第3話 雪の夜の追放
それから数日後。
北の領地は、数十年ぶりと言われる猛吹雪に見舞われていた。
窓ガラスを叩きつける風の音は、まるで何万もの亡者が泣き叫んでいるかのようだった。
「はぁっ、はぁ……っ」
アリアは、薄いメイド服のまま、厨房から執務室へと続く長い回廊をふらつく足取りで歩いていた。
視界がぐらぐらと揺れ、壁の燭台の火が二重にも三重にもブレて見える。
昨夜から急激に上がった熱は、もはや彼女の意識を刈り取る寸前まで達していた。
それでも、彼女は銀のトレイに乗せた熱い紅茶のカップを、震える両手で必死に水平に保っていた。
(届けなければ。……アレクシス様に、これを)
呼吸をするたびに、肺の中でひゅるひゅると笛のような音が鳴る。
ここ数日のアレクシスの苛立ちは尋常ではなく、アリアに対する要求は日に日に過酷さを増していた。
真夜中に暖炉の灰を素手で片付けさせられ、氷点下の中庭で何時間も大理石の彫刻を磨かされた。
彼の憎しみの炎は、アリアが抵抗せずにすべてを受け入れるがゆえに、どこまでも燃え上がり、彼自身をも焼き焦がしているように見えた。
「……失礼、いたします」
重い扉を押し開け、執務室に入った瞬間だった。
急激な温度差と、極限の疲労が、ついにアリアの細い糸を断ち切った。
「あっ……」
膝から力が抜け、視界が真っ白に反転する。
ガシャァァンッ!!
銀のトレイが床に落下し、最高級のマイセンのカップが粉々に砕け散った。
熱い紅茶がアリアの足元にぶちまけられ、湯気が立ち上る。アリアは絨毯の上に崩れ落ち、荒い息を吐きながら必死に立ち上がろうとしたが、指先にまったく力が入らなかった。
「……何の真似だ」
デスクの向こう側から、地獄の底から響くようなアレクシスの声が落ちてきた。
彼はペンを置き、床で這いつくばるアリアを、氷のように冷たく、見下すような目で睨みつけた。
「申し訳……ありません、旦那様。すぐに、片付け……っ、げほっ、ごほっ!」
「同情を引くための三文芝居か? お前がどれほど惨めに倒れてみせようと、俺の心が動くことなど万に一つもあり得ない。……目障りだ」
アレクシスは立ち上がり、アリアの目の前まで歩み寄ると、彼女の肩を冷酷に靴の先で小突いた。
「金に群がる蝿のような女が、俺の屋敷で被害者ぶるな。お前が五年前、俺を裏切って別の男のベッドに潜り込んだ事実が消えるわけではない」
「……」
「お前のその顔を見ているだけで、反吐が出る。……二度と俺の視界をうろつくな。今すぐこの屋敷から出て行け」
それは、決定的な追放の宣告だった。
外は、立っていることすら不可能なほどの猛吹雪だ。こんな夜に、金も行き場もない、高熱に浮かされたメイドを放り出すことは、文字通りの死刑宣告に等しい。
アレクシス自身も、怒りに任せて口走った言葉だった。
まさか本当に彼女が、この吹雪の中へ出て行くとは微塵も思っていなかったのだ。
彼女が泣き喚き、足元にすがりついて許しを乞うだろうと、そう思っていた。
しかし。
アリアは、床に手をついたまま、ゆっくりと顔を上げた。
熱で赤く染まった頬。けれど、その瞳には一滴の涙もなく、ただ、どこまでも澄み切った、穏やかな光が宿っていた。
「……はい、旦那様」
アリアは、ひび割れた手でドレスの裾を整え、アレクシスに向かって、かつての誇り高き伯爵令嬢のように、最も美しい所作で深く、深くお辞儀をした。
「今まで、本当に申し訳ありませんでした。……そして、ありがとうございました」
「……な、に?」
アリアがふわりと微笑んだ。
それは、彼が五年前の春の陽だまりの中で見た、あの愛してやまなかった彼女の無垢な笑顔、そのものだった。
「あなたが、これからもずっと……ご健勝で、幸せでありますように」
静かな祈りのような言葉を残し、アリアは立ち上がった。
そして、アレクシスが呆然と立ち尽くす中、足を引きずりながら執務室を後にした。
(これで、いいわ)
氷点下の外気へと通じる、裏口の重い扉を開ける。
猛烈な吹雪が、薄いメイド服を着たアリアの体を容赦なく打ち据えた。
一歩踏み出すごとに、足先の感覚が失われていく。それでも、彼女の胸の奥は、不思議なほどに温かく、満たされていた。
(アレクシス。私の愛した、たった一人の騎士様。……あなたが生きている。それだけで、私の人生には十分すぎる意味があったのよ)
彼女は、誰に恨み言を言うこともなく、ただ愛する人の幸せを願いながら、真っ白な吹雪の闇の中へと、その身を溶かすように消えていった。
❇❇❇
アリアが屋敷を出てから、一時間が経とうとしていた。
執務室のアレクシスは、まったく仕事に手がつかないまま、苛立たしげに葉巻の煙を吐き出していた。
(あの女……。本当に、この吹雪の中を出て行ったのか……?)
胸の奥が、ざわざわと不快な音を立てて波打っている。
あれは、ただの当てつけだ。
どうせ使用人用の馬小屋かどこかで震えているに決まっている。
そう自分に言い聞かせても、アリアが最後に見せたあの『すべてを終わらせたような、透き通った微笑み』が脳裏にこびりついて離れない。
トントン、と。
控えめなノックの音が鳴り、老齢の執事が入ってきた。
「旦那様。こんな猛吹雪の夜更けに、どうしても閣下にお目通り願いたいという客人が参っております」
「客だと? 追い返せ。今は誰とも会う気はない」
「それが……五年前、閣下の裁判を担当した、ベイツ弁護士です。何年も閣下を探し続け、ようやくこの領地に辿り着いたと……」
アレクシスの動きが、ピタリと止まった。
五年前。
無実の罪を着せられ、地下牢で処刑を待つばかりだったアレクシスを救い出したのは、名も知らぬ匿名の恩人が支払った天文学的な額の保釈金だった。
ベイツ弁護士は、その手続きを行った唯一の人物だ。
「……通せ」
アレクシスは嫌な予感に背筋を凍らせながら、葉巻を灰皿に押し付けた。
数分後、雪まみれのコートを羽織った初老の弁護士が、執務室へと案内されてきた。
「公爵閣下。突然の訪問をお許しください。ですが、どうしても、あなたに渡さなければならない物があったのです」
「ベイツ先生。……あの時の、保釈金を出してくれた恩人の名前がわかったのか?」
アレクシスが身を乗り出すと、ベイツ弁護士はひどく悲痛な顔で首を振り、革の鞄から一束の分厚い書類を取り出してデスクに置いた。
「恩人の名前は、初めからわかっておりました。……ただ、ご本人の強い希望で、絶対にあなたには言わないでくれと、固く口止めされていたのです」
「何故だ? 俺は、その恩人に命を救われた。何があっても恩返しを……」
「あなたに恩を返されてしまえば、あの方が『あなたを裏切った』という嘘が、すべて無駄になってしまうからです」
ドン、と。
アレクシスの心臓が、ひどく不吉な音を立てた。
ベイツ弁護士が、震える手で書類の一枚目をアレクシスに突きつける。
そこにあったのは、見覚えのある美しい筆跡で書かれた『財産譲渡誓約書』と、『貴族位返上願い』だった。
そして、一番下の署名欄に書かれていた名前は。
――アリア・ヴァレンタイン。
「な……」
アレクシスの喉から、ひゅっ、と空気が漏れた。
頭の芯が真っ白に沸騰し、視界がぐにゃりと歪む。
「……どういう、ことだ。これは。アリアは、あの時、俺を捨てて裕福な男の元へ……」
「男など、初めから存在しません」
ベイツ弁護士が、痛ましい事実を突きつけるように、静かに、しかしはっきりと言い放った。
「五年前。あなたを救うための莫大な保釈金を払ったのは、アリアお嬢様です。彼女は、ご自身の屋敷も、宝石も、ヴァレンタイン伯爵家の名前すらもすべて売り払い、さらには一生かかっても返せないほどの借金を背負って……あなたの命を買ったのです」
「嘘だ……! 嘘だ!!」
アレクシスはデスクを両手で強く叩き、血走った目で叫んだ。
「彼女は、俺に言ったんだ! 『貧しい騎士のあなたより、お金のある方を選ぶわ』と! 俺の目の前で、冷たい目をして!!」
「そうでも言わなければ、誇り高いあなたが、彼女の犠牲を受け入れるはずがなかったからです!!」
老弁護士の悲痛な叫びが、執務室に響き渡った。
「お嬢様は、あなたが負い目を感じず、自由に太陽の下を歩けるように……自ら泥を被り、あえて悪女を演じ切ったのです。……あなたが立派な公爵となった今でも、彼女はずっと、たった一人で借金取りに追われ、血を吐くような労働をして、あなたを守り続けていたのですよ!!」
ガシャンッ……!!
アレクシスは、糸が切れたように後ずさり、背後の本棚に激突した。
棚から高価な装飾品が落ちて砕け散るが、彼はそれに気づくことすらできない。
すべてが、繋がった。
あの日、彼女が俺を突き放した時の、どこか泣き出しそうに震えていた指先。
この屋敷で再会した時、彼女の手が、かつての美しい手ではなく、あかぎれと傷だらけでボロボロになっていた理由。
俺がどれほど理不尽な暴言を浴びせ、冷酷に扱っても、彼女がただの一度も言い訳をせず、すべてを受け入れて静かに微笑んでいた理由。
『お前のような金に卑しい裏切り者が、俺の屋敷で雇ってもらえるだけでもありがたいと思え』
『才能も誇りも失った抜け殻の女には、ピアノすらまともに弾けないらしい』
自分がアリアに向けて吐き捨てた、数々の残酷な言葉が。
傷だらけの指から血を流しながら、俺のために思い出のピアノを弾いてくれた彼女の姿が。
フラッシュバックとなって、アレクシスの脳髄をズタズタに切り裂いていく。
「あ……ああ……っ」
アレクシスの喉の奥から、獣の呻きのような、絶望の音が漏れた。
彼女は俺を裏切ったのではない。
世界中の誰よりも、愚かで、狂おしいほどに、俺を深く愛し抜いてくれていたのだ。
自分の命と人生のすべてを犠牲にしてでも、俺を生かすために。
――それなのに、俺は。
たった今、高熱で倒れた彼女を床に這いつくばらせ、「二度と姿を見せるな」と、この猛吹雪の中へ追い出したのだ。
「アリア……アリアァァッ!!!」
アレクシスは、己の喉が裂けるほどの絶叫を上げた。
彼はコートも羽織らず、狂ったように執務室の扉を蹴り開けた。
「旦那様!? どこへ行かれるのですか! 外は猛吹雪です!!」
執事の制止を突き飛ばし、アレクシスは大理石の回廊を、何度も転びそうになりながら裏口へと全力で走った。
「すまない、すまないアリア……!! 俺が愚かだった! 俺が間違っていた!!」
氷のように冷酷だった王の目から、大粒の涙がとめどなく溢れ出し、頬を濡らす。
裏口の扉を乱暴に開け放つと、前がまったく見えないほどの白い吹雪が、彼の体を激しく打ち据えた。
「アリア!! どこだ!! 返事をしてくれ!! アリアァァッ!!」
アレクシスは、ドレスの薄着のまま雪闇の中に消えた、己のたった一つの真実の愛を探して。
吹き荒れる雪崩の中へと、命綱を持たずに飛び込んで
いった。
――俺の命をすべてくれてやる。悪魔に魂を売っても構わない。
だから、頼む。どうか、彼女を奪わないでくれ。俺から、アリアを奪わないでくれ……!!
吹雪にかき消される、王者の血を吐くような慟哭。
五年の時を経て暴かれた真実は、氷雪の公爵を最も残酷な絶望の底へと叩き落としたのだった。




