第2話 華やかな令嬢と、引き裂かれる心
その日の午後、公爵邸の豪奢な応接室には、甘く濃厚な薔薇の香水が立ち込めていた。
「まあ、アレクシス様ったら。本当に意地悪な方」
鈴を転がすような、高い笑い声。
燃え盛る暖炉の火に照らされた特注のベルベットソファには、この国の社交界で今最も華やかだと謳われる若き未亡人、カトリーヌ侯爵夫人が座っていた。
深紅のシルクドレスに身を包み、雪のように白い首筋には眩いばかりのダイヤモンドのネックレスが輝いている。
そして、その隣で彼女の細い腰に腕を回し、退屈そうにグラスの赤ワインを傾けているのが、この館の主であるアレクシスだった。
「お前のその愛らしい口から出る言葉よりは、ずっと真実だと思ったがね」
「ふふっ、ひどい。私、アレクシス様のことだけは真実の愛で慕っておりますのに」
アリアは、応接室の冷たい壁際で、銀のティーポットを両手で持ちながら石像のように静かに控えていた。
視線を落とし、床に敷かれたペルシャ絨毯の複雑な模様だけをひたすらに見つめる。見たくなかった。自分が命を懸けて愛した人が、他の美しい女性に甘い言葉を囁き、その肩を抱く姿など。
胸の奥を、錆びた鋸でゆっくりと挽かれているような痛みが走る。
それでも、アリアは一切の表情を崩さなかった。背筋をピンと伸ばし、ただの背景としてのメイドの役割を完璧にこなす。
(これでいいの。私が彼を傷つけ、裏切ったことになっているのだから。……彼が今、あのように美しい女性と笑い合って、幸せな人生を歩んでいるのなら、私の犠牲には意味があったのだわ)
自分にそう言い聞かせるが、荒れ果てた指先は微かに震えていた。
「……おい、アリア」
不意に、アレクシスの氷のように冷たい声が、応接室に響いた。
アリアはビクリと肩を揺らし、すぐに顔を上げて一礼した。
「はい、旦那様。何でございましょうか」
「カトリーヌ夫人のグラスが空いている。注ぎ足せ」
「かしこまりました」
アリアは静かな足取りで二人の座るソファへと近づき、クリスタルのグラスに琥珀色の洋酒を注ごうとした。
その時、カトリーヌ夫人が、アリアのみすぼらしいメイド服と、あかぎれだらけの手を値踏みするようにジロジロと見下ろした。
「……アレクシス様。このメイド、なんだかひどく陰気で、みすぼらしいですわね。あなたのこの美しいお屋敷には、少し不釣り合いなのではなくて?」
カトリーヌ夫人は、扇子で口元を隠しながらクスクスと笑った。
アリアは息を詰め、ただ洋酒を注ぐ手元だけに集中した。一滴でもこぼせば、さらなる叱責が待っている。
「気にするな、カトリーヌ。こいつは、ただの『見せしめ』だ」
アレクシスは、わざとアリアに聞こえるように、残酷なほど冷ややかな声で言い放った。
「彼女はかつて、伯爵家の令嬢として贅沢の限りを尽くしていた女でね。だが、自分の欲望を満たすために平気で人を裏切り、金持ちの男に擦り寄った結果、男に捨てられ、家は没落し、今こうして俺の足元で残飯を漁るネズミに成り下がった」
その言葉が、アリアの頭の上から氷の礫のように降り注ぐ。
「金と欲に目が眩んだ愚かな女がどうなるか。その惨めな末路を観察するには、これ以上ない標本だろう?」
「まあ……! 呆れた女ですこと。殿方を裏切るなんて、最低の恥知らずですわね。本当に、近寄るだけで穢らわしい」
カトリーヌ夫人は大げさに眉をひそめ、アリアからサッと身を引いた。
「……失礼いたしました。お次ぎいたしましたので、下がります」
アリアは、顔を上げることもできず、ただ深く頭を下げた。
弁明などできない。五年前、「あなたより裕福な方を選ぶわ。さようなら、貧しい騎士様」と冷たい言葉を浴びせて彼を突き放したのは、アリア自身なのだから。
彼が自分の身代わりとなって地下牢で命を落とさないよう、彼を自由に羽ばたかせるために選んだ、地獄への道。
彼が今、自分をこれほどまでに憎んでいるのは、あの時、彼が本気でアリアを愛してくれていたからこその反動なのだ。
(ごめんなさい、アレクシス。……あなたをこんなにも冷酷で、哀しい人にしてしまったのは、私……)
「おい、待て」
アリアが壁際へ戻ろうとした瞬間、アレクシスがさらに追い打ちをかけるように声を上げた。
「お前が昔、伯爵邸のサロンで得意げに弾いていたピアノがあるだろう。あれを弾け。カトリーヌのために、心地よい音楽でも提供しろ」
アリアは息を呑んだ。
部屋の隅に置かれた、豪奢なグランドピアノ。
かつて、ヴァレンタイン伯爵邸の温かな陽だまりの中で、騎士だったアレクシスが「君の弾く音色は、まるで春の風のようだ」と優しく微笑んで聴いてくれていた、あの頃の思い出の曲。
「……旦那様。申し訳ありませんが、私はもう、何年も鍵盤に触れておりません。それに、この手では……」
アリアは、無意識に自分の荒れ果てた両手をエプロンの後ろに隠した。
過酷な労働で指の関節は腫れ上がり、いくつかの指には包帯が巻かれている。とても、美しい音色など奏でられる状態ではない。
「俺は『弾け』と命令したんだ。お前の言い訳など聞いていない」
アレクシスの銀灰色の瞳が、容赦なくアリアを射抜く。
彼は、アリアがかつての誇りだったピアノを、ボロボロの手で弾かされるという究極の屈辱を与えようとしているのだ。
「……かしこまり、ました」
アリアは小さく震える声で答え、ピアノの前に置かれたスツールに腰を下ろした。
重い蓋を開け、鍵盤に指を乗せる。
氷水で冷え切り、感覚すら鈍っている指先。かつてのように軽やかには動かない。
ゆっくりと、アリアは鍵盤を押し込んだ。
辿々しく、ぎこちない音色が応接室に響く。指を動かすたびに、あかぎれの傷口がぱっくりと開き、鍵盤に微かに血が滲むのがわかった。
『――君の弾くピアノが、世界で一番好きだ。いつか俺が立派な騎士になったら、君に世界一美しいピアノを贈ろう』
五年前の彼の優しかった声が、音楽と共に脳裏に蘇る。
視界が涙で滲みそうになるのを、アリアは必死に瞬きをして堪えた。
もしここで一滴でも涙をこぼせば、彼は同情を引くための安い芝居だとさらに激怒するだろう。彼が求める『冷酷で欲深い裏切り者の女』を、私は最後まで完璧に演じ切らなければならない。
「……ふふっ、何ですの、この酷い演奏。耳障りですわ、アレクシス様」
「ああ、全くだ。才能も誇りも失った抜け殻の女には、ピアノすらまともに弾けないらしい」
アレクシスの嘲笑う声が、鍵盤の音色をかき消すように響く。
アリアは、指先に走る激痛に耐えながら、ただ黙々と、かつて彼が愛してくれた曲を最後まで弾き続けた。
――ポロン、と、最後の和音が虚しく響き、消えた。
「……お聞き苦しい演奏で、申し訳ありませんでした」
アリアは静かに立ち上がり、深々と一礼した。
その顔には、悔しさも、悲しさも、一切の感情が浮かんでいなかった。ただの精巧な陶器の人形のように、完全に心を閉ざした虚無の表情。
それが、アレクシスの胸の奥底にある『何か』をひどく苛立たせた。
(なぜ、泣かない。なぜ、許しを乞わない。なぜ……あんなにも血を流してピアノを弾きながら、何一つ言い訳をしない!)
アレクシスは、グラスを握りしめる手にギリッと力を込めた。
アリアを痛めつけ、絶望の淵に突き落としてやろうと残酷な言葉を浴びせるたびに、傷ついているのはアリアだけではなく、アレクシス自身の心だった。
彼女が惨めに従えば従うほど、五年前の美しかった彼女の笑顔がフラッシュバックし、彼を狂おしいほどの自己嫌悪と苛立ちの渦へと叩き落とすのだ。
「……もういい、失せろ。お前のその顔を見ているだけで、吐き気がする」
アレクシスは、乱暴にグラスをテーブルに置き、アリアに背を向けた。
「はい。……失礼いたします」
アリアは、血の滲んだ手をエプロンでそっと隠し、足音も立てずに応接室を後にした。
重い扉が閉まり、冷たい石造りの廊下に出た瞬間。
張り詰めていた緊張の糸がぷつりと切れ、アリアの体は崩れ落ちるように壁に寄りかかった。
「はっ……、あ……っ」
息ができない。肺の奥がひゅるひゅると鳴り、心臓が握り潰されたように痛い。
連日の過労と睡眠不足、そしてまともな食事も摂れていない体は、とっくに限界を迎えていた。さらに、彼からの容赦のない精神的な鞭打ちが、彼女の残されたわずかな生命力すらも削り取っていく。
(あと、少し……。あと少しだけ、あの人がこの屋敷の新しい女主人の席に、どなたかを迎えるのを見届けたら……)
そうすれば、もう私の役目は終わる。
彼に憎まれたまま、この冷たい世界から、静かに消え去ることができる。
アリアは、ズキズキと痛む指先を胸に抱きしめながら、凍てつくような北棟のメイド部屋へと、ふらつく足取りで戻っていった。
彼女の命の灯火が、雪山の猛吹雪の中で、今にも消えようとしていることなど。
冷酷な王は、まだ何も知らなかった。




