32歳、まだ間に合いますか
その通知は、会議の終わり際に震えた。
デスクの隅で、無機質なバイブレーションが鼓動のように響く。
――久しぶり。元気?
名前を見た瞬間、肺の奥がひりついた。吸い込んだエアコンの乾燥した空気が、喉に刺さる。
七文字のその名前は、三年前まで、毎日当たり前のように隣にあった。
既読をつけるまでに、五分かかった。その五分の間に、窓の外では夕刻の街が、濁った藍色に溶け始めていた。
――結婚することになりました。
続けて送られてきたその一文を、俺は三回読み直した。
文字は同じなのに、読むたびに意味が変わる。冗談かと思い、誤送信を疑い、最後に、やっと尖った現実として心臓に突き刺さった。
そうか。
そういう年齢だよな。
スマホを伏せる。会議室のガラスに映る自分の顔は、蛍光灯の光に白く飛ばされ、妙に大人びていて――そして、どこか決定的に、世界から取り残されていた。
彼女と出会ったのは、俺が二十九、彼女が二十四のときだった。
揚げ物の匂いと、誰かの笑い声が充満した居酒屋。友人の紹介。
最初に笑ったのは、彼女だった。
「三十二歳って、なんか完成形っぽいですよね」
「まだ二十九だよ」
「あ、すみません。将来予測です」
屈託のない笑い方。その喉の震えまで見えるような、真っすぐな瞳。
その場の、濁った空気を一瞬で透き通らせるような声。
帰り道、駅まで並んで歩きながら、彼女はやけに寒がりで、厚手のマフラーに顔を半分埋めていた。
「今日、楽しかったです」
白い吐息が、街灯の光に透けて消える。それだけで、俺の足取りは、地面から数センチ浮いているような心地だった。
付き合い始めてからの一年は、たぶん人生でいちばん軽かった。
深夜のコンビニ、青白い照明の下で新作スイーツを半分こにして笑い、
日曜の朝、カーテンの隙間から差し込む光と、彼女が淹れるコーヒーの苦い匂いで目を覚まして、
雨の日は、一本の傘に肩を寄せ合い、わざと遠回りして帰った。
「ねえ、将来どうする?」
水たまりを避けながら、彼女はよく聞いた。
「どうするって?」
「結婚とか、子どもとか」
そのときの俺は、まだ二十九だった。
仕事も安定してきた頃。昇進の話も出始めていた。目の前には、可能性という名の、まっさらな地図が広がっている気がしていた。
「そのうちな」
俺は、いつもそう答えた。
そのうち。
まだ早い。
今じゃない。
彼女は、困ったように笑っていた。
でも、ほんの少しだけ、視線が足元に落ち、その綺麗な瞳が不安に揺れていたのを、俺は見ないふりをした。
二年目に入った頃から、部屋に流れる時間は少しずつ重くなった。
「私、もう二十六だよ」
「まだ二十六だろ」
「“まだ”って言えるのは、そっちだけなんだよ」
初めて、彼女の声が鋭いエッジを持った夜だった。
俺は焦った。
でも、それは彼女を失う焦りじゃなく、自分の平穏な生活が形を変えてしまうことへの焦りだった。
結婚したら、自由が減る。
仕事の選択肢が狭まる。
背負うべき責任という重石が増える。
好きだった。それは嘘じゃない。
でも、彼女の人生を背負うだけの、泥臭い覚悟はしていなかった。
決定的だったのは、三年目の冬。
吐く息が白く固まる夜、彼女が言った。
「ちゃんと、未来の話をしよう」
その言葉が、鉄の扉のように重くて、怖くて、俺は逃げた。
「今は忙しいんだ。プロジェクトが落ち着くまで待ってくれよ」
「忙しいのは、ずっとでしょ。今までも、これからも」
沈黙。
時計の針が刻む音だけが、やけに大きく響く。
彼女は、震える声を抑えるように静かに続けた。
「私はね、あなたと結婚したいって言ってるの。
でも、あなたは“いつか”って言うだけ。
その、出口のない“いつか”を待ち続けるのが、私には怖いの」
俺は、何も言えなかった。
本当は、その震える肩を抱き寄せればよかった。
言えたはずなのに、喉の奥で言葉が固まって動かなかった。
その夜、彼女は泣かなかった。
ただ、ひどく遠いものを見るような目で、小さく言った。
「私ね、待つのに疲れたんじゃなくて、待つのが怖くなったの」
それが、最後だった。
スマホを開く。
彼女からのメッセージの下に、続きはない。
淡々とした、事務的な報告。
招待も、相談も、一滴の未練もそこには見当たらない。
俺は、ようやく理解する。
あのとき、彼女は俺に選択を迫っていたんじゃない。
自分の信じてきた愛情が、この場所で報われるのかどうか、その灯火を確認したかっただけなんだ。
自分は、ちゃんと選ばれているのか。
俺は、彼女を好きだった。
鼻にシワを寄せるあの笑い方も、少し拗ねた横顔も、冷えた指先を俺のポケットに忍び込ませる寒がりなところも。
でも俺は、彼女との“日常”を、“未来”より後回しにした。
違うな。
自分にとって都合の良い「未来」を、彼女という「個人」より優先した。
いや、もっと正確に言えば。
変わることへの怯えを、彼女が差し出してくれた覚悟より優先した。
返信欄に指を置く。液晶の光が、網膜を痛く刺す。
――おめでとう。
それしか打てない。
「まだ間に合う?」と、聞き苦しい言葉を画面にぶつけたくなる衝動を、奥歯で噛み潰す。
今さら何を言っても、彼女が誰かと積み上げ直した決断を揺らす資格なんて、一ミリも残っていない。
窓を開けると、春の匂いがした。
あの頃と同じ、少し湿った、始まりを予感させる夜風。
楽しかった日々は、確かにこの部屋に、この街にあった。
それは決して、嘘じゃない。
でも、楽しいという感情だけでは、決して辿り着けない場所がある。
俺は三十二になった。
年齢という数字の影に隠れて、甘えていた。
まだ若い。
まだ選べる時間がある。
まだ、手放しても次がある。
違った。
間に合わなかったのは、年齢じゃない。
一人の人間と向き合うための、覚悟だ。
あの日、沈黙を選んだ情けない自分に、問いかける。
「32歳、まだ間に合いますか」
夜の闇に消えていく問いの答えを、俺はもう、痛いほど知っている。
【観測後記録:第3観測】
「……彼は決めることができなかった。切ないです」
「よい傾向です。感情が揺さぶられあなたの魂が形を取り戻し始めています」
実際、空洞のようだった胸のあたりが、埋まってきている感覚がある。
「きっと彼は前に進める......そう思いたいですね。」
「女神様は優しいですね」
女神様は静かに告げる。
「軽口を言う元気があるようですね。さっさと観測して魂の治療を続けます」
「……はい、女神様」




