から、ひどく微かな、消え入るような吐息が漏れた。
まつ毛が震え、うっすらと、焦点の合わない瞳が開かれる。
「アリア!? アリア、わかるか!!」
アレクシスは弾かれたように顔を上げ、彼女の体を強く抱きしめた。
アリアは、霞む視界の中で、狂乱して涙を流すアレクシスの顔を捉えると、ひどく不思議そうに眉を寄せた。
「……アレク、シス、様……?」
高熱と凍える寒さで、彼女の意識はすでに生と死の境界を彷徨っていた。
目の前にいるのが本物の彼だとは認識できていないのだろう。アリアは、まるで幻を見ているかのように、凍りついた指先を微かに動かした。
「……どうして、泣いて、いらっしゃるの……」
「アリア! 俺だ、悪かった、すべて俺が悪かったんだ!!」
「……泣かないで……。私の、たった一人の……誇り高き、騎士、様……」
アリアは、彼を突き放すでもなく、恨み言を言うでもなく。
ただ、五年前とまったく同じ、深い慈愛に満ちた微笑みを浮かべた。
「あなたが……生きているだけで……私は、幸せ、だったのよ……」
その、遺言のような言葉を最後に。
アリアの体からふっと力が抜け、その細い腕が、アレクシスの腕の中から雪の上へと力なく滑り落ちた。
「……アリア?」
呼吸が、止まった。
「アリア!! 嘘だろ、待ってくれ!! 逝くな!! 俺を置いていかないでくれェェェェッ!!!」
猛吹雪の森に、王者の絶望の叫びが木霊する。
アレクシスはアリアの体を抱きかかえたまま、天を仰いで狂ったように絶叫した。
自らのジャケットを脱ぎ捨てて彼女の冷たい体を包み込み、アレクシスは彼女を腕に強く抱き直した。
「死なせない……絶対に死なせるものか。悪魔に魂を売ってでも、俺が君を現世に繋ぎ止めてみせる!!」
彼は血の滲むような決意で立ち上がった。
そして、愛する人の冷え切った体を胸に抱いたまま、猛吹雪の中を、自らの命を削るような足取りで屋敷へと向かって歩き出した。
「医者を呼べッ!! 今すぐ、領内で一番腕の立つ医者を連れてこい!!」
深夜の公爵邸に、猛吹雪の音をも切り裂くようなアレクシスの怒号が響き渡った。
エントランスの重厚な扉が蹴り開けられ、雪まみれになった公爵が、ぐったりとしたメイドの体を抱きかかえて飛び込んでくる。その常軌を逸した剣幕に、深夜の当番だった使用人たちは悲鳴を上げて凍りついた。
「だ、旦那様!? アリアを、外から……!?」
「急げと言っているのが聞こえないのか!! 彼女が死んだら、お前たちも生かしてはおかないぞ!!」
血走った目で怒鳴り散らし、アレクシスはアリアを抱いたまま、自らの寝室がある最上階へと階段を駆け上がった。
冷たく暗いメイドの部屋ではない。屋敷で最も暖かく、最も豪奢な、彼自身の天蓋付きのベッドに、雪のように蒼白になったアリアの体をそっと横たえる。
駆けつけた老医師は、ベッドに横たわるアリアの惨状と、その傍らで鬼神のような殺気を放つアレクシスを見て震え上がった。
「……ひどい低体温症です。それに、極度の栄養失調と過労……。手足の凍傷も深刻で、正直なところ、今夜が峠かと……」
「峠、だと?」
アレクシスは老医師の胸ぐらを鷲掴みにし、ギリッと奥歯を鳴らした。
「彼女を救え。俺の財産の半分をくれてやる。世界中からどんな高価な薬を取り寄せても構わない。……もし、彼女の心臓が止まるようなことがあれば、俺は神ごとこの世界を焼き尽くすぞ」
それは比喩でも脅しでもなく、狂気に支配された男の純粋な殺意だった。
老医師は青ざめながらも必死に頷き、すぐさま治療に取り掛かった。
❇❇❇
それから、三日三晩。
アレクシスは、一睡もすることなく、水一滴すら喉を通さずにアリアのベッドの傍らに座り続けていた。
「アリア……。戻ってきてくれ。お願いだ……」
かつて氷雪の公爵と呼ばれ、髪の毛一本の乱れすら許さなかった完璧な男の姿は、そこにはなかった。
仕立ての良いシャツはシワだらけになり、無精髭が伸び、目の下には濃い隈ができている。
彼は、包帯でぐるぐる巻きにされたアリアの小さな手を両手で包み込み、それにすがりつくように額を押し当てて、ただひたすらに祈り続けていた。
五年前。
無実の罪で地下牢に繋がれ、処刑を待つばかりだった自分を救い出してくれた恩人。
自分を守るために自ら悪女の汚名を被り、没落して泥水をすすりながらも、遠くから自分の幸せだけを祈り続けてくれていた、世界で一番愚かで、愛おしい女性。
『お前のその顔を見ているだけで、反吐が出る。……二度と俺の視界をうろつくな』
自分が彼女に放った呪いの言葉が、鋭い刃となってアレクシス自身の心臓を何度も、何度も串刺しにする。
(俺は、悪魔だ。……自分を世界で一番愛してくれた女を、この手で雪の中に捨てたんだ)
彼女がこのまま目を覚まさなかったら。
俺を憎んだまま、ただ悲しいだけの人生を終わらせてしまったら。
恐怖で呼吸が浅くなり、アレクシスは声にならない嗚咽を漏らして、彼女の包帯越しの指先に何度も涙の混じったキスを落とした。
❇❇❇
――その時だった。
「……ん……」
アレクシスが握りしめていた指先が、微かに、本当に微かに動いた。
「アリア……?」
弾かれたように顔を上げる。
ベッドに沈み込んでいたアリアの長いまつ毛が震え、ゆっくりと、薄く瞳が開かれた。
数日ぶりに見る、硝子玉のように透き通った、淡い色の瞳。
「あ……」
「アリア!! わかるか、俺だ!!」
アレクシスは椅子を蹴り倒す勢いで立ち上がり、ベッドの上に身を乗り出した。
アリアは、霞む視界の中で、酷く憔悴し、ボロボロに涙を流している男の顔を捉えた。
「……アレク、シス……様……?」
「そうだ! ああ、神よ……っ、アリア……!!」
アレクシスは、彼女の壊れそうな体を抱きしめたい衝動を必死に堪え、傷だらけの彼女の手に頬を擦り寄せて泣き崩れた。
アリアは、ぼんやりとした頭で周囲を見回した。
燃え盛る暖炉。最高級の絹のシーツ。そして、自分を冷たく見下ろしていたはずの主人が、自分の手を取って子供のように号泣している。
「あの……私は……? 確か、吹雪の、中に……」
熱で荒れた唇から、掠れた声が漏れる。
自分がなぜ生きているのか、なぜこんなに暖かい場所にいるのか、彼女にはまったく理解できなかった。
「私が……汚して、しまいます。ここは、旦那様の……」
アリアが、無意識に身を縮め、彼の手から自分の手を引き抜こうとした瞬間。
アレクシスは、弾かれたようにベッドから離れ――そして。
「……っ!?」
アリアは、自分の目を疑った。
この国の頂点に立つ誇り高き公爵が。かつて誰にも膝を折らなかった孤高の騎士が。
アリアの眠るベッドの脇で、冷たい床の上に両膝をつき、深く頭を垂れて、文字通り地に這いつくばったのだ。
「もう……旦那様などと、呼ばないでくれ」
床に額を擦り付けるようにして、アレクシスが血を吐くような声で絞り出した。
「すべて、知った。……ベイツ弁護士が来たんだ。五年前の真実を……君が、俺のためにすべてを捨て、俺の命を買い戻してくれたことを」
ドクン、と。
アリアの心臓が、大きく跳ねた。
五年もの間、誰にも言わず、墓場まで持っていくはずだった、絶対に知られてはいけない秘密。
「あ……、ちが、違います……! 私は……あなたを裏切って、別の、裕福な方のところへ……っ」
激しく動揺し、起き上がろうとするアリア。
しかし、アレクシスは這いつくばったまま、彼女のベッドの端を両手で強く握りしめ、顔を上げた。
その頬は涙でぐしゃぐしゃに濡れ、後悔と懺悔で完全に崩壊していた。
「もう、嘘はつかなくていい……!! 頼む、これ以上、俺を惨めな愚か者にしないでくれ!!」
「アレクシス……」
「君が俺のために、どれほどの地獄を生きてきたか。……それなのに、俺は……君を泥靴で踏みにじり、嘲笑い、あんな猛吹雪の中に突き飛ばした」
アレクシスは自らの胸を強くかきむしり、呼吸も絶え絶えに泣き叫んだ。
自分がどれほど万死に値する罪を犯したか。彼自身が一番よくわかっているからこそ、狂いそうなほどの自己嫌悪に苛まれていた。
「俺は、絶対に許されないことをした。君を二度と抱きしめる資格もない、人間の屑だ……!」
彼は再び床に崩れ落ち、アリアの足元のシーツに縋り付いた。
「俺を恨んでくれ、アリア。俺の顔に唾を吐き、足蹴にして、罵ってくれ! 君の気が済むまで俺を痛めつけてくれ……! 俺の財産も、命も、すべて君のものだ!!」
そして、彼は顔を上げ、すがりつくような、哀れで必死な目でアリアを見つめた。
「だから……お願いだ。俺のそばから、いなくならないでくれ……! 俺を捨てないでくれ、アリア……ッ!!」
それは、冷酷な公爵という仮面をかなぐり捨てた男の、惨めで切実な愛の哀願だった。
五年前の凍てつくようなすれ違いが終わりを告げ、冷酷だった公爵がすべてのプライドを捨て、たった一人の女性を一生愛し抜くと心に誓った瞬間だった。
床に崩れ落ち、自分の過ちを悔やんで声を上げて泣くアレクシス。
アリアは、シーツを固く握りしめて震える彼の広い背中を、ただ静かに見つめていた。
五年間。彼に憎まれ、蔑まれ続ける地獄のような日々の中で、アリアがただ一つ恐れていたこと。
それは、彼が真実を知り、これほどまでに残酷な自責の念に囚われてしまうことだった。彼を太陽の下で自由に羽ばたかせるために、アリアはすべてを犠牲にしたというのに。
「……アレク、シス」
アリアは、痛む体をそっと起こした。
そして、幾重にも包帯が巻かれた痛々しい手をゆっくりと伸ばし、冷たい床に額を擦り付けているアレクシスの頬に、そっと触れた。
「顔を……上げてください」
そのひどく穏やかで、掠れた声に、アレクシスは弾かれたように顔を上げた。
涙と絶望でぐしゃぐしゃになった男の顔を、アリアは慈しむように両手で包み込む。
「私を恨んでくれと言いましたね。……どうして、私があなたを恨むことができるでしょうか」
アリアの透き通るような淡い瞳から、一粒の涙がこぼれ落ちた。
「あの地下牢で、死を待つばかりだったあなたを見た時。……私の心は、とうの昔に決まっていたのです。私の身分も、財産も、命も……すべては、あなたを救うために神様が私に与えてくださったものだったのだと」
「アリア……ッ」
「だから、泣かないで。私のたった一人の騎士様。あなたが立派な公爵となり、こうして生きて私の目の前にいてくれる。……それ以上の幸せなど、私にはありません」
アレクシスは、己の頬を包むアリアの包帯越しの手に、すがりつくように両手を重ねた。
自分を雪の中に捨てた悪魔のような男に対し、彼女は怒るどころか、その胸を痛め、慈愛の涙を流している。
その底知れぬ無償の愛に触れた瞬間、アレクシスの中で、かつての氷雪の公爵としての冷徹な自我は完全に粉々に砕け散った。
「ああ……。俺は、なんて愚かだったんだ」
アレクシスは、彼女の手を自らの唇に押し当て、祈るように目を閉じた。
「君の優しさに甘え、己の身勝手な憎しみだけで君を傷つけ続けた。……この罪は、一生かけても償いきれるものではない」
「アレクシス……」
「だが、それでも」
アレクシスはゆっくりと立ち上がり、ベッドの上に座るアリアを、壊れ物を扱うかのように、ひどく慎重にその腕の中に抱きしめた。
「もう二度と、君を手放さない。……俺を軽蔑してもいい。一生、檻の中に閉じ込めておきたいという俺の醜いエゴを、どうか許してくれ」
彼の震える腕の力強さと、首筋に落ちる熱い涙の感触に、アリアは静かに目を閉じ、五年ぶりに愛する人の背中にそっと腕を回した。
猛吹雪の夜から続いた長く冷たいすれ違いが、暖炉の火に溶けるようにして、完全に終わりを告げた瞬間だった。
❇❇❇
それから一ヶ月後。
長く厳しい冬が終わり、公爵領の森にもようやく雪解けの季節が訪れていた。
「……アレクシス。私、もう一人で歩けますわ」
「駄目だ。床はまだ冷える。君は大人しく俺の腕の中にいればいい」
春の日差しが差し込む豪奢な廊下を、アレクシスはアリアを横抱きにしたまま悠然と歩いていた。
すっかり血色を取り戻したアリアが、恥ずかしそうに抗議の声を上げるが、彼はまったく意に介さない。
猛吹雪の夜から生還して以来、アレクシスの彼女に対する扱いは、屋敷の使用人たちすら言葉を失うほどに常軌を逸していた。
アリアが少しでも咳き込めば、すぐに国中から名医を呼び寄せた。彼女が歩こうとすれば「足が冷える」と言ってどこへでも抱き上げて運び、食事の際は自らスプーンを口元へ運んで付きっきりで世話を焼いた。
かつて、彼女に氷水を絞らせ、床に這いつくばらせていた男と同一人物とは到底思えない。
彼は、己の命のすべてを懸けてアリアに奉仕し、彼女を世界のあらゆる痛みから遠ざけようとする、狂信的なまでの庇護者へと変貌を遂げたのだ。
「アレクシス、おろしてください。使用人たちが見ています……!」
「見せておけばいい。この屋敷の真の主人が誰であるか、嫌というほど思い知らせる必要がある」
アレクシスは真顔でそう言い放ち、ようやく目的の部屋――陽だまりの差し込む、暖かなサロンへとアリアを降ろした。
「ここは……」
アリアは息を呑んだ。
そこには、かつて彼女が血を流しながら弾かされたあのピアノはもうなかった。
代わりに置かれていたのは、白木で設えられた、見たこともないほどに美しい真新しいグランドピアノ。
「五年前の、俺の約束だ」
アレクシスは、アリアの背後からそっとその華奢な肩を抱きしめた。
『いつか俺が立派な騎士になったら、君に世界一美しいピアノを贈ろう』
「あの時の俺には、君に花一輪買う金すらなかった。……だが今は違う。世界中のどんな美しいものでも、君の足元に捧げることができる」
アレクシスは、アリアの右手をそっと取った。
凍傷とあかぎれは最高の治療によって随分と良くなったが、その指先にはまだ、痛ましい傷跡が微かに残っている。
彼はその傷跡の一つ一つに、懺悔するように、そして崇めるように、深く口づけを落とした。
「この傷を見るたびに、俺は己の犯した罪の深さを思い知る。……だが、その傷を含めて、君のすべてがたまらなく愛おしい」
アレクシスは、アリアの前に静かに片膝をついた。
そして、彼女の薬指に、眩い輝きを放つ大粒のダイヤモンドの指輪をそっと嵌める。
「俺の残りの人生のすべてを懸けて、君が流した涙の何千倍、何万倍もの幸せを約束する。……俺の妻になってくれ、アリア」
見上げる銀灰色の瞳には、もう過去の憎しみも、氷のような冷たさもない。
ただ、たった一人の女性を心の底から愛し抜き、生涯を捧げることを決意した男の、揺るぎない熱情だけが灯っていた。
アリアは、薬指で光る指輪と、愛する人の真っ直ぐな瞳を交互に見つめ。
やがて、春の雪解けのような、最高に美しい微笑みを浮かべてこくりと頷いた。
「……はい。喜んで、アレクシス様」
アレクシスは立ち上がり、壊れ物を扱うようにそっとアリアの顎をすくい上げると、誓いの口づけを落とした。
それは、五年間という果てしなく長い地獄を乗り越えた二人にとって、初めて交わす、甘く穏やかな口づけだった。
窓の外では、雪を割って咲き始めた可憐な春の花が、春風に優しく揺れていた。
氷雪の公爵の永く凍てついた時間は終わり、これからの二人の未来には、永遠に溶けることのない、温かな陽だまりだけが待っている。




