第1話 凍てつく大理石の床と冷酷な視線
北の山脈から吹き下ろす凍てつくような風が、重厚な石造りの屋敷の窓ガラスをガタガタと揺らしている。
まだ夜も明けきらぬ、身を切るように冷たい冬の早朝。
アリアは、薄氷の張った木桶に雑巾を浸し、赤くひび割れた両手でそれを固く絞った。
「……っ」
指先に走る鋭い痛みに、思わず小さな吐息が漏れる。
かつては最高級の絹の手袋に包まれ、ピアノの鍵盤を優雅に叩いていたはずのその手は、今や見る影もなく荒れ果て、あかぎれから微かに血が滲んでいた。
アリア・ヴァレンタイン。
それが彼女の名前だった。
わずか五年前まで、由緒正しき伯爵家のただ一人の令嬢として、誰もが羨むような豪奢なドレスを身に纏い、光り輝く社交界の中心で微笑んでいた少女。
しかし、両親の急死と親族の裏切りによってヴァレンタイン家は莫大な借金を抱えて没落し、彼女はすべてを失った。
――いいえ、違う。すべてを失ったのは、あの日。
彼に、「あなたより、裕福な方を選ぶわ」と、取り返しのつかない嘘をついたあの日からだ。
アリアは、冷え切った大理石の床に膝をつきながら、無心で雑巾を走らせた。
ここは、若き公爵アレクシス・フォン・クライツェルの広大な本邸の回廊である。
使用人たちですらまだ深い眠りについているこの時間に、最も過酷で骨の折れるこの北棟の掃除を命じられているのは、この屋敷でただ一人、彼から『特別に』憎まれているアリアだけであった。
『お前のような金に卑しい裏切り者が、俺の屋敷で雇ってもらえるだけでもありがたいと思え。……這いつくばって床を磨く姿が、よく似合っているぞ』
三ヶ月前。借金の返済に追われ、その日食べるパンすら買えずに街角で倒れかけていたアリアを拾い上げたのは、他でもないアレクシスだった。
しかし、彼はアリアを救うために手を差し伸べたのではない。
復讐のためだ。
自分がどん底でもがき苦しんでいた五年前、アリアが金目当てで別の男に走り、自分を見捨てたのだと信じ込んでいる彼は、すべてを失ったかつての恋人を自らの屋敷の下働きとして引き取り、その惨めな姿を間近で見て嘲蔑するために、彼女をここに置いているのだ。
「……おはようございます、アリア」
背後から、メイド長のマーサが厳しい声で呼びかけた。
「旦那様がお目覚めです。いつものように、朝の珈琲を執務室へお運びしなさい。……決して、粗相のないように」
「はい、マーサさん」
アリアは立ち上がり、氷水で冷え切った手をエプロンで拭うと、静かに頭を下げた。
他の使用人たちは、アレクシスがアリアに向ける異様なまでの冷遇と憎悪を知っているため、誰も彼女に親しく話しかけようとはしない。
アリアはこの巨大な屋敷の中で、完全に孤立していた。
厨房で湯気を立てる熱い珈琲を銀のトレイに乗せ、アリアは重い足取りで執務室へと向かった。
分厚い樫の木の扉の前に立つだけで、心臓が痛いほどに脈打つ。
(大丈夫。今日も、無表情で、ただ言われたことだけをこなせばいい)
アリアは小さく深呼吸をし、控えめにノックをしてから扉を開けた。
「……失礼いたします。旦那様」
執務室の中は、暖炉の火が赤々と燃えているにもかかわらず、どこか氷室のような冷たさが漂っていた。
部屋の中央、マホガニーの重厚なデスクの向こう側に、彼――アレクシスが座っている。
漆黒の髪を後ろに流し、仕立ての良いスリーピースのスーツを完璧に着こなしたその姿は、息を呑むほどに美しかった。
氷のように冷たい銀灰色の瞳、彫刻のように整った鼻筋、そして、薄く引き結ばれた冷酷な唇。
五年前、まだ名もなき貧しい騎士だった頃の彼には、野心に満ちた情熱と、アリアだけに向ける不器用で温かい微笑みがあった。
しかし今の彼からは、そのような温もりは完全に消え失せ、代わりに誰も寄せ付けない絶対的な権力者としての威圧感だけが放たれている。
「……遅い」
書類から目を離すことなく、アレクシスが地を這うような低い声で言い放った。
「申し訳、ありません」
「淹れ直してこい。すっかり冷めている。お前はメイドとしての基本的な仕事すら、まともにこなせないのか」
アリアが持ってきた珈琲からは、まだ十分に熱い湯気が立ち上っている。
それはただの言いがかりであり、彼女を無意味に働かせて精神を削るための、彼なりの陰湿な罰だった。
「かしこまりました。すぐに、淹れ直してまいります」
アリアは一切の反論も言い訳もせず、静かに一礼して背を向けようとした。
その従順すぎる態度が、逆にアレクシスの苛立ちを煽ったらしい。
「待て」
氷の刃のような声に、アリアはビクリと肩をすくめて足を止めた。
アレクシスはゆっくりと椅子から立ち上がり、足音もなく彼女の背後に近づいた。
彼の纏う微かな葉巻の香りと、凍りつくような冷気がアリアを包み込む。
「……五年前、別の男の腕に抱かれていた頃は、自分がこんな惨めな姿で俺の足元に這いつくばることになるとは、想像もしていなかっただろうな?」
耳元で囁かれたその言葉は、アリアの心臓を鋭いナイフで抉るようだった。
アレクシスの瞳が、アリアのひび割れた手と、みすぼらしいメイド服を蔑みを込めて見下ろしている。
「男に捨てられ、借金に追われ、最後はかつて見下していた俺の屋敷で雑巾がけをする気分はどうだ? お前のような、金と権力だけを愛する空っぽの女には、まさにふさわしい末路だ」
「……」
アリアは、銀のトレイを握りしめる手にぎゅっと力を込めた。
痛い。胸が、引き裂かれそうに痛い。
『違う』と叫びたかった。
五年前、無実の罪で投獄され、処刑寸前だった彼を助けるために、私がどれほどのものを犠牲にしたのか。
彼を逃がすための莫大な保釈金を捻出するため、両親の遺した屋敷も、宝石も、ヴァレンタイン家の名前すらもすべて売り払った。そして、誇り高き彼が『女の犠牲の上に生かされた』という屈辱を感じないように、わざと「あなたより金持ちの男を見つけたの」と冷酷な嘘をついて、彼を突き放したのだ。
すべては、彼を愛していたから。
彼に生きて、太陽の下を堂々と歩いてほしかったから。
だが、その真実を口にすることは、彼女の最後の誇りが許さなかった。
今更真実を告げて、彼に後悔と罪悪感を背負わせるくらいなら、このまま「愚かで金に卑しい女」として憎まれていた方がずっといい。
「……旦那様の仰る通りでございます」
アリアは、震えそうになる唇を必死に噛み締め、感情を完全に殺した声で答えた。
「私は、愚かで、罰を受けるべき人間です。ですから、旦那様が私をどのようにお扱いになろうと、決して不満はこぼしません」
その言葉を聞いた瞬間、アレクシスの瞳に激しい怒りの炎が揺らめいた。
彼は、アリアが泣いて許しを乞うか、あるいは怒って言い返してくることを望んでいたのかもしれない。
それなのに、彼女はただ砂に水を吸い込ませるように、彼の憎悪を静かに受け入れてしまう。
それが、彼をさらに狂おしいほどの苛立ちへと駆り立てていた。
「……そうか。ならば、その言葉通り、せいぜい惨めに俺の足元で這いずり回るんだな」
アレクシスは、アリアの持っていた銀のトレイを乱暴に払いのけた。
ガシャンッ!!
甲高い音を立てて、トレイと高級な陶器のカップが床に叩きつけられ、黒い珈琲がアリアのエプロンと大理石の床に無惨にぶちまけられた。
熱い液体が足首にかかったが、アリアは小さな悲鳴すら上げず、ただじっと床を見つめていた。
「拭け。そして、二度と俺の視界を汚すな」
アレクシスは冷酷にそれだけを言い捨てると、再び執務デスクへと戻り、アリアを透明人間のように無視して書類に目を落とした。
「……申し訳、ありませんでした」
アリアは床に膝をつき、ひび割れた手で、割れたカップの破片と珈琲の染みを静かに拾い集め始めた。
割れた陶器の鋭い欠片が指先を切り裂き、赤い血が微かに滲んだが、彼女はそれを気にする素振りすら見せない。
(これでいい。彼が私を憎んでいても……彼がこうして生きて、立派な公爵としてこの広い屋敷の主になっている。……その姿を見られるだけで、私はもう、何も望まないわ)
アリアは、瞳の奥に込み上げてくる熱い涙を必死に堪えながら、冷たい大理石の床をただひたすらに磨き続けた。




