第0観測:白い部屋
白かった。
それは光ではなく、意味の抜け落ちた色だった。
白という色が、世界を塗り潰したみたいに、どこまでも白い。壁も床も天井もなく、境界線すらない。光源の位置も分からないのに、影だけが薄く落ちる。ぼんやりとした白の中に、私は立っていた。
――いや。「立っている」という感覚すら、怪しい。
足裏の接地感がない。重力があるのかないのか、よく分からない。なのに、なぜか“ここにいる”という事実だけがはっきりしている。
私は自分の手を見た。
指先が、少し透けている。
ガラス越しに見る煙のように、輪郭が揺らいでいる。風が吹けば、薄くほどけて消えてしまいそうだ。怖い、という感情が、遅れて胸に湧いた。
――怖い?
その感情すら、私のものだろうか。
私は名前を思い出そうとした。口を開き、喉を鳴らし、言葉を探す。
「……」
何も出ない。
自分の名前が、そこにはなかった。まるで最初から存在しなかったかのように、空白だけがある。名前だけじゃない。出身も、年齢も、顔も。思い出そうとすればするほど、手の届かない霧の中へ指を突っ込む感覚になる。
けれど、奇妙な“確信”だけが残っていた。
私は、やり直してきた。
何度も。何度も。何度も。
なぜ分かるのかは分からない。ただ、身体に染みついた癖のようにそれが分かる。人は一度しか生きない――そんな常識を私は、どこかで鼻で笑っていた気がする。
次はもっと上手く。
次はもっと正しく。
次はもっと効率よく。
そんな言葉が、脳内で反響する。
そして、それを繰り返した末に、今の私がいる。
白い空間に、溶けかけた影だけがある。
自分が何者か分からないのに、後悔だけはある。誰かを救えた気がする。誰かを救えなかった気もする。世界を変えたことも、壊したこともある気がする。断片だけが、硝子片のように散らばっている。
私は無意識に、胸のあたりを押さえた。
心臓があるはずの場所に、空洞がある。
そこから、音が聞こえた。
「まだ消えていませんね。良かった」
声は、前からでも後ろからでもなく、空間そのものから降りてきた。柔らかいのに冷たい。慈悲と無機質な確認が同居した声だ。
私は振り向いた。
そこに、女性がいた。
――“女神”という言葉が一番近い。ただ、私の想像していた女神とは違う。
冠もない。翼もない。後光もない。白い衣が翻っているわけでもない。むしろ静かだ。凍る直前の水面みたいに、動きがない。なのに、彼女の周囲だけ空間が僅かに歪んで見えた。焦点が合わない。目が勝手に逸らされる。
理解したくないのに理解してしまう。
この存在は、こちら側の常識に収まらない。
女神は私を眺め、淡々と言った。
「随分と擦り減りましたね」
いきなり痛いところを突かれた。私は反射的に言い返そうとしたが、言葉が出ない。出ないというより、出し方が分からない。
女神はため息をついた。人が“面倒な書類”を見るときのそれに似ていた。
「まず、確認します。あなたは自分の名前を言えますか?」
私は首を振った。
「自分が何をしてきたか、説明できますか?」
首を振る。
「……そうでしょうね。記憶の索引が溶けています」
索引。妙に事務的な単語が、白い空間に落ちる。
女神は私を見た。
見た、というより、透視した。皮膚の奥の奥、魂の芯を計測する目だ。
「あなたは――転生を繰り返しました。それはもう何度も」
その単語を聞いた瞬間、胸の奥で何かがピクリと動いた。嫌なほど馴染みがある。私はそれに誇りすら感じていた気がする。
「何度も転生……」
私の声が出た。かすれた声だった。自分の声を初めて聞いたみたいに、少し驚く。
女神は微笑まなかった。かわりに、軽蔑するでもなく、ただ“評価”を下した。
「ええ。転生を繰り返すこと自体は、禁止ではありません。輪廻の制度は柔軟です。愚かであり、優しくもあります」
毒舌が混ざった“制度説明”をする。
「ただし――」
女神が一歩近づく。足音はしない。彼女が動いたのではなく、空間が彼女に合わせたように見える。
「転生し過ぎると、魂が擦り切れます。本来は、人は一度で十分なのに」
“十分”という言い方が、妙に刺さった。私は笑って誤魔化したかったが、笑う筋肉が思い出せない。
女神は続ける。
「あなたは世界を救ったことがあります。複数回。しかも、かなり上手に」
その言葉に、胸が熱くなる――はずだった。けれど、熱さは来ない。ただ、空虚な誇りの残骸がひらひらと落ちていく感覚だけがある。
「同時に、世界を壊したこともあります。複数回。しかも、かなり派手に」
私は口を開いた。
「……覚えてない」
「でしょうね。覚えていたら、もっと早く立ち止まれたのでしょう」
女神は淡々と切り捨てた。だが、その声には、ほんの僅かな疲労が滲んでいた。
私が白い空間を見回す。
「ここは……どこですか」
「観測室です」
「観測室……?」
「“天界観測室”。あなたの魂が消える前に、ここへ避難させました」
避難。その言葉が現実味を帯びる。つまり私は、今まさに“消えかけている”。
私は自分の手を見る。指先が先ほどより透けている。気のせいではない。私の存在は、時間経過で崩れていく。
「……消えるって、どういう」
女神は首を傾げた。
「そのままの意味です。正しく輪廻に戻れず、完全な無に戻る。あなたが“あなた”である痕跡が消える」
私は吐き気に似た感覚を覚えた。魂に胃はないのに。
「消えたくない...」
無意識だった。言ってから自分が消えたくないことに気づいた。
女神は、少しだけ目を細めた。
「消えないように助けています。今も」
その言葉は静かだったが、重かった。事実だけが乗っている。
「あなたの魂は、本来なら既に崩れているはずです。消えかけた魂を維持するのは、どんな神にとっても難しい。……そのへんの神なら、まず無理」
そう言い切るところに、彼女には“上位”である自覚がある。誇示ではなく、当たり前として。
「あなたは普通の女神ではないのですか」
「そう呼ばれています。輪廻転生を司る、上位の系統です」
女神はさらりと言った。さらりと言うほどのことではないはずだが、彼女の口から出るとただの肩書きに見える。
私は尋ねた。
「……なぜ、そこまでして」
女神は一瞬、沈黙した。
その沈黙が、私の胸の空洞を撫でた。言葉よりも雄弁だった。
「あなたは優しすぎた」
彼女はそう言った。
「優しいから、やり直しました。救えなかったものを救いたくて。取りこぼしたものを拾いたくて。正しくやりたくて」
胸の奥が、ちくりと痛む。記憶ではなく、感情が戻ってきた。戻る順番が逆だ。普通は記憶が先で感情が後だろうに。
「同時に、愚かでした」
女神の毒舌が刺さる。だが、否定できない。
「一度で学ぶべきことを、やり直しで誤魔化した。失敗の痛みを、別ルートで塗り潰した。あなたはそうやって、自分の魂をすり減らしました」
私は反論しようとして、言葉が見つからなかった。反論できるほどの確信がない。私は、そうだった気がする。
女神は手を伸ばした。
指先が私の額に触れる――触れたはずなのに、温度がない。それなのに、私の透けかけた輪郭が一瞬だけ濃くなる。
「……今のは」
「維持です」
女神は淡々と言う。
「あなたをこのまま放置すれば、会話の途中で消えます。それは困る」
「困る?」
女神は視線を逸らした。ほんの僅かに。
「私はあなたを維持している間、他のことがあまりできません。だから、早く終わらせたい」
言い方が完全に仕事だ。だが、冷たさだけではない。焦りがある。責任感がある。――そして、多分、ほんの少しの情がある。
私は苦笑した。
「つまり……私は、厄介な存在ということですか」
「ええ。非常に」
即答。
「……でも、見捨てないでくれるんですね」
女神は少しだけ首を傾げる。
「見捨てる理由がありません」
それは、神の論理。合理。なのに、胸が少しだけ温かくなる。人間は、そういう理屈に弱い。
「あなたを救う方法は一つだけです」
女神は言った。
「あなた自身が、あなたを取り戻すこと」
難解な言い回しだ。私は眉をひそめた。
「どうやって?」
「観測です」
女神が指を軽く振る。
白い空間の中央に、突如として巨大な黒い板が現れた。いや、板ではない。薄く、縁のない“画面”だ。映画館のスクリーンくらいの大きさがあるのに、支えがない。空中に浮いている。
次に、ソファが現れる。
二人掛け。深く沈むタイプの、見るからに座り心地が良さそうなやつだ。さらに、低い丸テーブル。テーブルの上には――湯気の立つカップが二つ。
私は目を見開いた。
「……急に現れましたね」
「上位女神なので」
誇らしげではない。事実報告だ。
女神はソファに腰を下ろした。音もなく沈む。姿勢が良い。長時間座っても疲れない座り方をしている。
「座りなさい」
私はソファに腰を下ろす。驚くほど柔らかい。体重という概念が曖昧なはずなのに、ちゃんと沈む。座った瞬間、奇妙な安心感が胸に広がった。
女神がカップを指先で押すようにして、私の方へ滑らせる。テーブルの上を音もなく移動する。
「飲みなさい。あなたの状態だと、喉の渇きは錯覚ですが、錯覚は魂に効きます」
私はカップを手に取る。温かい。香りがする。これは本物だ。少なくとも、“本物として魂が認識できる程度には”本物だ。
「……観測って何を見るんでしょうか」
女神はスクリーンを見る。
「他人の人生を見届けます。」
「それを見て、私が自分を取り戻せるのですか?」
女神はカップを一口飲み、淡々と言った。
「あなたは、転生でしか、魂を擦り減らすことでしか自分を定義できなくなった。だから、あなたが触れてこなかった人生を見なさい」
私は黙った。
「他人の人生を見て、笑ったり、腹を立てたり、羨ましがったり、呆れたりする。その反応があなたの輪郭になります」
女神の言葉は冷たいのに、内容は温かい。矛盾している。神というのはそういうものなのか。
私は恐る恐る聞いた。
「どれくらい観測するんですか」
私が問うと、女神は即答しなかった。
少しだけ眉を寄せる。面倒な質問をされた顔だ。
「数が欲しいのですね。人間は本当に数字が好き」
「……目安がないと、不安で」
「不安なのは当然です。あなたは消えかけている」
淡々と告げられると、逃げ道がなくなる。
「安心しなさい。無限ではありません」
女神はスクリーンを見たまま言った。
「あなたの輪郭が戻った時点で終わります。終わりは“あります”。ただ――途中で投げ出せば、あなたは消える。それだけ」
神でも確定はできないらしい。それが魂なのだろう。
私は苦笑した。
「罰みたいですね」
女神は肩をすくめる。
「治療です。あなたが出られないのは、罰ではありません。途中で出たら、あなたはただ消えるだけ」
淡々と言う。淡々と言うから怖い。
私はスクリーンを見た。黒い。何も映っていない。けれど、黒の奥で何かがうごめいている気配がある。扉の向こう側の気配だ。
「……なぜ、そこまでしてくれるんですか」
私はまた同じ質問を繰り返した。答えは分かっている気がするのに。
女神は少しだけ眉を寄せた。
「理由が必要ですか」
「……できれば」
「人間は、本当に面倒ですね」
毒舌だ。だが、口角がほんの一ミリだけ上がった。笑みではない。観測者が“想定通りの反応”を記録したときの、微かな満足。
「あなたは優しかった。優しい魂は、消えやすい」
女神は言った。
「だから、私はあなたをここに置きました。あなたが戻れるなら、その方が世界にとっても得です。優しい人間は、愚かでも、価値がある」
世界にとって得。神らしい言い方だ。だが、胸がまた少しだけ温かくなる。言葉の裏に、個人的な惜しさが見える。
女神はスクリーンに手をかざした。
黒い画面が、ゆっくりと明るくなる。光が点になり、線になり、風景になる。音が立ち上がる。
そこには、人事部と書かれた場所が映っていた。
――なぜか、既視感がある。私は息を止めた。
「……これは」
「あなたの最初の観測対象です」
女神は淡々と告げる。
「“天界庁舎第七ブロック・魔王人事部”。覚えていませんか」
私は眉をひそめる。急に好きと嫌いという感情が生まれた。矛盾している。
「覚えていません」
「今はそれでいいでしょう」
女神はカップを置く。
「観測を始めます。あなたが何を思うか、私が記録します」
女神の指先が、空中をなぞる。そこに半透明のパネルが現れた。文字が浮かぶ。
【観測ログ:第1件】
私は喉を鳴らした。
「……私は、ここから出られるでしょうか」
女神は、こちらを見ずに言った。
「出られます。あなたが“あなた”に戻れたら」
スクリーンの映像が鮮明になる。
窓口の向こうで、誰かが深呼吸をした。糊の効いた白いローブの袖を整え、営業スマイルを作る。
その顔を見た瞬間、胸の奥が小さく疼いた。
女神が淡々と宣言する。
「――第1観測、開始」
白い部屋で、観測が始まる。
私はソファに深く沈み込み、息を吸った。
まだ、消えてはいけない。
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短編はこちらで投稿しますので引き続きお願いします!




