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罪を背負って転生した俺、神の脚本を壊して世界を救う。  作者: 妙原奇天
第三章:神の脚本

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第9話「神の脚本」

 塔の上層での短い対峙ののち、女騎士と別れたリセは、祈祷文庫の裏手に開く小さな通風孔から身を滑り込ませ、学匠宿の中庭で待っていたトーマと合流した。夜はまだ黒く、鐘は黙っている。二人は言葉少なに頷き合い、灯りを殺した手持ちのランプに布を重ねると、理の塔の地階よりさらに下——一般には存在すら伏せられている基底層へ向かう階段を降りた。石段は人の体温を覚えている。最近、たくさんの足がここを通ったということだ。支配は、静かな場所を先に温める。


 扉はなかった。階段の終わりに、湿りを含んだ空気の厚みだけが「関門」の役を果たしていた。足を一歩踏み入れたとたん、音が変わる。上階の石は音を弾いたが、ここでは逆だ。石が音を飲み、腹の底へ返す。低い。重い。底鳴りの方向へ視線を向けると、そこには石の柱に巻き付くように並ぶ譜柱があった。一本ごとに街区や職能、季節の祭礼に対応した“運用台本”が彫り込まれている。柱は森の幹のように高く、面ごとに別の時代の手が入っている。古い文字の上に新しい語が刻まれ、削られた痕は白く、追記は黒く、どちらも等しく冷たい。


 トーマが息を呑む。「……神の言葉ではない。人の合意の堆積だ」


 リセは柱の文字溝に指を滑らせた。溝は滑らかで、場所によっては指先が勝手に節を取ろうとする。読みやすい節は、失敗のたびに磨耗し、政変のたびに尖り、最短で“後悔しない手順”だけが太字になる。やがて太字は「教義」と名を変え、誰の手からも離れ、柱のほうから人を導くように見せかける——そんな曲線が、石に残っていた。神の声はどこにもない。あるのは「みんなが楽に後悔しないため」に作った手順が、いつのまにか「みんなを楽に後悔させ続ける」仕組みに組み替わってしまった痕跡だ。


 耳の奥で、いないはずの秒針が回る。リセは懐中時計を握り、鼓動を柱に重ねた。銀糸はここでは細い糸ではない。編み縄のように太く、柱から柱へと自走し、誰の手も介さず意志のようなものを持って動いている。ヴォルクの「印象の作曲」は、たしかに強い。しかし、その権能の土台は、この集団的脚本に違いない。譜柱が街を、街が人を、そして人が神の席を埋める。


 奥の小房に、破られた羊皮紙が束ねられていた。湿りで波打った束の余白に、小さな文字が同じ角度で繰り返されている。震える筆圧。焦りに似た均一。「代償は記憶。躊躇うな」。第一章の修道院で見た走り書きと同じだった。トーマが顎に手を当て、紙の縁の黄変具合を目で測る。


「筆跡は古い。二十年前には、既にここにあったはずだ」


 二十年前——前世の終幕の頃。冬の光の匂いが、胸の奥で灯りの残る傷と触れ合う。羊皮紙の端に、小さな花の印が押されていた。細い花弁が四つ、中心でねじれて結んでいる。前世で救えなかった少女が身につけていた髪飾りと同じ意匠。偶然と呼ぶには出来すぎている。彼女はここに来ていた。あるいは、彼女自身が控え譜の担い手だったのか。リセの指先が印に触れる。紙は人の皮膚の温度をまだほんの少しだけ覚えていた。


 さらに奥へ進む。譜職人スクリプターたちの作業場にあたる区画は、今は空だが、仕事の匂いが残っている。金属製の枠が並び、枠の間に水晶片が織物のように編み込まれていた。近づくと、微弱な音が出る。音は、聴こうとする耳の角度に合わせて高さを変える。トーマが思わず膝に手をついた。


「共鳴印刷機だ。音で“合意”を刷る装置。……“神託”が民に響いた仕組みは、実際には音の印刷だったんだ」


 祈りは紙ではなく、聴覚の規格で街に配られていた。だから塔は鐘を持ち、新聞は翌日それを文字で追認する。ヴォルクは音で「印象」を、新聞は文字で「正史」を。それが二重の定着。二重の定着こそが“神の脚本”の正体。神は象徴に過ぎず、神の席を埋めているのは社会そのもの。人が楽に後悔しないために作った手順が、やがて「誰もが同じ拍で後悔する」ように調律された、自己目的化した装置——そう言い切れるだけの証拠が、ここにある。


「見ろ」とトーマが床を指した。石に浅い傷が重なっている。短い線が幾本も交わり、やがて“R”のかたちを作っていた。爪で刻んだような、浅く鋭い切り口。リセは膝をつき、指を当てる。温度。トーマの涙に似た、人の体温の残り。誰かが、ここに埋めた記号。彼は目を閉じ、秒針をわずかに戻した。音が一拍だけ巻き戻り、低い笑い声と、さらに小さな歌が浮かぶ。風のような、子どものような、あるいは祈る者のような。輪郭は掴めない。だが「誰かが“R”に宛てた音」である確かさは、胸を刺すのに十分だった。


 代償が落ちる。冬の光の匂いが、ふっと消える。代わりに、譜柱の底鳴りが輪郭を増した。低音に、用途が付く。柱が何のためにあるのか、どこからどこへ人を押すのかが、音の向きでわかる。リセは静かに息を吐いた。


「神は装置だ」


 自分の声が石に吸われ、戻ってくるまでの時間に、言葉が鍛えられる。


「装置は、壊せる」


 トーマは頷いた。頷く角度は小さいが、重さはあった。


「壊せるが、置き換えないと街は崩れる」


 壊した先の沈黙が生む暴力——二人とも、その気配がどれほど速く広がるか、直感で恐れていた。遅延の窓は、人の群れにも必要だ。壊すと同時に、群れの拍を保つ別の仕掛けを用意する。それができなければ、救いは長く続かない。


 作業場の隅で、クレイが床に耳を当てるように伏せた。土の体に微かな振動が伝わっている。巡回の歩みではない。もっと尖った、針の束のような足音。名の輪郭を削る音が近づく。律衛——ヴォルク直属の衛士。彼らの奇妙な器具は、空気を撫でるだけで音を生み、触れた者の名を譜に固定する。固定は譜の食事。食事は譜を太らせる。


 帰路を変える必要があった。二人は作業場を抜け、譜柱の列の間の狭い通路へ滑り込む。石の目地は乾き、足音は出ない。曲がり角をひとつ過ぎたところで、灰外套の影が左右から差し込んだ。狭い。楽器の先端がこちらを向く。空気が薄くなる。名の譜の音は、喉の奥の母音に触れる角度で来る。触れられれば、名前の支柱が一本折れる。


 リセは懐中時計の蓋を開き、秒針を「止める」というより「差し込む」。音の芯——名の輪郭を削る震えの中心だけを摘み取り、壁へ移す。譜柱は音を飲むが、通路の壁は未加工だ。石が名持ちになる。器具の音は石へ吸われ、律衛の視線が一瞬泳いだ。名を削る先が「壁」になったと理解するまでの、ほんの半拍。その隙にクレイが床を滑り、器具の三脚にまとわりつく。乾いた金具の音。脚が一本外れ、器具は傾き、音が消える。律衛は即座に予備の小型器具に手を伸ばしたが、トーマが先に動いた。共鳴印刷機の枠から小さな水晶片を一枚はね、空気の結び目へ投げ込む。水晶が音を逆相で噛み、削り音の歯が鈍る。


「退け」と、先頭の律衛が小さく言った。撤退ではない。秩序ある後退。彼らは敗北を学ぶ訓練を受けている。敗北の印象を最小限に抑え、次の印象のほうへ自分を置き直す。印象の作曲に仕える者は、負け方も譜面どおりだ。


 狭い通路に短い沈黙が落ちる。紙が焦げる匂いはない。ただ、人が「ここで名を落としそうになった」記憶の生臭さだけが、石の間に薄く残る。リセは懐中時計を閉じ、クレイの額に指を二拍。余白の位置。クレイが短く鳴き、土の尾をふる。


 勝った感覚は薄い。勝利は、いつも虚無だ。だが今夜は、その虚無の底に手触りがあった。譜柱の低音。水晶片の逆相。基底層を満たす、集団的脚本の体温。彼らは脚本の製本台の高さまで降りてきたのだ。どの紙がどの綴じ糸で留められ、どの頁が誰の判断で抜かれ、どの余白に誰の涙が染みているか——ようやく、触れてわかる場所へ。


 戻る途中、トーマが低く言う。


「共鳴印刷機を止める術はある。音の規格を崩せば、鐘と新聞の二重定着は乱れる。だが、乱れた拍は、群衆を不安にする。恐怖の低音は、印象の作曲より速く広がる」


「だから、控え譜だ」とリセ。「緩い旋律で、休符を配る。壊すのではなく、遅らせる。遅延は、印象にも効く」


「遅延で足りるか?」


「足りない。だが、今はそれしかない」


 基底層の出入口に近づくと、上から冷たい空気が流れてきた。夜はまだ動いている。塔の上層では、ヴォルクが新しい印象の素材を選んでいるに違いない。赤い布は剝がされ、別の色が準備され、名の譜は磨かれ、新聞の見出しの文字数は削られ、足される。街は眠っているが、紙は眠らない。


 階段の底で、リセはもう一度だけ振り返った。譜柱は黒く、重く、黙っている。だが黙ることは反抗ではない。装置は、音を出さなくても働く。働くなら、壊せる。壊すなら、置き換える。置き換えるなら、温度を持たせる。温度は涙から採る。涙は、ここでも確かに残っていた。床石の“R”。爪で刻まれた短い線。彼は胸の内側でそれを撫で、階段へ足をかけた。


 地階の踊り場で、女騎士の影が壁を横切った。名はまだ戻らない。だが影の歩幅は一定だ。一定のものだけが、遅延の味方になる。トーマが肩越しに言う。


「君の“名”は、今、どこまで残っている?」


「……リセ、だ」


 “ル”の穴は深く、舌がそこで一度沈む。トーマは頷いた。返事は短く、言外の震えは長い。二人は無言で地上へ出る。夜風は薄く、遠くで紙の束を縛る音がした。印刷所。紙は嘘をつく。だが、紙は温度も覚える。誰かが握った手の汗、涙の塩、書き手の癖。その全部が、明日の見出しに混ざる。


 学匠宿に戻る途中、リセは懐の紙片を確かめた。「Rに捧ぐ」。走り書きの角度は、今も胸にしがみつく。虚無の真ん中に置ける唯一の重み。彼はそれを、次の鍵穴へ持ち込むつもりだった。神の脚本は装置、装置は壊せる。壊すなら、遅らせながら。遅らせながら、置き換えの骨組みを立てる。鐘を黙らせ、新聞に皮肉を刷らせ、譜柱の低音に別の和音を混ぜる。虚無の勝利が続く限り、彼の勝利は温度しか持たない。だが今夜、その温度は確かに増えた。基底層は冷たい。けれど、冷たい石でも、涙を吸えば少しだけぬるくなる。装置の心臓がどこにあるかを、彼は知った。そこへ、刃ではなく、休符を運ぶ。


 クレイが足もとで尾を二拍。余白の位置。リセは頷き、歩幅を一定に戻した。塔の上では、また印象の曲が始まるだろう。ならこちらは、次の休符の場所を探すまでだ。神の脚本は鳴り続ける。けれど、その音のに指を差し込める者が、今はここにいる。

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