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天界観測室 〜消えかけた魂の観測録〜  作者: まっつぃ17@短編100本ノック実施中!


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第0観測:白い部屋


 白かった。

 それは光ではなく、意味の抜け落ちた色だった。


 白という色が、世界を塗り潰したみたいに、どこまでも白い。壁も床も天井もなく、境界線すらない。光源の位置も分からないのに、影だけが薄く落ちる。ぼんやりとした白の中に、私は立っていた。


 ――いや。「立っている」という感覚すら、怪しい。


 足裏の接地感がない。重力があるのかないのか、よく分からない。なのに、なぜか“ここにいる”という事実だけがはっきりしている。


 私は自分の手を見た。


 指先が、少し透けている。


 ガラス越しに見る煙のように、輪郭が揺らいでいる。風が吹けば、薄くほどけて消えてしまいそうだ。怖い、という感情が、遅れて胸に湧いた。


 ――怖い?


 その感情すら、私のものだろうか。


 私は名前を思い出そうとした。口を開き、喉を鳴らし、言葉を探す。


「……」


 何も出ない。


 自分の名前が、そこにはなかった。まるで最初から存在しなかったかのように、空白だけがある。名前だけじゃない。出身も、年齢も、顔も。思い出そうとすればするほど、手の届かない霧の中へ指を突っ込む感覚になる。


 けれど、奇妙な“確信”だけが残っていた。


 私は、やり直してきた。


 何度も。何度も。何度も。


 なぜ分かるのかは分からない。ただ、身体に染みついた癖のようにそれが分かる。人は一度しか生きない――そんな常識を私は、どこかで鼻で笑っていた気がする。


 次はもっと上手く。

 次はもっと正しく。

 次はもっと効率よく。


 そんな言葉が、脳内で反響する。


 そして、それを繰り返した末に、今の私がいる。


 白い空間に、溶けかけた影だけがある。


 自分が何者か分からないのに、後悔だけはある。誰かを救えた気がする。誰かを救えなかった気もする。世界を変えたことも、壊したこともある気がする。断片だけが、硝子片のように散らばっている。


 私は無意識に、胸のあたりを押さえた。


 心臓があるはずの場所に、空洞がある。


 そこから、音が聞こえた。


「まだ消えていませんね。良かった」


 声は、前からでも後ろからでもなく、空間そのものから降りてきた。柔らかいのに冷たい。慈悲と無機質な確認が同居した声だ。


 私は振り向いた。


 そこに、女性がいた。


 ――“女神”という言葉が一番近い。ただ、私の想像していた女神とは違う。


 冠もない。翼もない。後光もない。白い衣が翻っているわけでもない。むしろ静かだ。凍る直前の水面みたいに、動きがない。なのに、彼女の周囲だけ空間が僅かに歪んで見えた。焦点が合わない。目が勝手に逸らされる。


 理解したくないのに理解してしまう。


 この存在は、こちら側の常識に収まらない。


 女神は私を眺め、淡々と言った。


「随分と擦り減りましたね」


 いきなり痛いところを突かれた。私は反射的に言い返そうとしたが、言葉が出ない。出ないというより、出し方が分からない。


 女神はため息をついた。人が“面倒な書類”を見るときのそれに似ていた。


「まず、確認します。あなたは自分の名前を言えますか?」


 私は首を振った。


「自分が何をしてきたか、説明できますか?」


 首を振る。


「……そうでしょうね。記憶の索引が溶けています」


 索引。妙に事務的な単語が、白い空間に落ちる。


 女神は私を見た。


 見た、というより、透視した。皮膚の奥の奥、魂の芯を計測する目だ。


「あなたは――転生を繰り返しました。それはもう何度も」


 その単語を聞いた瞬間、胸の奥で何かがピクリと動いた。嫌なほど馴染みがある。私はそれに誇りすら感じていた気がする。


「何度も転生……」


 私の声が出た。かすれた声だった。自分の声を初めて聞いたみたいに、少し驚く。


 女神は微笑まなかった。かわりに、軽蔑するでもなく、ただ“評価”を下した。


「ええ。転生を繰り返すこと自体は、禁止ではありません。輪廻の制度は柔軟です。愚かであり、優しくもあります」


 毒舌が混ざった“制度説明”をする。


「ただし――」


 女神が一歩近づく。足音はしない。彼女が動いたのではなく、空間が彼女に合わせたように見える。


「転生し過ぎると、魂が擦り切れます。本来は、人は一度で十分なのに」


 “十分”という言い方が、妙に刺さった。私は笑って誤魔化したかったが、笑う筋肉が思い出せない。


 女神は続ける。


「あなたは世界を救ったことがあります。複数回。しかも、かなり上手に」


 その言葉に、胸が熱くなる――はずだった。けれど、熱さは来ない。ただ、空虚な誇りの残骸がひらひらと落ちていく感覚だけがある。


「同時に、世界を壊したこともあります。複数回。しかも、かなり派手に」


 私は口を開いた。


「……覚えてない」


「でしょうね。覚えていたら、もっと早く立ち止まれたのでしょう」


 女神は淡々と切り捨てた。だが、その声には、ほんの僅かな疲労が滲んでいた。


 私が白い空間を見回す。


「ここは……どこですか」


「観測室です」


「観測室……?」


「“天界観測室”。あなたの魂が消える前に、ここへ避難させました」


 避難。その言葉が現実味を帯びる。つまり私は、今まさに“消えかけている”。


 私は自分の手を見る。指先が先ほどより透けている。気のせいではない。私の存在は、時間経過で崩れていく。


「……消えるって、どういう」


 女神は首を傾げた。


「そのままの意味です。正しく輪廻に戻れず、完全な無に戻る。あなたが“あなた”である痕跡が消える」


 私は吐き気に似た感覚を覚えた。魂に胃はないのに。


「消えたくない...」


 無意識だった。言ってから自分が消えたくないことに気づいた。


 女神は、少しだけ目を細めた。


「消えないように助けています。今も」


 その言葉は静かだったが、重かった。事実だけが乗っている。


「あなたの魂は、本来なら既に崩れているはずです。消えかけた魂を維持するのは、どんな神にとっても難しい。……そのへんの神なら、まず無理」


 そう言い切るところに、彼女には“上位”である自覚がある。誇示ではなく、当たり前として。


「あなたは普通の女神ではないのですか」


「そう呼ばれています。輪廻転生を司る、上位の系統です」


 女神はさらりと言った。さらりと言うほどのことではないはずだが、彼女の口から出るとただの肩書きに見える。


 私は尋ねた。


「……なぜ、そこまでして」


 女神は一瞬、沈黙した。


 その沈黙が、私の胸の空洞を撫でた。言葉よりも雄弁だった。


「あなたは優しすぎた」


 彼女はそう言った。


「優しいから、やり直しました。救えなかったものを救いたくて。取りこぼしたものを拾いたくて。正しくやりたくて」


 胸の奥が、ちくりと痛む。記憶ではなく、感情が戻ってきた。戻る順番が逆だ。普通は記憶が先で感情が後だろうに。


「同時に、愚かでした」


 女神の毒舌が刺さる。だが、否定できない。


「一度で学ぶべきことを、やり直しで誤魔化した。失敗の痛みを、別ルートで塗り潰した。あなたはそうやって、自分の魂をすり減らしました」


 私は反論しようとして、言葉が見つからなかった。反論できるほどの確信がない。私は、そうだった気がする。


 女神は手を伸ばした。


 指先が私の額に触れる――触れたはずなのに、温度がない。それなのに、私の透けかけた輪郭が一瞬だけ濃くなる。


「……今のは」


「維持です」


 女神は淡々と言う。


「あなたをこのまま放置すれば、会話の途中で消えます。それは困る」


「困る?」


 女神は視線を逸らした。ほんの僅かに。


「私はあなたを維持している間、他のことがあまりできません。だから、早く終わらせたい」


 言い方が完全に仕事だ。だが、冷たさだけではない。焦りがある。責任感がある。――そして、多分、ほんの少しの情がある。


 私は苦笑した。


「つまり……私は、厄介な存在ということですか」


「ええ。非常に」


 即答。


「……でも、見捨てないでくれるんですね」


 女神は少しだけ首を傾げる。


「見捨てる理由がありません」


 それは、神の論理。合理。なのに、胸が少しだけ温かくなる。人間は、そういう理屈に弱い。


「あなたを救う方法は一つだけです」


 女神は言った。


「あなた自身が、あなたを取り戻すこと」


 難解な言い回しだ。私は眉をひそめた。


「どうやって?」


「観測です」


 女神が指を軽く振る。


 白い空間の中央に、突如として巨大な黒い板が現れた。いや、板ではない。薄く、縁のない“画面”だ。映画館のスクリーンくらいの大きさがあるのに、支えがない。空中に浮いている。


 次に、ソファが現れる。


 二人掛け。深く沈むタイプの、見るからに座り心地が良さそうなやつだ。さらに、低い丸テーブル。テーブルの上には――湯気の立つカップが二つ。


 私は目を見開いた。


「……急に現れましたね」


「上位女神なので」


 誇らしげではない。事実報告だ。


 女神はソファに腰を下ろした。音もなく沈む。姿勢が良い。長時間座っても疲れない座り方をしている。


「座りなさい」


 私はソファに腰を下ろす。驚くほど柔らかい。体重という概念が曖昧なはずなのに、ちゃんと沈む。座った瞬間、奇妙な安心感が胸に広がった。


 女神がカップを指先で押すようにして、私の方へ滑らせる。テーブルの上を音もなく移動する。


「飲みなさい。あなたの状態だと、喉の渇きは錯覚ですが、錯覚は魂に効きます」


 私はカップを手に取る。温かい。香りがする。これは本物だ。少なくとも、“本物として魂が認識できる程度には”本物だ。


「……観測って何を見るんでしょうか」


 女神はスクリーンを見る。


「他人の人生を見届けます。」


「それを見て、私が自分を取り戻せるのですか?」


 女神はカップを一口飲み、淡々と言った。


「あなたは、転生でしか、魂を擦り減らすことでしか自分を定義できなくなった。だから、あなたが触れてこなかった人生を見なさい」


 私は黙った。


「他人の人生を見て、笑ったり、腹を立てたり、羨ましがったり、呆れたりする。その反応があなたの輪郭になります」


 女神の言葉は冷たいのに、内容は温かい。矛盾している。神というのはそういうものなのか。


 私は恐る恐る聞いた。


「どれくらい観測するんですか」


 私が問うと、女神は即答しなかった。

 少しだけ眉を寄せる。面倒な質問をされた顔だ。


「数が欲しいのですね。人間は本当に数字が好き」


「……目安がないと、不安で」


「不安なのは当然です。あなたは消えかけている」


 淡々と告げられると、逃げ道がなくなる。


「安心しなさい。無限ではありません」


 女神はスクリーンを見たまま言った。


「あなたの輪郭が戻った時点で終わります。終わりは“あります”。ただ――途中で投げ出せば、あなたは消える。それだけ」


 神でも確定はできないらしい。それが魂なのだろう。


 私は苦笑した。


「罰みたいですね」


 女神は肩をすくめる。


「治療です。あなたが出られないのは、罰ではありません。途中で出たら、あなたはただ消えるだけ」


 淡々と言う。淡々と言うから怖い。


 私はスクリーンを見た。黒い。何も映っていない。けれど、黒の奥で何かがうごめいている気配がある。扉の向こう側の気配だ。


「……なぜ、そこまでしてくれるんですか」


 私はまた同じ質問を繰り返した。答えは分かっている気がするのに。


 女神は少しだけ眉を寄せた。


「理由が必要ですか」


「……できれば」


「人間は、本当に面倒ですね」


 毒舌だ。だが、口角がほんの一ミリだけ上がった。笑みではない。観測者が“想定通りの反応”を記録したときの、微かな満足。


「あなたは優しかった。優しい魂は、消えやすい」


 女神は言った。


「だから、私はあなたをここに置きました。あなたが戻れるなら、その方が世界にとっても得です。優しい人間は、愚かでも、価値がある」


 世界にとって得。神らしい言い方だ。だが、胸がまた少しだけ温かくなる。言葉の裏に、個人的な惜しさが見える。


 女神はスクリーンに手をかざした。


 黒い画面が、ゆっくりと明るくなる。光が点になり、線になり、風景になる。音が立ち上がる。


 そこには、人事部と書かれた場所が映っていた。


 ――なぜか、既視感がある。私は息を止めた。


「……これは」


「あなたの最初の観測対象です」


 女神は淡々と告げる。


「“天界庁舎第七ブロック・魔王人事部”。覚えていませんか」


 私は眉をひそめる。急に好きと嫌いという感情が生まれた。矛盾している。


「覚えていません」


「今はそれでいいでしょう」


 女神はカップを置く。


「観測を始めます。あなたが何を思うか、私が記録します」


 女神の指先が、空中をなぞる。そこに半透明のパネルが現れた。文字が浮かぶ。


【観測ログ:第1件】


 私は喉を鳴らした。


「……私は、ここから出られるでしょうか」


 女神は、こちらを見ずに言った。


「出られます。あなたが“あなた”に戻れたら」


 スクリーンの映像が鮮明になる。


 窓口の向こうで、誰かが深呼吸をした。糊の効いた白いローブの袖を整え、営業スマイルを作る。


 その顔を見た瞬間、胸の奥が小さく疼いた。


 女神が淡々と宣言する。


「――第1観測、開始」


 白い部屋で、観測が始まる。


 私はソファに深く沈み込み、息を吸った。

 まだ、消えてはいけない。

現在実施している短編100本ノックですが、こちらでオムニバス形式で公開していきます!

短編はこちらで投稿しますので引き続きお願いします!

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